第3話「灰色の海の炎」

 私が陸上に捧げた三年は、少なくとも情熱によるものだったはずだ。

 今思い返しても、走るのは楽しかったと思う。短距離のフィールドで、私は私ができる全てをやってきたと思う。

 中学の三年間、私はただ走り続けていた。

 ゴールの一線を越えた時、私の頭は空っぽになる。

 胸にある感情は、二つだけ。走ることへの強い執着。そして……走り続けたことへの無力感。

 __思い知らされる、自分の限界。自分の世界、その速度の限界。

 きっと、分かっているんだ。走れる距離も、速さも。自分の中でうっすらと。

 試合はいつも一瞬だ。その何秒かの中で、私はいつも向き合うことになる。自分の限界。それを眺めているうちに、自然と湧いてくるのは、自分の限界が定められているという事実と、諦めに近い無力さだった。

 だから__

 「……!」

 中学最後の試合の日。競技場で見かけたあの姿は、今でも目に焼きついている。

 走り出した彼女を見た。

 長い髪を束ね、ふと見えたその表情はかすかに笑っているようで、

 (……なんで)

 心の何処かで、そう呟く自分がいた。

 抱え続けた感情。それを消し去ってしまったあの人の姿が。

 いつの間にか、目を離せなくなっていた。




 朝練の時間は、いつも早い。

 (……眠い)

 ジャージに着替え終えて、運動場に出た私はぐっと伸びをする。

 時間は朝の6時前。学校の校舎は空っぽで、一応校門は空いているけど、教室はおろか、職員室まで人の気配がない。

 私は辺りを見回し、とりあえず朝練の準備を始める。朝は時間がないから、とりあえず部員が飲むスポドリとかは用意してある。

 あとは備品を倉庫から取り出すだけ。誰もいないグラウンドの片隅で、ポツンと立ってる倉庫。私はそっちに顔を向けると、

 (……あ)

 倉庫の前に誰かが立っていた。……この時間に来る人なんて、だいたい決まってる。

 あの頃より少しだけ伸びた黒い髪。肩口までしか伸ばしてない私とは違って、髪は糸みたいに先輩の細い体を優しく撫でる。

 私が近づくと、相手もすぐに気づいた。

 「おはよう。深月ちゃん」

 深月。私の名前を呼んだその人に、私も小さく頭を下げて返事をする。

 「おはようございます。先輩」




 朝練は6時半から始まる。けど、先輩は誰よりも早く来る。

 先輩……灯里先輩は、ひとまず備品を置いて深呼吸した。

 「いつも早いね。深月ちゃん」

 「先輩こそ。私は家から近いですけど、先輩は1時間ぐらいかかるんですよね?」

 早起きはキツイけど、先輩に比べると全然遅いほうだ。

 そもそも……この学校を選んだのは、部活の絡みもあるけど、家の近さから選んだのもある。自転車で飛ばせば学校まで20分だ。

 「本当はもうちょっとだけ寝たいけどね。……でも、こうして静かな環境で一日のスタートを切るの、好きだから」

 先輩は空を見上げる。光の届かない空。でも決して真っ暗なわけじゃない。空を覆う雲のシルエットは薄っすら見えて、わずかな光がその合間を走っていく。

 それは……何だか現実離れした美しさに見えて、少しだけ怖くも感じた。

 「……でも、私も好きですよ。この時間。

  誰も知らない内に、一日を抜け駆けする感じ。いつも先輩には負けますけど」

 私が笑うと、先輩もくすくすと笑った。

 「……うん。そだね。それにしても、毎朝来るなんて、深月ちゃんは真面目だね」

 「それは……日課みたいなものですし」

 この時間に来るようになったのは、半分たまたまだ。思いっきりスマホの時間を見間違えて来たのがきっかけだったし、最初はこの時間に先輩が来ていることを知って、結構驚いた。

