第4話「殻の中の音」
その日、初めて他人の鼓動を聞いた。
小学校の頃、友達から教えてもらったことだ。自分の胸に手を当てると、心臓の音が聞こえるって。今思えば、そんな特別じゃないことなのに、小さい頃はいたく珍しいことを見つけたみたいだった。
確かに意識すれば聞こえる。浅く、律動する音が。
そして友達は、私の胸に耳を当てた。それを不思議に見ていた私に、友達が悪戯っぽく笑ってこう言ったのだ。
「こうすれば、他の人の音も聞こえる。ソラもやってみるといいよ」
友達に促され、私は相手の胸に耳を当てる。
聞こえるのは、私と同じ音。少しだけ違った感じがするのは、気のせいだろうか。
だけど__その違和感を確かめる前に、私は思わず顔を離した。
「どうしたの?」
急に顔を離した私に、友達は少し驚いていた。
私の方も、恐らく驚いた顔をしていたのだろう。
でも__思ってしまったのだ。
トクトクと聞こえる心臓の音。普段は聞こえない……誰かの中にある、誰かを生かすための大切な音。
それを聞いた時、初めて私は目の前の彼女が生きているのだと実感した。
同時に恐ろしく思ってしまった。理由ははっきりと言えない__だけど、触れてはいけないものに触れてしまった。そんな気がして__
「どうしたの、ソラ」
ふと、目が覚めると。目の前に彼女の顔があった。
ソラは私の名前。そして私の名前を呼んだ彼女の名前は、友梨奈だった。
「ん……?」
「ちょっとだけうなされてたよ。大丈夫?」
暗がりの中、私と友梨奈は同じベッドの中でいた。
時間は十二時前。十時過ぎにベッドに入ったから、一時間ちょっとで起きたことになる。
「……変な夢を見てただけ」
「そう……?」
不安げに呟く友梨奈を、私は抱き寄せた。
頭を抱いて、一方的に顔をうずめる。同棲し始めて、一緒に寝る時はいつもこうだった。私が友梨奈を抱きかかえて、眠っている。
元々、私の体が大きいのと、友梨奈の体が小さいせいか、そういうスタイルが身についていた。最初は子供みたいで恥ずかしいと、友梨奈が拒んでいたけど、私が強引に続けてると折れてくれた。
「ん……」
彼女の体温と、甘い匂いに気持ちと体が解けていく。
友梨奈は体勢的に、自分が甘えてるみたいだと言っていたけど、実質は私が友梨奈に甘えているようなものだ。
けれど、今日は珍しく……友梨奈の方から頭をさらに寄せ、腰に回した力を少し強めた。
「……?」
「心臓の音、聞こえる」
小さな吐息が漏れて、友梨奈が甘えてきているのだと気づく。
「あー……ごめん」
「なんで謝るの?」
不快だったのかなって、離れようとする私だったけど、友梨奈は手を腰に回したままだ。
「昔ね。眠れないときにお母さんの布団に入ってたの。
お母さんは抱きしめてくれて……胸に顔が当たって、心臓の音が聞こえたんだ」
それで今も、目を閉じて私の音を聞いているようだ。
そんな彼女を愛おしく思いながらも……私は一つ尋ねる。
「心臓の音って、安心する?」
「……うん」
「昔ね。私も友達の音を聞いたことがある。でも、それっきりあの音が怖くなったんだ」
「どうして?」
「だって、それは……」
その音は、普段では聞こえない……とても現実離れした音に思えた。
だけど確かに、人間の中に存在する音。意識すればするほど、相手が本当に一つの生物なんだって気づいてしまうのだ。
「目の前の人も。立派なただの生き物なんだってね」
「……変なの。人間は生き物でしょ?」
「うん、そうだけどさ。なんかそれってグロテスクにちょっと思えちゃって」
多分、人に言っても分からない個人的なものかもしれない。私が勝手に気にしている、私だけの感覚に基づくものなのだから。
友梨奈は少しだけ黙った後、私から体を引いた。
起き上がって、両手を広げてこう言ったのだ。
「じゃあ、私は?」
「えっ……?」
「私の音、聞いてみる?」
そう言われ、私は固まってしまった。
友梨奈の心音を聞く。いや、友梨奈のだったらそこまで忌避感はないかもしれないけど、今度は胸に顔をうずめる気恥ずかしさの方が上回る。
とはいえ、彼女にそう言われたら断ることもできない。
色々考えた末、観念した私は友梨奈にゆっくりと身を寄せる。
「し、失礼して……」
「ふふっ、なにそれ」
「……むぅ」
何だか下手に緊張しながらも、そっと頭を胸に乗せる。
聞こえる。友梨奈の音が。
(……鼓動がずっと響いている)
温かい彼女の体の中で、その音は絶えず響いていた。
小さく、それで力強く。
彼女が生きる音。それが友梨奈の音だと思うと、私はその音の連続に、さらに身を委ねた。
気がつけば、私は眠っていた。
窓から薄らと差し込む朝日。それに気づくと、私の意識は緩やかに浮上していく。
(寝てたんだ……私)
そうして思い出していく。昨夜は友梨奈と一緒に寝て、その心臓の音を聞きながら眠りについたのだと。
「……」
今まで抱いていた違和感はなかった。
ただ安心した。友梨奈の鼓動に。確かに怖いと思ってしまうこともあったけど、私はそれを受け入れていたのだ。
隣で友梨奈は眠っている。穏やかな寝息を立てながら。私は指先で彼女の髪と頬に触れた。
「……友梨奈」
もしかしたら、他人を受け入れるというのは、こういうことなのかもしれない。
たとえグロテスクなものに感じても、自分のものとして受け入れ__いつか心地いいものだと思えてしまう。
目の前の不和。自分とは違うもの。
だけど……私はそれがとても愛おしい。
「ん……」
そして、友梨奈も目を覚ます。
まぶたを開け、その瞳は私を捉える。そして眠そうな声で言うのだ。
「おはよ……ソラ」
そんな声に、私は笑ってこう返すのだ。
「おはよう。友梨奈」
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