第8話「通り過ぎていく恋」

 最近、私の友達がよく笑うようになった。

 「何かいいことでもあった?」

 昼休み、机を合わせて昼ご飯を食べていた花沙里に、私は自然とそんなことを聞いていた。

 花沙里は少し呆気に取られたように首を傾げて、

 「へ? なんで? 志乃ちゃん」

 「いや、最近機嫌よさそうだから」

 「そう……かな?」

 わかんないかな、と花沙里は曖昧な笑みを浮かべるだけだった。

 いつもの顔だ。人当たりのいい、柔らかな笑顔。

 小さい頃からずっとその表情を見ていた気がする。それにとぼけた性格や、ぼんやりとした様子はずっと昔から変わらないままだ。

 だから、私は花沙里が何かに強い興味を持つことが、あまり想像できなかったのかもしれない。

 でも、今は__

 「鈴村さん、呼んでるよ?」

 クラスの子が、鈴村……花沙里に声をかける。

 ふとクラスの入り口を見ると、こちらに視線を向ける一人の女子生徒がいた。

 「……あの人って」

 艶やかな黒のショートカットと、少し中性的な顔が目についた。

 すらりとした長身に、整った顔立ち。その割に笑顔は人懐っこくて、人を惹きつける魅力が確かにあった。

 一年上の生徒会長。

 名前は確か、日比谷先輩__私が口を開きかけた時、花沙里が立ち上がった。

 「あっ……の!」

 「……花沙里?」

 びっくりしたみたいに、不意に立ち上がった感じ。

 昔から見ていた、人当たりのいい、角のない笑顔。

 今は……違う。

 目を微かに見開いて、頬は少しだけ赤くなっていて__

 「……日比谷先輩」

 花沙里は先輩に釘付けになったみたいに、ただ先輩を見て呟いた。

 そして日比谷先輩も花沙里を認めると、入り口から手招きをする。

 花沙里は……迷うことなく先輩の方へ駆け寄っていった。

 「……花沙里」

 その足取りは、まるで空を飛んでしまうぐらい軽かった。

 そしてもう一度、あの表情を思い出す。

 (……なんでだろう)

 胸の中に、一つの想いが形を作りかける。

 でも__相手は女性だ。

 そう考えても、私はその想いを拭い去ることが出来なかった。

 「……」

 今まで見たことのない、幼馴染の一面。

 一瞬だけ、思ってしまった。あれは__幼馴染の、恋に落ちた顔だってことを。

 その感情を遠ざけるようになったのはいつからだろう。




 私は……いつの間にか、好きが怖くなっていた。

 「……俺と、付き合ってほしいんだ」

 それは中学三年の頃だった。

 受験が終わり、卒業式が近づく頃。私はある男子から告白されたことがあった。

 名前も知らない、話したこともない、クラスの男子。

 私は、言葉を詰まらせる。

 (なんて……返せばいいんだろう)

