チョコレート

 今日も俺は朝食用ペーストを平らげてから、口内洗浄と体外洗浄を終わらせ、外出用クリーンスーツとガスマスクをつけて少し急ぎ足で自宅を出た。既に、居住区域と周辺施設がコクーンと呼ばれるドームで覆われた都市が七割を超えるようになったこの日本においては珍しく、かつて長崎県長崎市という名前だったこの居住区域46Aaにある自宅からBクラス教育機関54号まで行くためには、一度屋外に出る必要がある。非常に面倒だが仕方がない。だが、他の充実した居住区域の人間は足腰が弱いという話もあるし、もしかすると歩くということはそれ程悪くないのかもしれない。

「よっ。今日も朝からしょぼくれた背中だねえ」

 後ろからガスマスク越しでもうるさい声が聞こえた。幼馴染だ。俺とは対照的に好奇心旺盛で常に元気溌剌とした女だ。

「お前は朝から五月蠅いよ。なんでそんなに毎朝元気なのに授業中継見てるときは居眠りしかけるんだよ」

「あたしは興味あるものに集中できるように力を溜めてるの。そんなことより今日の放課後時間ある?ちょっとやりたいことができたんだよね」

「またなんか変な実験でもするのかよ。コクーンじゃないからって施設外だと何でもしていいわけじゃないんだぞ」

「違うって。まあ放課後楽しみにしといてよ」

 そう言うが早いかあいつは走っていった。奴は足腰の筋力低下とは無縁だなと思った。


 学校で授業中継を見ながら、今日は何をするのかを想像してみた。前はどこから拾ってきたのか、過酸化ベンザキソニンと水溶化したオバシピールを混ぜた液体で外気中のスモッグを固体にしたことや、ピッゾ式磁石を使って離れたところから他人のフィジカルデバイスの通信を傍受したこともある。正直言って、奴の実験に付き合うことや、妄想話を聞くことは嫌いではなかった。俺には全くない発想を次々と出す所や、ワクワクしている表情がガスマスク越しでも分かる所が素直に素敵だと思っているからだ。現に今日も放課後を楽しみにしている自分がいる。ふと、あいつの席に目をやると案の定居眠りをしていた。

 

 放課後になり、連絡通りに中庭であいつを待つ。中庭と言っても屋外ではなく、文字通りの〝中庭〟であり、人工的に再現された太陽光が常に降り注いでいる庭園である。当然屋内であるがゆえに警報装置などもあり、危険なことは行わないらしいと、俺は胸をなでおろした。

「お待たせ。じゃあ始めるよ」

 あいつはパンパンに膨らんでいるバッグを肩から降ろしながらそう言った。

「今日は何をするんだ。ていうか朝から思ってたけど今日は一段と大荷物だな」

 あいつがバッグをひっくり返すと、中から何度も見たことのある耐熱耐圧フラスコやポータブルバーナーなどと一緒に、全く想像もしていなかった物が大量にドサドサと落ちて来た。

「これ、食事用ペーストじゃないか。こんなもん何に使うんだ?」

 あいつは俺の反応を見て、待ってましたと言わんばかりにニマッと笑った。

「今日はチョコレートというものを作ります」

「チョコレート?なんだそれ」

 全く耳なじみのない単語だ。もっとも、こいつといると全く不要な語彙ばかりが増えるのだが。

「チョコレートってのはね、今みたいに食事がこういうペーストになる前に人間が食べてた食べ物のうちの一つで、非常に歴史のある菓子類の一種なんだって。なんでも菓子類の中でも一、二を争うほどの人気を誇っていたらしくて、最上級のものは今の朝食用ペーストぐらいの量で四十万ハイトぐらいの値がついてたんだって。どう?食べてみたくない?」

 興奮して息継ぎをどこでしているのかわからないほど一息に説明を終えた顔を見て、少し笑いがこぼれて来た。全く、こいつはどこまで無邪気なんだ。

「いいよ。やってみよう。でもどうやって作るんだ?」

 奴は得意げな顔をして、ペーストを持ち上げる。

「このタイプのペーストにはチョコレートの原料になるカカオ豆の粉末が味付けのために入ってるの。厳密にはカカオマスっていうみたい。こっちは砂糖でこっちは人口乳ね。で、これを全部溶かして、遠心分離とか流動分子衝突式分離とかでさっき言った原料だけ抽出して混ぜて固めるの。だから今日は大仕事よ」

 どうやらなかなかに大変な作業をやることになるらしい。長丁場になることを察して質問してみる。

「なんで今日なんだ?明日でもいいだろ。明後日は休日なんだから」

「昨日の夜思いついたからよ」

 けろっとした顔で言い放つ顔を見て何を言っても無駄なのだと悟った。こいつに正論で食い下がるほど無駄なことは無いのだ。

「分かった。じゃあとっとと始めよう。俺は何をすればいい?」

 諦めた俺の顔を見て、こいつははじけんばかりの笑顔になる。

「そう来なくっちゃね。まずはペーストを全部溶かすのを手伝ってくれる?」


 苦労の果てに出来上がった焦げ茶色の塊を見て、こんなものが本当にうまいのかと不思議になった。

「あんまり美味そうには見えないがな」

「どうかなあ。甘い匂いはしてたから案外ちゃんと美味しいかもよ」

 珍しく少し不安げな表情をしている。その表情のままこっちを向いて口を開く。

「今何時?」

「今はあと数秒で日付が変わるとこだ。お互い一人暮らしで良かったな」

「そうね、時間も計算通りだわ」

「こんなに遅くなるって分かってたのかよ」

「言ってなかったっけ」

「聞いてないね。それはそうと食べてみようぜ。さすがに腹が減ったよ」

「待って。私が先に食べる」

 茶色の塊を一口、薄い唇で挟み、かじる。その表情が不安げなものからみるみる明るく変わっていった。どうやら美味いらしい。

「ものすごく甘くて美味しい。一日の規定摂取量を超えた砂糖の暴力的な甘みが乳脂肪分の持つまろやかさで口の中に広がって、それをカカオマス特有のほろ苦さが物凄くバランスのいい味にしているわ。こんなの食べたことない」

 全く何を言っているのか分からないが、兎も角こんなに興奮しているこいつを見るのは初めてだ。

「俺も一口もらおうかな」

 一口口に入れたとたん、全くもって未知の、濃厚な味を体験した。今まで食べたものの中で最もうまいと言っても過言ではないかもしれない。こんなものを昔の人類は食べていたのかと思うと羨ましくてたまらない。

「めちゃくちゃ美味いな」

 そう言うと奴は安心したように笑った。

 帰り支度をして、ガスマスクをつけて外に出る。さっきまでの人工的な日光と打って変わって、宇宙を身近に感じる闇に包まれる。俺たちはガスマスクを暗視モードにした。

「それにしても、明日も学校だぜ。ほんとに明日やればよかったのに」

 ため息をつきながらこぼす。

「今日じゃないとダメだったのよ」

「まあさっき聞いたけどさ」

「あれは嘘なの」

「は?」

 訳が分からず奴の方を見るが、ガスマスクで顔が見えない。

「チョコレートと、今日の日付を調べてみれば分かるわよ」

 それだけ言ってあいつはまた走り出した。取り残された俺は茫然として立ち止まってしまった。フィジカルデバイスのデジタル時計は02/14 00:21を指していた。

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