 そのうち、私もこの時間に顔を出すようになっていた。確か今年の6月ぐらい。

 それは本当に、日課みたいなもの。

 毎朝、先輩の顔を見る。毎朝、不思議と話すことはいっぱいあって。

 そして__今日も。一つ、先輩に話しておきたいことがあった。

 「先輩」

 「ん?」

 何気なく声に出してみたつもりだけど、心臓の鼓動は誤魔化せなかった。小さく跳ねた音は頭を後ろをすり抜けて、手足が重くなる錯覚があった。

 でも、私は見て見ぬふりして切り出すことにした。

 「……陸上、やめちゃうんですか?」

 あまりにも唐突すぎた質問に、灯里先輩は目を丸くした。

 誰もいない運動場は風の音すら聞こえない。秋の朝は日が昇るのも遅くて、灰色の空が薄暗く光を帯びるだけだ。

 先輩は持っていたハードルを、ゆっくりと下ろした。

 「ちょっと気が早い質問じゃないかな?」

 「あー……ごめんなさい。でも、先輩とかも進路決めてる人、結構いますし……」

 いきなり過ぎた質問に、私は反省する。

 先輩は怒らない。驚いてもいない。ただ、淡々と。

 「多分、やめちゃうかも」

 そう言って、未明の空を見上げる。

 「卒業してからも続けてるの。なんだか想像できないし」

 「そう……ですか」

 先輩にそう言われてしまうと、私はただ頷くことしか出来なかった。

 困ったように先輩は笑う。その姿に、私は一年前の記憶を重ねる。

 (……あの時)

 中学の、最後の試合。私は偶然にも先輩と出会っていた。

 先輩はOBとして母校の試合を見に来ていたらしい。先輩は県の中ではちょっと有名な選手だったみたいで、他の生徒とか先生の要望で、一度走ったみたいだ。

 先輩は、走っている時、不思議な表情をする。

 笑っているような、泣いているような、何だか分からない、多分これからも分かることができない表情。

 まるで__何かに救われたような、そんな顔。

 私はその表情に目を奪われた。何故かは分からない。でも、

 私もあんな風に走れたら、と。

 そう思っていた自分がいた。一瞬で過ぎていく世界の中で、自分の限界と向き合い続ける時間を過ごしていた自分には、先輩の姿は羨ましく見えた。

 きっと、先輩は走ることが好きなんだ。

 その眼は自分自身を見ずに、ただ目の前の世界を見続けている。

 昔から、走ることは得意だった。

 そして結果も出た。

 だから、続けた……その道理は間違っていないと思い続けた自分の世界を、無理やりこじ開けられた気がした。

 結果が出たから……私の理由は、それしかない。それはいつの間に執着に繋がり、限界があるから……それが、どうしようもなく無力に思えた。

 でも、そうじゃないと。あの時の先輩はそれを私に見せつけたんだって__

 (……先輩)

