第30話「せめてこの夜においていかれないように」

 初めて夜を明かした時のことは、今でもよく覚えている。

 あの時は何となく眠れなくて、外をぼんやり見ていたら、全然飽きずに眺めていた自分に気づいた。

 暖かいはずなのに、どこか冷めたような夜風。

 誰もが寝静まって、まるで時間まで止まってしまったような錯覚。

 その中で、自分の呼吸だけが続いている。繰り返し、繰り返し。

 そうして、空の輪郭がはっきりしていくにつれ、朝が来たことを理解する。

 生まれたばかりの光が、空に通っていく。それを眺めながら、私は__

 「眠れないの?」

 「……」

 目を瞑って、過去を思い出していた私を、別の声が呼び戻した。

 顔を上げて、真上を見る。そこにはルームメイトの冬島さんが立っていた。

 「ごめん。起こしちゃった?」

 私がそう聞くと、冬島さんはふるふると首を横へ振った。

 「別に……日比谷さんのせいじゃないよ。水を飲もうとしたら、ベッドに日比谷さんがいないから……ベランダのぞいたら、その」

 冬島さんは私のルームメイトだ。

 一年前に入った私の高校は全寮制だ。女子のみだったせいもあって、それぞれの部屋には二人の生徒が割り振られている。

 一緒に住む生徒は、同じ組とは限らない。大体が初対面で、部屋によってはお互い過干渉しない子達も多い。実際、私と冬島さんもその類だ。

 だから……こうして、話しかけてきたことが珍しい。もしかして、心配してくれたんだろうか。

 「眠れなくてさ。ベランダでぼうっとしてたんだ」

 「……」

 すると、冬島さんが一度部屋に戻って、何やら毛布みたいなのを持ってきた。

 「これ……私のだけど」

 「えっ、使っていいの?」

 「うん。このままじゃ、風邪ひくから」

 毛布みたいなのを広げると、意外と小さかった。「肩から羽織るの」と、冬島さんが着せてくれる。

 「ポンチョって言うんだ。最近買ったの」

 「へー……可愛い」

 なんか意外だった。冬島さん、こういうの好きなんだ。

 思えば、彼女が部屋で何をしてるのとか、服はどんなのが好きかとか、気にしたことがなかった。

 だから勝手なイメージを持ってた。ショートの黒髪に、あんまり表情が分かりにくいところ。頭が良さそうなクールキャラって印象が、私の中にあったのだ。

 ……もしかしたら、あっちから話しかけてこなかったのって。私に遠慮している部分もあったのかな。

 「ありがと。あったかいよ」

 「なら……よかった」

 「……ねえ、冬島さんまで付き合わなくてもいいよ。ふつーに夜中だし、あとはほっといてもらえば……」

 ベランダの手すりにもたれながら、私は彼女の顔を横から見る。

 彼女は何か言いたげだった。そこで、やっと気づく。そもそもほっとけないから、ベッドに戻らずに私の様子を見に来たのか。

 それはルームメイトを心配してくれる優しさなのか。義務感なのか。私には分からないし、今まで分かろうともしなかったのかもしれない。

 なら、今は私が腹を割るべきターンか。

 「時々さ。眠れない時があるんだ」

 独り言のように呟く。冬島さんの瞳が動いた。

 「なにか心配事? それとも……不眠症とか?」

 「全然。そんなんじゃないよ。ただ……ほんの時々だよ。今日は眠らなくていいかなーって、思っちゃうそんな日が」

 結局、二時間ぐらいは寝るのだけど。眠気が訪れる前に私は、いつも夜風に当たっていた。

 勿論寒い日は出ないし、外を出歩くなんて危ないこともしない。

 ただ、確かめようとするのだ。あの日に感じたことを、もう一度だけ……と。

 「冬月さんは夜更かししたことある?」

 話を振ると、何故か冬月さんは目をぱちくりとさせた。一瞬だけ間が空いて、

 「えっ、えっと……ないよ。遅くまで起きてたら、怒られちゃうし」

 またもや意外。そんな動揺しなくてもいいのに。私は思わず笑ってしまった。

 「あはは。そんなことないって。冬月さんはしっかりしてそうだから、夜更かしとかしなさそうだけど……そんな不良みたいに思わなくてもさ」

 「だ、だって……それに、私はベッドに入るとすぐ寝ちゃって」

 「ふふっ、そんなこと言うと、子供みたいだよ」

 冬月さんの返しは素直すぎるし、それが今までのギャップと相まって、私はついついそんなことを言ってしまう。そんなだから、冬月さんは次第に赤くなっていって、

 「もう……そんな笑わないでよ。日比谷さん……」

 「ごめんごめん。……今思えば、こうしてゆっくり話するの、冬月さんとは無かったもんね」

 改めてそう呟くと、月明かりの中で輝く、彼女の瞳がよく見えた。

 「こうして話すと、結構可愛い顔するんだなって」

 「……っ」

 冬島さんは黙りこくってしまった。うす暗い中でも、彼女がめちゃくちゃ照れてる表情が見えてしまう。

 「……恥ずかしい」

 「そんな照れなくてもいいじゃん。冬月さんは美人だから、褒められ慣れてるでしょ?」

