自己
「死ぬことにしました」
そう最後の行に書いた便箋を封筒に入れ、オフィスのある部屋を出た。手にした封筒の表には大きく遺書と書いた。あまり綺麗では無い字だが、まぁいい。非常階段を昇ると、革靴とコンクリートの階段がどれほど気を付けても音を立てる。こんな深夜のビルに誰がいる訳でも無いだろうが、水を差される可能性を少しでも排除するため靴を脱いで階段を昇ることにした。
屋上のドアの前の踊り場で少し息を整える。運動不足の身体は、10階のオフィスから14階の屋上に上がるだけで悲鳴をあげた。ドアを開ける。10月の夜風が冷たく頬を切り裂くのを感じながら、フェンスに沿って歩く。丁度ドアの位置から最も遠く離れたフェンス際まで来た時、ここにしようと思った。なんとなく見下ろす景色が綺麗に見え、人や車が通りそうにない路地が真下にあったからだ。先程から手にしていた靴を揃えて置き、その踵の下に封筒を挟む。本当に自殺する人間はこんな事はしないと、何かで聞いたことがあるが、こうするより他の方法を知らなかった。
フェンスに手をかけ、登る。ギシギシと金網が音を立てた。乗り越え、慎重に降りる。自分の意思で死にたいのだ、ここで滑り落ちる訳にはいかない。無事に足がつき、降りることが出来た。フェンスを背にして下を見る。高所恐怖症では無いのに足がすくんだ。深呼吸をする。体が震える。吐く息はまだ白くない。喉に飲み込むことの出来ない引っかかりを覚える。緊張しているのだと思った。目を閉じ、血液の流れを感じる。これを今から止めるのだと考えても不思議と実感が湧かない。これまでの人生を振り返ろうとするが、尋常の精神状態では無いせいか、脳が鈍く、浮かんでくるのはつい最近の出来事や、今日あったことばかりだ。いい事がなかった、という訳では無い。しかし、疲れたのだ。「人生とは地獄よりも地獄的である」そう書いたのは芥川だったか太宰だったか。絶望も覚えず、歓喜も覚えず、ただ時間と心の浪費をするだけの日々にほとほと嫌気が差した。幸せそうな人間は誰彼構わず疎ましく思え、他人を見るようで常に劣った自身を見ている。それでいて劣った存在だと認識される事は際限なく肥大化した自尊心が許さない。自らを尊ぶ事など、とうにできないくせをして。
左下を見ると、そこは大通りであった。深夜だが、まだ少しだけ人通りがある。歩いている人間はほとんどもれなく酔っぱらいなのだろう。肩を組み、大きな声で会話している数人のグループを見つけた。いつもなら訳も無くむかっ腹が立つところだが、今日は酷く冷静だった。なんとなく悪戯心でグループに唾を吐き落としてみる。すぐに見えなくなったが、なんとも言えない面白味があった。鼻が少しツンとした。抑えきることの出来ない嗚咽が漏れた。一度出だした涙は堰を切って目から溢れた。どこで何を間違えたのか、それとも正しいままにここまで来たのか、そもそも答えなど初めから無いのか、無い答えを過去を省みてまで探す事が間違いなのか、何が悲しくて何に泣いているのか、全て分からないままにしゃくり上げた。
まだ止まらない涙と鼻水を袖で拭い、上を向いた。夜空を見るのは久しぶりだった。空を見上げなくなったのはいつからなのだろう。自分の小ささに、見て見ぬふりをし始めた頃と符合するのだろうか。深く呼吸をすると徐々に涙の量が少なくなり、しゃくり上げる頻度も落ち着き、やがて涙は止まった。気付くと、体の震えも喉の引っ掛かりもどこかに消えていた。心の澱を全て吐き出したような晴れ晴れとした気持ちで、一歩踏み出した。それ以上、歩くことはついに無かった。
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