クィーン

 脳みそとは、出来の悪い学習机のようなオブジェクトである。記憶をしまっておく引き出しがあり、思考という作業をする為の天板がある。しかし、大抵の場合において、それらは期待したほどの効果を発揮しない。引き出しから出した物が入れた時と全く同じ形を留めていたためしが無いし、天板も満足のいく作業をするには狭く、形が歪になっている事だって珍しくない。そういったないない尽くしの不完全な物を、私は仕事で二十年余り酷使している。

「・・・まで。先手、山村健司六段の勝利となります」

 後手番の頭が下がったのを見て、読み上げの女流棋士が私の勝利を告げた。感想戦では、もしも打たれていたら厳しかった手と、今回の『詰めろ』に対しての打開策を軽く話し合い、対局場を離れた。ネクタイを少し緩め、細く長く息を吐いた。今回も私の脳みそは何とかその仕事を果たしてくれたらしい。外に出ると、西日が瞼を刺した。ホテルに帰る道すがら、コンビニでチョコレートケーキを買う。脳が糖分を欲しているのを感じるのだ。いつ焼き切れてもおかしくないからなと、自嘲気味に思う。

 はっきり言って、限界を感じていた。若い頃はよかった、頭を使えば使うほどに強くなっていく実感があった。そして実際にそうだったのだろう。あの頃はまだ引き出しにも余裕があり、天板も美しく整っていた。そこから時を経るにつれ、徐々に私の学習机は劣化しだしたのだ。昔取った杵柄で戦うにも限界がある。それを応用するだけの力すら私には残っていない。いや、むしろそんな技量は端から持ち合わせていなかったのかもしれない。

 ホテルに戻り、パソコンを開き、棋譜解析のソフトを立ち上げた。ローディング中に手を洗い、ケーキを手掴みで口に運ぶ。ソフトに今日の棋譜を解析させる。昨今は一手一手に評価値というのをソフトがつけてくれ、それによって状況の有利不利が明確に数値化されている。

「これ不利なのか」

 自分では好手だと思っていた一手の評価値がかなり低いものであった。ソフトによる後手番の予想手に目をやり、熟考すると、確かに逆転の可能性を残してしまう一手であることが確認できた。もう人間が考える時代ではないのだなと、こういう時に痛感する。人が思考し、答えを探すのではなく、コンピューターが答えを出し、それをいかに詰め込むのかという戦いをする時代にシフトしているのだ。

「不利だよな」

 苦笑する。将棋の手ではなく、もはや詰め込む余裕のない引き出しを想って出た言葉だ。いつ忘れてもおかしくない棋譜を見終わり、時間を見る。レストランの予約時間が迫っていた。


 気が付くと、真っ暗な世界にいた。すぐに目を閉じているからだと気付き、瞼を開ける。焦点の合わない視界に、人型の影がいくつか映り、その奥に白い無機質な印象の天井が見えた。

「気が付いたんだな」

 男の声がする。

「頭は痛みますか」

 白衣を着た別の男が言う。その声の主が幾らか質問をしてくる。俺の体調の良し悪しをはかる質問ばかりだ。答えながらふと、疑問が湧いてきた。それは他の何よりも大切なことだ。俺は医者の声を遮ってこう言った。

「俺は誰だ?」


 俺の家だという場所に友人だという男が案内をしてくれた。病院で目覚めた時に医者と一緒に居た男だ。高橋徹というらしい。この男との食事の約束をしていた日に俺は事故に遭ったらしかった。

「鍵はそれだ、中くらいの大きさのやつ。そう、それ」

 キーケースから鍵を出し、鍵穴に入れ、回す。本当に自分の家なのだなと感じる。ドアを開けて、沓脱に入った。靴箱やその上の小物入れなどに目を向けると、その視線に気付いた高橋が声をかける。

「何か思い出すか?見覚えがあるものとかさ」

 俺は何も答えず家の中に進み、リビングと思わしき部屋に入る。部屋の中全体を見まわしてからかぶりを振った。どれも見たことのないものばかりだ。しかし、程よく整頓された部屋やこぎれいな調度品は確かに自分の好みに合うものだ。そして、本棚に目を向けると、娯楽の為の小説や雑誌は一冊もなく、将棋に関する本ばかりが所狭しと並べられている。自分が何者なのかはもちろん聞いていたが、こうして見ると、本当に自分が将棋と共に生きてきたのだと思わされずにはいられなかった。