 想いを口にして、彼は緊張しながらこちらを見てくる。

 そして、私のその言葉は、自分でもビックリするぐらい簡単に出てきた。

 「……ごめんなさい」

 「……!」

 「あなたとは……付き合えない」

 その時の私の気持ちは、今でもどう言えば分からない。

 ただ……好きだと言われた時、鋭いナイフで刺されたみたいだった。

 「……」

 罪悪感のような、何だか分からない痺れるような感覚。

 鉄のように冷たくて、私を鋭く拒絶する何か。

 いや__拒絶してるのは、自分か……それすらも分からない。

 「……ごめんなさい」

 気づけば、私は涙を堪えていた。

 泣きたいのは、彼の方なのに、私はただ溢れそうになる何かを抑え込んでいた。

 「本当に……ごめんなさい」

 私は、何に対して謝っていたのか。

 告白を受け入れてもらえなかった彼に対してか。

 それとも……恋を受け入れられなかった私の愚かさに対してか。

 皆、恋の話をしていた。そして友達はそれに憧れていた。

 私もそれに触れるんだと、話を聞きながらぼんやりと考えていた__でも、現実は違った。

 知らなかった。恋がこんなものだったなんて。

 示された気持ちは、鋭くて、どこまでも真っ直ぐで、

 どこまでも……遠かった。




 その日、私と花沙里は珍しく同じ時間に帰っていた。

 「今日は生徒会の仕事はいいの?」

 中学まで一緒に帰っていた習慣からか、久しぶりの二人っきりは何だか懐かしい気がした。

 高校に上がって、花沙里は生徒会に入った。そのせいか、帰る時間もずれ込んでしまって、気がつけば一緒に帰ることはあまり無くなっていた。

 「うん、今はあんまりお仕事が無い期間なんだって」

 並んで歩く花沙里の顔はどこか楽し気だ。

 正直言えば、安心していた。元々花沙里は引っ込み思案だった。だけど高校に入って、いきなり生徒会に入ると言いだしてから、内心落ち込んだり、めげていないか不安だった。

 「そっか……生徒会の仕事、大変?」

 「うん……とね。大変だけど、楽しいよ? 先輩も同学年の子も優しいし、仕事にも慣れてきたし。それに……」

 花沙里が少しだけ口を閉じた。

 瞳に微かな熱が帯びた気がした。私は、代わりに口を開く。

 「あの生徒会長さん、格好良かったね」

 「……!」

 からかうように笑うと、花沙里は少し赤くなって慌てて首を振った。

 「それは……!」

 「花沙里、あの生徒会長さんに夢中だもんね。実際優しくて、頼もしそうだし」

 「……うん」

 赤くなって、小さな興奮を抑え込むみたいに俯いた。

 また口を閉じる。そして、少し間が空いて、

 「私……高校に入ってから、ずっと日比谷先輩に憧れてたんだ」

 「えっ……?」

 「……始業式の時、日比谷先輩が挨拶したでしょ? その時、私……もっとあの人の話を聞いてみたいと思ったの」

 ポツリと、まるで自分自身でも確かめるように、花沙里は小さな声で自分の気持ちを言葉として吐き出していく。

 「それで……生徒会にはいれて、先輩と一緒にいれて……最初は不安だったけど、もっと生徒会の仕事をやってみたいと思ったんだ」

 「……花沙里」

 意外……だった。花沙里からそんな言葉が出てくるなんて。

 真面目な子で、頭が回るのも知っている。でも、能力を持っていても、そこまで何かに熱心になる子ではなかった。

 ここまで、はっきりと何かに取り組む花沙里は初めて見た。

 そして、花沙里はそれでもいつもの笑顔で言った。

 「__私……もっと先輩の役に立ちたい」

 それもまた、本心からの言葉。

 私はすぐに何も返せず、その言葉を噛み砕くように黙ってから、小さく頷いた。

 「そっか……凄いね、花沙里は」

 「そう……かな?」

 「本当だよ。花沙里は多分分かってないけど、そう言えるのは立派だよ」

 少し意外だったけど、私は純粋に嬉しかった。ぼんやりとした花沙里がいつの間にかこんなにはっきりと言い切ったこと。単純に私は好ましく思った。

 私も釣られるように笑った。新しい目的を持った幼馴染の背中を押してあげたいと思ったから___

 「まるで、あの日比谷先輩に恋してるみたいだね」

 私はただ何も考えず、冗談めかして言った。

 ただ少しからかうように、ふと思いついただけの、意味のない言葉だったはずだ。

 でも、その言葉にいつまで立っても答えが返ってこない。

 私はもう一度花沙里の方を向いた。

 その顔は……少し驚いたまま、固まっていた。

 「花沙里……?」

 「……やだな、志乃ちゃん」

 その顔が赤く見えたのは、夕暮れのせいじゃないはずだ。

 口調は軽くても、笑っているように見えても、それは誤魔化せない。

 花沙里の顔は……まるで、不意を突かれたみたいだった。

 「先輩は……そんなのじゃないよ?」

 今度は私が言葉を詰まらせる番だった。

 やっぱり……そうなんだ。

 花沙里はあの先輩の事が好きなんだろう。

 多分、半端な好きじゃない。

 昔、告白してきた彼と同じ……好きなんだ。

 「……」

 胸を焼くのは、焦燥だった。

 何故か分からない。でも、花沙里は多分知っているんだ。

 (……恋か)

 かつて私が受け入れられなかった感情。

 昔から一緒にいた花沙里は……もうそれを知っているのだと。




 「……ふう」

 私は部活を終え、一階の廊下を歩いていた。夏の前ということもあり、陽はまだ差し込むものの、廊下は人気がなくてガランとしていた。

 今日は帰りに寄るところがあったため、先に友達とは別れていた。片付けも終わって、後は用事もない。でも、その時私は不意に足を止めた。

 (……そうだ。花沙里、まだいるかな?)

 六時前。そろそろ完全下校時刻だ。この時間は部活動をしてる子も帰る時間だけど、生徒会も日によっては活動していたはず。

 行き違いになるけど、様子を見に行こうか。そんな思い付きが、私の踵を返す。

 今思えば、花沙里が生徒会で仕事してるのはあんまり想像しにくい。そんな姿を覗いてみては面白いかもしれない。

 (生徒会の中の花沙里か……あの会長の下で……)

 そう考えた時、また足が止まった。

 「会長……か」

 また湧き上がるのは、焦りような気持ち。

 なんでだろう。たとえ花沙里が会長を好きになったとしても、何も悪いことはないはずだ。

 女性同士でも……差別するつもりなんて決してない。でも、それでも私の胸に去来するのは、何とも言えない苦しいものだった。

 「……!」

 気がつけば、生徒会室の前に来ていた。

 扉の前から、はめられた窓を覗く。

 中にいたのは……よりにもよって、花沙里と会長だった。

 (……二人共)

