第9話「せめてこの夜においていかれないように」
初めて夜を明かした時のことは、今でもよく覚えている。
あの時は何となく眠れなくて、外をぼんやり見ていたら、全然飽きずに眺めていた自分に気づいた。
暖かいはずなのに、どこか冷めたような夜風。
誰もが寝静まって、まるで時間まで止まってしまったような錯覚。
その中で、自分の呼吸だけが続いている。繰り返し、繰り返し。
そうして、空の輪郭がはっきりしていくにつれ、朝が来たことを理解する。
生まれたばかりの光が、空に通っていく。それを眺めながら、私は__
「眠れないの?」
「……」
目を瞑って、過去を思い出していた私を、別の声が呼び戻した。
顔を上げて、真上を見る。そこにはルームメイトの冬島さんが立っていた。
「ごめん。起こしちゃった?」
私がそう聞くと、冬島さんはふるふると首を横へ振った。
「別に……日比谷さんのせいじゃないよ。水を飲もうとしたら、ベッドに日比谷さんがいないから……ベランダのぞいたら、その」
冬島さんは私のルームメイトだ。
一年前に入った私の高校は全寮制だ。女子のみだったせいもあって、それぞれの部屋には二人の生徒が割り振られている。
一緒に住む生徒は、同じ組とは限らない。大体が初対面で、部屋によってはお互い過干渉しない子達も多い。実際、私と冬島さんもその類だ。
だから……こうして、話しかけてきたことが珍しい。もしかして、心配してくれたんだろうか。
「眠れなくてさ。ベランダでぼうっとしてたんだ」
「……」
すると、冬島さんが一度部屋に戻って、何やら毛布みたいなのを持ってきた。
「これ……私のだけど」
「えっ、使っていいの?」
「うん。このままじゃ、風邪ひくから」
毛布みたいなのを広げると、意外と小さかった。「肩から羽織るの」と、冬島さんが着せてくれる。
「ポンチョって言うんだ。最近買ったの」
「へー……可愛い」
なんか意外だった。冬島さん、こういうの好きなんだ。
思えば、彼女が部屋で何をしてるのとか、服はどんなのが好きかとか、気にしたことがなかった。
だから勝手なイメージを持ってた。ショートの黒髪に、あんまり表情が分かりにくいところ。頭が良さそうなクールキャラって印象が、私の中にあったのだ。
……もしかしたら、あっちから話しかけてこなかったのって。私に遠慮している部分もあったのかな。
「ありがと。あったかいよ」
「なら……よかった」
「……ねえ、冬島さんまで付き合わなくてもいいよ。ふつーに夜中だし、あとはほっといてもらえば……」
ベランダの手すりにもたれながら、私は彼女の顔を横から見る。
彼女は何か言いたげだった。そこで、やっと気づく。そもそもほっとけないから、ベッドに戻らずに私の様子を見に来たのか。
それはルームメイトを心配してくれる優しさなのか。義務感なのか。私には分からないし、今まで分かろうともしなかったのかもしれない。
なら、今は私が腹を割るべきターンか。
「時々さ。眠れない時があるんだ」
独り言のように呟く。冬島さんの瞳が動いた。
「なにか心配事? それとも……不眠症とか?」
「全然。そんなんじゃないよ。ただ……ほんの時々だよ。今日は眠らなくていいかなーって、思っちゃうそんな日が」
結局、二時間ぐらいは寝るのだけど。眠気が訪れる前に私は、いつも夜風に当たっていた。
勿論寒い日は出ないし、外を出歩くなんて危ないこともしない。
ただ、確かめようとするのだ。あの日に感じたことを、もう一度だけ……と。
「冬月さんは夜更かししたことある?」
話を振ると、何故か冬月さんは目をぱちくりとさせた。一瞬だけ間が空いて、
「えっ、えっと……ないよ。遅くまで起きてたら、怒られちゃうし」
またもや意外。そんな動揺しなくてもいいのに。私は思わず笑ってしまった。
「あはは。そんなことないって。冬月さんはしっかりしてそうだから、夜更かしとかしなさそうだけど……そんな不良みたいに思わなくてもさ」
「だ、だって……それに、私はベッドに入るとすぐ寝ちゃって」
「ふふっ、そんなこと言うと、子供みたいだよ」
冬月さんの返しは素直すぎるし、それが今までのギャップと相まって、私はついついそんなことを言ってしまう。そんなだから、冬月さんは次第に赤くなっていって、
「もう……そんな笑わないでよ。日比谷さん……」
「ごめんごめん。……今思えば、こうしてゆっくり話するの、冬月さんとは無かったもんね」
改めてそう呟くと、月明かりの中で輝く、彼女の瞳がよく見えた。
「こうして話すと、結構可愛い顔するんだなって」
「……っ」
冬島さんは黙りこくってしまった。うす暗い中でも、彼女がめちゃくちゃ照れてる表情が見えてしまう。
「……恥ずかしい」
「そんな照れなくてもいいじゃん。冬月さんは美人だから、褒められ慣れてるでしょ?」