 「そんなことないよ。ほんと」

 「そーなの?」

 「うん……だから、その……」

 何かを言いかけるけど、その先が出てこない。

 私は何となくせっつくのも悪いから、何も言わなかった。そのまま、自然と空を見上げ、冬島さんも空を見上げる。

 星の見えない、真っ黒な空。

 真上にあるはずなのに、底が見えないそれは、まるで頭上に逆さまの海が存在してるようだ。……そんな慣れない感想を抱く。

 「星……見えないね」

 ただ代わりに、暖かな夜風が吹き抜けていった。頬を撫でるそれは心地よくて、私は小さく息を吐いて、風に身を任せた。

 隣の冬月さんも……何も言わずに空を見ていた。ただ少しだけ切なそうな表情をしていて、盗み見ている私は、空を見上げる彼女は絵になっていると勝手な感想を抱く。

 「ちょっと待って」

 ただ……そんな私に気づかず、冬月さんはそう言って部屋に戻った。

 何やらまた部屋から持ってくるようだ。そうして一分にも満たない時間で戻ってきた彼女は、私に小瓶を渡してきた。

 「なにこれ?」

 「知らない? 金平糖って言うんだけど」

 見せてもらうと、普段だったら食べなさそうな和風のお菓子だった。

 小さいウニみたいな粒が、小瓶一杯に入ってる。しかもそれぞれ色が違ってて、カラフルだけど、どこかくすんだ感じが私には和菓子っぽいと思った。

 「お婆ちゃんに教えてもらったの。それで、たまに自分で探して買ったりするんだ」

 「へー……これっておいしいの?」

 「うん。でも、ちょっと不思議な味かも。でもね、私はあんまり食べないんだ」

 「食べない……なら、なんで買って__」

 私の疑問よりも先に、冬月さんが小瓶から金平糖とやらを一粒取り出した。

 光が、粒に一瞬通った気がした。手に取った金平糖は青くて、それを目の前にかざす。

 「星が見えない時、代わりにこれを星に見立てるの」

 「金平糖を?」

 「そう、砂糖菓子のお星さま。手に持って、空に浮かべた後……一つ一つ大切に食べるんだ」

 冬月さんは自分が言ったとおりに、金平糖を口にした。その後、小瓶からまた一粒取り出して、私にくれた。

 今度は黄色い星。冬月さんに倣うように空にかざし、そのまま口の中へ放り込んだ。

 「……ちなみにこれって、何か意味があったり?」

 ふと聞いてみると、冬月さんはキョトンとして、

 「言われてみれば……お婆ちゃんに言われた通り、何も考えずにやってた」

 「あはは。でも、砂糖菓子のお星さまなんて、冬月さんのお婆ちゃんも可愛らしいよね」

 「うん……そうだね」

 また、冬月さんは笑った。

 心の温かさに身を委ねるような、小さな笑み。その表情で、冬月さんがお婆さんのことを好きだったことがよく分かった。

 再び夜の風がなびいた。今度は、ちょっと冷たい。

 「冷えてきたね。そろそろ中に入ろうか」

 「……そうだね」

 結局、冬月さんをつき合わせてしまった。私はこのまま居ていいけど、冬月さんが風邪をひいてしまうかもしれない。

 でも、冬月さんはすぐに戻ろうとせず、少し間が空いて、

 「日比谷さん。また、こういう風に……夜に話したりしない?」

 「えっ……?」

 「さっき言ったみたいに……昔、こうしてお婆ちゃんと夜空を眺めたことがあって……こういうの、何だか好きだから……また一緒に」

 遠慮がちに、冬月さんはそう言う。こっちを伺う視線がくすぐったい。冬月さんに気を遣わせないように、出来るだけ私は明るく言った。

 「いいよ。私も楽しかったし」

 「ほんと?」

 「うん……一人でぼーっとするのも、結構寂しいからさ」

 答えると、冬月さんが喜んだようにパッと笑った。

 ……ほんと。最初の印象とは違う、素直そうな子だ。不覚にもドキッとしてしまった。

 冬月さんは小瓶を持ったまま、先に部屋に入る。

 私も部屋に戻って……その前に、窓に手をかけて振り返った。

 空は暗く、まだ朝は訪れる気配がない。

 あの日。初めて夜を明かした時、私はちょっとだけ悲しかったのだ。

 当たり前にやってくる朝が、本当はただの繰り返しで。夜と朝が境界線を体感した時に、それは機械的なサイクルように思えてしまったのだ。

 夜は必ず朝を迎え、

 今日は必ず始まる。

 一日は繰り返す。私の意志とは関係なく。

 未明の空を眺めながら、どこか息苦しさを覚えた。だから時々、眠ることに意味がないように感じて__夜の時間が、どこまでもくすんで、無意味なものに思えてしまう。

 だけど、

 (……誰かと一緒に過ごすなんて、初めてだ)

 こんな風に誰かと話す夜もいいかもしれない。

 ただ通り過ぎるだけの、冷たい時間を。その時間に置いて行かれないように。

 冬月さんに教えてもらった金平糖が、今日の夜の時間を明るくしてくれた。

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