第7話「紫煙に揺れる」

 咥えた煙草が、随分と短くなっていた。

 ぼーっとしていた頭がわずかに動き、燃え尽きかけた煙草を捨てようとする。その前に、別の手が煙草をかすめ取った。

 「あっ」

 はたと気づいた時には、彼女……陽菜の顔が近くにあった。

 「タバコ」

 その一言で、私は彼女が何が言いたのかを察した。

 降参するように諸手を上げる。だけど、陽菜の険しい顔は変わらなかった。

 「……ごめん。次からはバレないように吸う」

 「……っ!」

 まったく反省してない私の返しに、陽菜のグーパンチが容赦なく頭上から襲い掛かった。




 「前にも聞いたけどさ」

 私達は部屋のベランダで話を続けていた。

 陽菜は私の彼女で、現在同棲中。そんな彼女はか細い手で煙草の箱を物珍しそうに眺めていた。今年二十四歳だが、童顔のせいで勘違いされそうな絵面になってる。

 「なんで高いお金払って、自分の寿命削ってさ。……雪乃は煙草なんて吸っちゃうの?」

 雪乃こと私は、煙草を奪われた口寂しさに、ため息を吐く。

 可愛らしい陽菜に対して、私はそんなこと一度も言われたことがない。目つきが悪く、長身なだけに威圧感が凄いと評される。ある意味、私達は対照的だ。

 「なんでって……そりゃ」

 それは付き合い始めてから、何度目かの問いかけ。

 私は正直答えたくなかった。でも、そろそろ限界だった。なにせ二年前から言われていたのだこの話は。その度に、答えを誤魔化すもんだから、陽菜はただ「いいからさっさと煙草やめて」と提言し、その提言は怒声に変わりつつあった。

 「……」

 「またはぐらかすつもり?」

 「そんなつもりは……ないけどさ」

 眉根を掻きつつ、至極困った顔をしているだろうと自覚する。

 しかし……なんだ。大切な彼女に、嘘を吐く自分へ失望するのはもう飽きた。とうとう観念した私は小さく呟く。

 「母親が吸ってたんだ」

 「……え?」

 その角度の答えは予想していなかったのか、陽菜は分かりやすく戸惑っていた。

 視線を右に。そして左に。私の言葉を、頭の中で咀嚼しているのだろう。それで、

 「雪乃、けっこうお母さん好きっ子だったの?」

 「そうだったら、陽菜と付き合わなかったよ」

 完全に何も考えずにそう口走った結果、陽菜に思いっきり足を踏まれる。彼女は非力だが、流石にサンダルの素足に踏み込まれるのは痛かった。

 「っ、っう……違うって。真面目な話なんだよ」

 「……雪乃のお母さんって」

 初めて聞く私の家族の話に、陽菜はちょっと遠慮ぎみだった。少し不安げにこちらを見上げてくる彼女に、私は否定の意味で軽く手を振った。

 「普通の家族だったよ。父親もちゃんと働いてて、母親も仕事しながらしっかり家のこともする凄い人だったよ」

 この歳になってくると、結婚して家庭を持っていた両親がとてつもなく偉く感じるものだ。少なくとも、私は同じことができる気がしない。

 「でもさ。何故かうちの母親は煙草を吸ってたんだ。めちゃくちゃ真面目で、優しくて、ほんと絵に描いたようなお母さん。だからさ、なんか子供の頃から煙草吸ってるお母さんが不思議でしょうがなかったんだよね」

 「お父さんの影響とか?」

 「いいや、父親は全然吸わないの。品行方正。その点は母親と同じだけどね」

 空を切る右手に、思い出の中の母を重ね合わせる。

 小学校が終わって、家に帰ってきた時。ベランダで煙草を吸う母親。

 その姿がやけに異質で、そこだけ世界から切り取られたかのようだった。

 だから私はいつも隣にいた。母は煙草の煙を吸われるのが嫌だったみたいだけど、構わず私は居座り続けた。

 数日に一本だけ。煙草を吸う母親は、何だか不思議な顔をしていた。

 「……分からなかったんだよね。私の母親が、ずっと煙草を吸ってた理由って」

 「直接聞けばよかったんじゃない?」

 「聞く前に亡くなっちゃった。もう十年になるかな」

 母の死を打ち明けると、陽菜は固まり、次第に表情が青褪めていく。

 ほら、だから言いたくなかったのだ。この話をすると、絶対に彼女は傷つくだろう。何故なら、彼女は母の死に悲しみを抱くわけじゃなくて__その話をさせてしまった自分を責め、私のことを心配するのだから。

 「……雪乃」

 その眼は、真っすぐで。どこまでも彼女の感情を映していた。

 あえて謝らないのは、それが私への侮辱に繋がると思っているのだろうか。どこまでも真摯な彼女に、私はただ笑って返すだけだ。

 「別に大した話じゃないよ。幸いにも父親は健在。ちゃんと悼んでくれる人がいるだけで、幸せだと思うよ。

 でも、さ。たまに思い出すんだよ。煙草の匂いが、母親の匂いとタブって。その瞬間だけ、思い出に浸ることを許してくれる」

 その煙は、決して歓迎されるものじゃない。命を削るものだ。

 でも、その命を削るものが、ときたま忘れかけた命を思い出させてくれる。

 思い出の中の母親は、ただぼーっと煙草を吸っていた。

 その姿は……まるで煙草の煙が、母親の命を逆に繋いでいたのではないかと、錯覚しそうなぐらい自然だった。

 「……ん」

 ふと目の前に、煙草の箱が突き返されていた。

 箱を握る陽菜は何か言いたげだ。だけど、私は何も言わずに煙草を受け取った。

 一本抜き取り、口に咥える。そしてライターの火を起こし、そうして、

 「やめた」

 「えっ」

 煙草を戻した私に、陽菜は大層驚いていた。それで手にしていた一式を返す。

 「また吸いたいときに言うよ。陽菜が預かっといて」

 「それはいいけど……」

 陽菜は素直に受け取ってくれた。

 ただ、それを抱えながら、陽菜はもう一度私と視線を合わせた。

 「私はただ、長生きしてほしいだけだから。雪乃に」

 最後にそんな可愛いことを言ってくれる彼女に、私は思わず笑ってしまった。

 「うん、善処するよ」

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