 俺はどうやら記憶喪失らしかった。解離性健忘というやつで一般常識的なことは覚えているが、自分自身に関する一切を忘れてしまっているようだった。病院で将棋の中継を見たが、ルールこそ分かるが詳しい戦術のことは何も思い出せなかった。それだけ俺自身に深く根付いてしまっていたからなのだろう、今の俺は素人同然だった。

「これからどうやって生きていけばいいんだろうな」

 社会に出た経験もなく、友人も少ない。将棋一筋で生きてきたのにそれすら失ってしまった。今までの俺は既に死したと言っても過言ではないのに、これからも死を待つ事しかできない。正に八方塞がりと言ってよかった。

「もう一度、将棋をやる気はないのか」

 俺は首を横に振りながら答えた。

「これまで積み上げた戦績を別の人間と言っていい俺が改変してしまって良い訳が無い。それに、負けず嫌いな性格が変わったわけじゃないからな。俺は俺自身で常に以前の自分と比較し、負け続ける羽目になるのはごめんなんだ」

「じゃあ俺の会社で働くか?そりゃあ給料は期待してもらっちゃ困るが生活に困らない程度の金なら払ってやれるぜ」

 願ってもない提案だった。俺は二つ返事で了承し、高橋が経営している会社に入社することになった。


 高橋の会社に入社してひと月が経った。当面の生活には苦労しないだけの貯金はあったし、高橋から聞いた給料の概算も思っていたよりは酷くなかった。しかし、俺は明らかに退屈していた。仕事はそれ自体苦痛なものではなかったが、そもそも勝負事の世界で生きてきた人間であったし、生来の気性が戦うことを好んでいたのだろう、まるで狩りを禁じられた野犬のように、何の変哲もない日々の繰り返しという起伏のない日常に俺は飽いて来てしまったのだ。

「仕事はどうだ」

 居酒屋のカウンターでビールをあおりながら高橋が俺に聞く。

「慣れない事ばかりだがなんとかやってるよ」

 枝豆をつまみ、俺は答えた。記憶を失った俺の身の回りの世話をし、挙句の果てに仕事まで与えてくれた気のいい友人に本音を言う訳にはいかなかった。

「お前正直飽きてるだろ」

 あまりにもまっすぐな指摘に言葉が出なかった。意外にもこの友人は観察眼が鋭いらしい。

「お前は知らないと思うが、俺はもう何十年とお前を見てるんだ。仕事に身が入ってないことぐらい気付くし、正直言ってこうなるだろうと思いながら仕事を世話したさ」

「すまない」

「構わないさ。こっちは給料分仕事をしてくれれば何も言わん。ただな」

 言葉を切ってビールを一口飲む。

「仕事をしながらで良いから、何か趣味でもやればいいと思うぜ。それが将棋じゃなくても、だ」

 友人はまたジョッキを傾けた。次に口を開いたときは昨今のニュースに話題が移っていた。

 他愛もない話をしばらくした後で家に帰り、部屋の明かりをつけた。もう見慣れた部屋を見まわし、アルコールで脳の働きが鈍っているのを感じながら、先の高橋の言葉を反芻する。

「趣味、か」

 本棚を見つめながら呟いた。視線はその中の一冊に吸い寄せられた。


 土曜日の朝、仕事が休みであるその日に俺は一冊の本を手にしていた。チェス入門と書かれた表紙を開き、読みふけった。それはなんとも単純な動機だった。勝負事がしたいが、将棋はしたくない。で、あれば似たもので代用するという至極単純な理由でチェスを始めることにしたのだ。

 買った理由すらわからないその本のとある一節が俺の脳にこびりついた。『チェスには最強の駒が明確に存在します。クィーンはキングのように勝敗に直結する駒ではありませんが、最強の駒としてチェスを象徴する駒であり、プレーヤーはクィーンのように強くあることを目指します』

 俺は将棋棋士である自分がどんな人間であったのかは知らない。しかし、最強を志す心が確かに己に備わっていることは直感していた。気付くと我を忘れて本に没頭していた。クィーンになるために、俺の学習机は生まれ変わったのだ。

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