 会話は聞こえないけど、二人はプリントを片付けながら何かを話してる。

 その顔はとても楽しそうだった。花沙里も嬉しそうな顔で口を開いて、あの会長もどこかいつもより楽し気だった。

 (……仲、よさそうだな)

 多分、二人だけの特別な時間。

 花沙里は会長のことを好きと言った……もしかしたら、会長の方も。

 「……やばっ」

 思わず頭を引っ込める。その時、花沙里が入り口から出ようとしていたのだ。

 鉢会ったらなんて言おう。そう焦る私はドアから離れようとするけど……花沙里は急に立ち止まったみたいだ。

 「……?」

 もう一度覗く。いつの間にか、花沙里と会長が向かい合っていた。

 でも、何か様子が変だった。さっきみたいな会話じゃない。二人共、少し言葉数が減っているみたいで、まるでお互いの距離を測るように眼を合わせる。

 会長が何かを話す。

 花沙里が小さく頷いた。

 そして……二人は目を閉じて、唇を重ね合わせていた。

 「……」

 夕暮れの教室。キスする二人を黄昏が包み込む。

 不意に唇を離し、二人は熱っぽい瞳で見つめ合う。

 そして、また何度もキスをする。それは……本当に、

 (……そっか)

 私は目を逸らしてしまった。

 突きつけられた気がした。幼馴染……いや、一番近い花沙里だからこそ、私は思い知らされたのかもしれない。

 好きっていうのは、多分そういうことだ。

 相手を受け止めて、触れて、キスをして__その気持ちを返す。

 花沙里と会長は、お互いの好きを受け止めていた。そして当たり前のように好きを返す。二人っきりで、今ここある時間全てが二人だけのものに変わっている。

 私は……怖いと思った。

 私は出来ない。相手の気持ちを受け止めて、それに見合うものを返してあげることが。

 それを出来る自信が__私には無かった。

 (……花沙里)

 たった一枚の扉の向こう側。それがどこまでも遠く感じる。

 幼馴染の花沙里が、彼女の当たり前の好きが、決定的に教えてくれた気がする。

 私にとって恋は……どこまでも遠いってことを。




 三日後。その日は珍しく花沙里が風邪で休んでいた。

 元々、体は強くない方だけど、久しぶりに体調を崩したみたいだった。私は部活が休みだったため、学校が終わるとそのままお見舞いに来ていた。

 私の手にはスーパーの袋があった。中は行きしなに買った花沙里の好物やスポーツドリンクとか。そして数分歩けば、花沙里のマンションだった。

 「……!」

 でも、マンションの入り口には思ってもみない人が立っていた。

 私は恐る恐る声をかけようとする。でも、先に相手の方が気づいた。

 「あっ、あなたは花沙里ちゃんの……」

 「……どうも」

 生徒会長……日比谷先輩だった。先輩は相変わらずキリッとしてる。でも、こう見ると結構女の子っぽいというか、人懐っこい笑い方をする人だと思った。

 「日比谷先輩も……花沙里のお見舞いに?」

 「うん……そのつもりだったけど、何か迷惑かな……って」

 「……?」

 「……家まで押しかけるの、ちょっとルール違反な気がしてね……」

 日比谷先輩は遠慮がちに言う。そんなこと……と、私は口を開きかけるけど、うっかり二人の関係を指摘してしまいそうで、思わず口を閉じた。

 二人は恋人同士だ。別に家に上がっても構わないと思う。

 いや……でも、だからこそかもしれない。大切な人だからこそ、遠慮をする部分があるのか__

 「先輩は……」

 「ん?」

 「先輩は……花沙里のことが好きなんですか?」

 その答えを聞けば、何かが変わるのか。

 いや、多分何も変わらないと思うのに……私は先輩に尋ねる。

 その問いに、先輩は少し呆気に取られて……そして、

 「うん、好きだよ」

 迷うことなく、そう言ってのけた。

 笑顔で、花沙里を想う暖かな瞳で、

 私には……出来ない笑顔をした。

 「……そうですか」

 私はそのまま、先輩にスーパーの袋を押しつけた。

 「えっ……?」

 「花沙里……先輩が来てくれたら凄く喜ぶと思います。きっと……きっとそのはずです」

 この恋は、きっと私には手が届かないもの。

 だから……せめて、

 「先輩……花沙里を、大事にしてあげてください」

 せめて、私に出来ることはこれぐらいだから。

 隣で通り過ぎていく恋。その背中に触れて、僅かに押すことしか出来ないから。

 「……」

 「……先輩」

 「……うん、わかった」

 先輩は小さく頷いて、力強く笑みを返してくれた。

 その足が、やっとマンションの方に向いた。

 手に持ったスーパーの袋を掲げて、私の方をもう一回振り向いて、

 「行ってくるよ」

 笑う先輩。私はそれに返すように、精一杯の笑顔で返した。

 「……行ってらっしゃい。先輩」

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