カメラ
ファインダーを覗いてから、シャッターボタンを人差し指で押し込む間の緊張が好きだ。今見えている情景、人、モノ、そしてそこに漂う空気を丁寧に切り取り、四角い二次元の箱に収める作業がたまらなく好きだ。俺はその日もまた、放課後に被写体を探していた。被写体と言っても人でも風景でも何でも良かったのだ、美しくさえあれば。
昇降口を出て、右手の体育館へ向かうバスケ部員たちを背に左へ曲がる。そのまま真っ直ぐ行けば校門があるが、そこをまた左へ折れる。ややきつめの上り坂があり、その坂は裏山へと続いている。俺はその裏山から見下ろす景色を撮ろうと思っていた。この高校はただでさえ山の上にあり、そこからの景色を売りにしているのだから、そこからさらに上ったところから見える景色はさぞかし綺麗なのだろうというシンプルな推測が動機だった。
坂を上がりきり、山に入る前に、スクールバッグからジャージを取り出した。制服を汚すことだけは避けたかったのだ。二日前の雨のせいで土は微妙にぬかるんでいることが予想された。まだ汗ばむ季節で正直なところ薄着でいたかったが仕方がない。制服の上からジャージを着こみ、カメラとついでに除菌シートも取り出してポケットに入れる。軽い潔癖症の俺にとっては必需品だ。そこまで準備を整えて、裏山の中に入り細い道を歩き出した。こういう道は何と呼ぶのだろう、アスファルトで舗装されているわけではない、土を踏み固めたようにして作られた道を進みながら思う。
少し登ったところで振り返り、景色を見てみる。やや柔らかい地面に靴の踵をねじ込むようにして後ろを向くと、眼下に広がったのは少しの木々と、その間から見える学校と校庭、そしてその下の住宅街だった。何ということも無い景色だ、と思った。カメラを向ける気にすらならなかった。美しいものは、脳に描いた映像と全く違うから美しいのだ。俺はまた爪先を山の頂上に向けて歩き出した。その瞬間、俺は足を滑らせ、うつ伏せに倒れた。先程振り返ったせいで水気を含んだ緩い地面が浅く掘られ、その泥で靴底が滑ったのだ。幸いカメラは腕で咄嗟にかばうことができたが、代わりに俺は顔面から斜面に突っ込む形になった。強かに大きめの石に顔を打ち付け、鈍く鋭い痛みで目の前が一瞬真っ白な闇に包まれた。口の中にも鉄の味が広がり、鼻にツンとしたものがこみ上げる。カメラに気を使いながら片腕だけで体を起こす。最悪の気分だ。カメラと手を除菌シートで拭きながらそう思った。もう被写体を探すどころではなかった。痛みと情けなさで涙が溢れそうになる。一刻も早く家でシャワーを浴びたい。俺は拭き終わったカメラをケースに入れ、それをカバンの中に放り込んだ。頬がジンジンと音を立てているような気がして、除菌シートで顔の怪我と泥を拭くためにスマートフォンの内カメラを見る。画面に映ったのは顔の左半分を泥と血に穢され、更には頬まで腫れ上がったひどいありさまの俺だった。しかし、不思議と嫌悪感は抱かなかった。普段なら少しの汚れも許さず、水たまりを踏もうものなら蕁麻疹の出るこの俺が、なぜかこの醜悪な仮面に不思議な魅力を感じていた。俺は痛みを一瞬忘れ、恍惚として親指でシャッターボタンを押した。
会社帰りの電車の中、明日はどこへ写真を撮りに行こうかと考えながら、スマートフォンを起動させた。画像フォルダを開き、過去に撮った写真たちを眺める。もちろんここにあるものが今まで撮った全てでは無い。選りすぐりのものばかりを保存したフォルダだ。そしてその最奥には、何かを思い知らされた瞬間の男の顔がそこにはあった。
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