第31話「今は猫のように眠らせて」

 昔、とても穏やかに寝息を立てる猫を見たことがある。

 確か、叔母の家だっただろうか。小学生の頃に一度遊びに行ったことがある。何より物珍しかったのは、家の中で大きなトラ猫がウロウロしていたことだ。

 私は動物アレルギーだったため、家でペットは飼うことはできなかった。

 なので普段の生活で、別の生き物が常に目に入るのは不思議な体験だった。それにトラ猫は大きいせいか、かなり威圧感があった。……口には出さなかったけど、結構怖かったり。

 だから__その猫が叔母の膝の上で寝ていた時は少し驚いた。

 叔母に抱かれるまま、全てを委ねるように目を閉じている猫。

 普段のきつそうな顔とは違い、その寝顔は心の底から安心しているんだと思った。

 ちょっと羨ましい。思い返すたびにそんな気持ちが増してくる。

 愛する人に甘えて、膝の上に頭を寄せて。

 その人の中で夢を見る__それが、どれだけ幸せなことか。

 「……ん」

 気がつくと、甘い匂い。

 それに柔らかい感触。そこまで気づくと、私は反射的に身を起こした。

 「ごめん、寝てた」

 「知ってる」

 はっきりとした視界には、優しそうに笑う春花の顔。

 私より背が高くて、私より可愛らしい女の子。一瞬だけ、叔母のトラ猫と被る。

 ……ううん。きっと、春花が猫になったらもっと優しそうな顔をしてて__

 「目が覚めたかな、千柚子」

 春花に言われ、千柚子こと私は今一度意識をはっきりさせる。

 同棲して一年が過ぎた部屋。思い切って買ったソファーの上で。

 春花の膝枕に気持ちよくうたた寝していた自分。そこまで思い出すと、申し訳なくなって頭を掻いた。

 「あー……ごめん。寝ちゃってたんだ、私」

 「別に気を遣わなくてもいいのに。最近疲れたんだから、ゆっくりしなよ」

 「でも、流石に重いでしょ。ごめん、邪魔だったら叩き起こしてもらっていいから……」

 だけど、私が言い終わる前に、春花は私の体を抱きしめる。

 春花の方が背が高いせいか、そのまま抱き合うと私の顔が春花の胸と首元にくる。

 自然と私が甘えているみたいだ。それを心地いいと、自覚している自分もいる。

 「また寝そう」

 貴重な休日なのに。でも、時計をチラ見するともう夕方だった。もう買い出し行くぐらいで終わりそうだ。

 「寝れるときに寝た方がいいよ。最近疲れてたでしょ、千柚子」

 「……そんなこと、ないよ」

 否定しつつも、彼女の勘の良さに少し心が締め付けられた。

 そのまま、私は頭を彼女のお腹へ、また膝の上に。そうして、観念する。

 「ごめん、嘘ついた」

 さっきの体勢に戻ったまま、私は腕で顔だけを隠した。真上から見られるのは恥ずかしい。特に、今の顔は。

 「……大したことじゃないけどさ。ちょっと仕事が上手くいかなくてね」

 「そっか。落ち込んでる?」

 「ううん。それはないよ」

 言葉を交わしながら、私は顔を隠す腕を外さない。

 「落ち込めないんだ。落ち込んでる間に、何か大切な取りこぼしが気がするから。だから心配性な頭が、私を休ませずに走らせるの。これじゃ、前向きか後ろ向きか分かんないね」

 いっそ、ちゃんと落ち込めれば。綺麗に気持ちをリセットできるかもしれない。

 でも、社会人はそうは言ってられない。ミスをすればすぐに謝らなくちゃいけないし、代案や対策を迫られる。意外と後悔は必要ないのだ。

 だから、いつの間にか自分の心がないがしろになっていく。そしてときたま思うのだ__どこかで自分を止めてくれる人がいないか、なんて。

 ……私の場合は、ちゃんといるんだけど。

 「ねえ、春花」

 顔を隠していた腕を外して、代わりに顔を春花のお腹に押しつける。

 「もう少しだけ、こうしていたい」

 いつの間にか、本音を言うのもどこかでやめていた。でも……春花の前ぐらいは、ちょっとぐらいなら。

 「いいよ、別に」

 春花はそう言うだけだ。だからどんどん甘えてしまう。

 しょうがない__あの猫のように、私にとって甘えたい好きな人は春花なのだから。

 「ふふっ」

 そんなことを考えてると、私の頭を撫でながら春花が笑った。

 「なんか千柚子。昔飼ってた犬みたい」

 「えっ……い、犬!?」

 思わぬ言葉に、反射的に体を起こしてしまった。いや、何もおかしなことはないんだけど……私が勝手に猫を思い出してただけだし。

 「そっ、でっかいゴールデンでねー。今も実家にいるんだ」

 春花はふわふわと笑って、また私のことを抱きかかえた。

 「千柚子に似てるなーって。こう抱き心地がね」

 「ちょ……や、やめい!」

 何だか猛烈に恥ずかしくなってきた私は、さっきの甘えモードからすぐに普段のモードに切り替えた。

 「もういいから……そうだ。か、買い物行かないと……!」

 「そう散歩催促するのも、昔の……」

 「犬の話禁止! いい加減、怒るよ!」

 自分でもえらい赤面してるのが分かるぐらい、恥ずかしかった。必死に犬の話を振りほどきながら、エコバックを手にする。

 でも……ちょっとだけ思ったりする。

 (……犬だったら、春花にベタベタしてもいいのかな)

 しかし、ふと湧き出た考えに再び恥ずかしくなって、私はすぐに思考を打ち切ったのだった。

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