「そんなことないよ。ほんと」
「そーなの?」
「うん……だから、その……」
何かを言いかけるけど、その先が出てこない。
私は何となくせっつくのも悪いから、何も言わなかった。そのまま、自然と空を見上げ、冬島さんも空を見上げる。
星の見えない、真っ黒な空。
真上にあるはずなのに、底が見えないそれは、まるで頭上に逆さまの海が存在してるようだ。……そんな慣れない感想を抱く。
「星……見えないね」
ただ代わりに、暖かな夜風が吹き抜けていった。頬を撫でるそれは心地よくて、私は小さく息を吐いて、風に身を任せた。
隣の冬月さんも……何も言わずに空を見ていた。ただ少しだけ切なそうな表情をしていて、盗み見ている私は、空を見上げる彼女は絵になっていると勝手な感想を抱く。
「ちょっと待って」
ただ……そんな私に気づかず、冬月さんはそう言って部屋に戻った。
何やらまた部屋から持ってくるようだ。そうして一分にも満たない時間で戻ってきた彼女は、私に小瓶を渡してきた。
「なにこれ?」
「知らない? 金平糖って言うんだけど」
見せてもらうと、普段だったら食べなさそうな和風のお菓子だった。
小さいウニみたいな粒が、小瓶一杯に入ってる。しかもそれぞれ色が違ってて、カラフルだけど、どこかくすんだ感じが私には和菓子っぽいと思った。
「お婆ちゃんに教えてもらったの。それで、たまに自分で探して買ったりするんだ」
「へー……これっておいしいの?」
「うん。でも、ちょっと不思議な味かも。でもね、私はあんまり食べないんだ」
「食べない……なら、なんで買って__」
私の疑問よりも先に、冬月さんが小瓶から金平糖とやらを一粒取り出した。
光が、粒に一瞬通った気がした。手に取った金平糖は青くて、それを目の前にかざす。
「星が見えない時、代わりにこれを星に見立てるの」
「金平糖を?」
「そう、砂糖菓子のお星さま。手に持って、空に浮かべた後……一つ一つ大切に食べるんだ」
冬月さんは自分が言ったとおりに、金平糖を口にした。その後、小瓶からまた一粒取り出して、私にくれた。
今度は黄色い星。冬月さんに倣うように空にかざし、そのまま口の中へ放り込んだ。
「……ちなみにこれって、何か意味があったり?」
ふと聞いてみると、冬月さんはキョトンとして、
「言われてみれば……お婆ちゃんに言われた通り、何も考えずにやってた」
「あはは。でも、砂糖菓子のお星さまなんて、冬月さんのお婆ちゃんも可愛らしいよね」
「うん……そうだね」
また、冬月さんは笑った。
心の温かさに身を委ねるような、小さな笑み。その表情で、冬月さんがお婆さんのことを好きだったことがよく分かった。
再び夜の風がなびいた。今度は、ちょっと冷たい。
「冷えてきたね。そろそろ中に入ろうか」
「……そうだね」
結局、冬月さんをつき合わせてしまった。私はこのまま居ていいけど、冬月さんが風邪をひいてしまうかもしれない。
でも、冬月さんはすぐに戻ろうとせず、少し間が空いて、
「日比谷さん。また、こういう風に……夜に話したりしない?」
「えっ……?」
「さっき言ったみたいに……昔、こうしてお婆ちゃんと夜空を眺めたことがあって……こういうの、何だか好きだから……また一緒に」
遠慮がちに、冬月さんはそう言う。こっちを伺う視線がくすぐったい。冬月さんに気を遣わせないように、出来るだけ私は明るく言った。
「いいよ。私も楽しかったし」
「ほんと?」
「うん……一人でぼーっとするのも、結構寂しいからさ」
答えると、冬月さんが喜んだようにパッと笑った。
……ほんと。最初の印象とは違う、素直そうな子だ。不覚にもドキッとしてしまった。
冬月さんは小瓶を持ったまま、先に部屋に入る。
私も部屋に戻って……その前に、窓に手をかけて振り返った。
空は暗く、まだ朝は訪れる気配がない。
あの日。初めて夜を明かした時、私はちょっとだけ悲しかったのだ。
当たり前にやってくる朝が、本当はただの繰り返しで。夜と朝が境界線を体感した時に、それは機械的なサイクルように思えてしまったのだ。
夜は必ず朝を迎え、
今日は必ず始まる。
一日は繰り返す。私の意志とは関係なく。
未明の空を眺めながら、どこか息苦しさを覚えた。だから時々、眠ることに意味がないように感じて__夜の時間が、どこまでもくすんで、無意味なものに思えてしまう。
だけど、
(……誰かと一緒に過ごすなんて、初めてだ)
こんな風に誰かと話す夜もいいかもしれない。
ただ通り過ぎるだけの、冷たい時間を。その時間に置いて行かれないように。
冬月さんに教えてもらった金平糖が、今日の夜の時間を明るくしてくれた。
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