 未だに光は射さず、完全な朝は来ない。

 まるで寝ぼけたみたいな空。先輩との二人っきりの朝は、いつも冷たい。

 「……やめないで欲しいな」

 「……?」

 ふと零れかけた言葉。私は思わず口を閉ざし、先輩は私の声に首を傾げた。

 そう言ったら、先輩は考えを変えるのかな。でも、それは本当に私が言いたい言葉なんだろうか。

 自分の気持ちは、分からない。先輩にどうして欲しいか。そもそも、私は先輩との関係をどういうものにしたいのか。

 分からない、けど。

 「……何でもないですよ」

 私はとりあえず笑ってみる。愛想笑いにもなってないだろうけど、少なくとも無意味に思える思考をリセットできた。

 「まだみんな来るまで時間ありますし、ウォーミングアップだけでも済ませておきましょう」

 「……うん。そだね」

 そうして、私たちは止めていた手を動かし始めた。

 もうすぐしたら、日が照り始めて、部活のみんなが集まり始める。

 夜明け前の時間は、すぐに過ぎる。冷たくて、シン、とした先輩との時間。

 今日が始まる、スタートラインに立つ時間。私は、この時間が愛おしく思えた。




 「珍しいね、深月から電話かけてくるなんて」

 時間は変わって、夜。部活終わりで疲れ切った私は、ベッドに寝っ転がりながら、久々に中学時代の友達に電話をかけていた。

 「ーん。別に。ただ、何となく電話かけただけ」

 「なんだ。そういう時って、だいたい相談ごとじゃん。深月って悩む時ってバレバレだから」

 「ええ? バレバレかな……? まぁ、相談ごと未満の話だけど」

 寝返りをうって、私は天井を見上げながら言葉を続ける。

 「……前にさ。話してた先輩がいたじゃん」

 「うんうん。中学の時に会ったえらく速い人だよね。偶然、高校も同じだったんでしょ?」

 「そう……偶然、ね」

 相槌を打ちながら、私はぼんやりと入学当時のことを思い出す。

 正直、驚いた。競技場で見かけたあの人と、新しい学校で再会できたから。

 「追いかけて入学したわけじゃないのに、ばったり先輩がいたんだから」

 一度すれ違っただけの先輩と、もう一度再会して。あの表情の意味を問いかけることも、彼女の姿勢を倣うことも。強烈に考えたことはなかった。

 ただ、胸に感じた熱は消えないままで。

 やっぱりつま先は自然と、先輩の方を向いてしまう。

 「先輩、このまま辞めちゃいそうでさ。そりゃ三年の夏ぐらいになったら、みんな自然と辞めちゃうもんなんだけど」

 「まぁ、大学になっても続ける人はいると思うけどねー。でも、その先輩……話聞いてる限りでは、そんな陸上に執着してる風じゃなさそう」

 「そう……なんだよね。だから、なんか勿体ないな……って」

 私なんかがそう思うのは、失礼かもだけど。先輩の走る姿を見ていると、そう考えずにはいられない。

 先輩は、走る前には大きく息を吸い込んで。

 先輩は、スタートを切る瞬間、目をゴールに向けて細めて。

 先輩は、ピストルが鳴いた後、誰にも負けないぐらい、軽やかに駆け抜けていく。

 目を離せないほど、鮮烈に__私の目に映った。

 「勿体ない……勿体ないよ……うん」

 「なーに。一人で納得してんのさ、深月さん」

 友達が呆れつつ、笑い交じりにツッコミを入れた。

 「……だって、さ」

 「じゃあ、深月」

 仕切りなおすみたいに、ちょっと神妙な感じで切り出した。

 「仮に。先輩にやめないでくださいって、言ったら。先輩は何ていいそう?」

 「それは……」

 その質問は、ちょっと困る。というか、そんな切り込んだこと、先輩に言えるわけ……

 「じゃあ、さらに仮に」

 「へっ!?」

 「先輩が深月の言葉を呑んで。陸上続けるってなった時、深月はどうする?」

 友達の、更に続く言葉に、私はいよいよ混乱してくる。

 (先輩が……もし陸上を続けるとしたら……?)

 それは……嬉しい。うん、嬉しい。

 だって、やっぱり勿体ないと思うし。

 「喜ぶ……よ。先輩、陸上やってるの楽しそうだし」

 そう答える。すると、通話口から不満そうな声が聞こえた。

 「そーじゃーなくて……じゃあ、深月。それを言って、先輩を説得する?」

 「……それは」

 私はいよいよ答えあぐねて、もう一度寝返りを打つ。

 陸上を辞めてほしくない。そんな気持ちだったら、先輩を困らせるだけだ。

 でも、だとしたら。

 私は先輩になんて声をかけるのだろう……そもそも。私は。

 「深月は、どうしたいの?」

 私の心の中を覗いたみたいに、通話口から声が聞こえてビクッとなる。

 起き上がって、電話を構えても、答えは出てこない。

 もう一度、先輩のことを思い出す。

 あの姿を、あの後ろから眺め続けた背中を思い出して、

 一つだけ、湧き上がった気持ちがあった。

 「……ある。私の、したいこと」




 その日。私はいつもより早めに登校していた。

 普段の時間がもともと早いせいで、お母さんから心配されたけど、適当に理由をつけて家を出てきた。

 いつもは日が微かに上りはじめる時間だけど、この時間はさらに暗い。真夜中のような通学路を歩きながら、私はわずかな緊張を抑えて、ゆっくりと呼吸を繰り返す。

 「……寒い」

 学校に着く。とりあえず、いつものルーチンワーク。

 準備を終わった頃には、空に僅かな光が通い始める。秋の冷気は少しずつ冬のものに変わっていく気がして、私はジャージの襟で口元を隠す。

 「先輩……まだかな」

 ふと携帯に目を落とすと、ようやく普段の登校時間になったばかりだった。

 先輩はいつも私よりも早く来る。だとすると、もうすぐ……

 「……深月ちゃん?」

 先輩が、運動場に顔を出す。

 私はいつも通りに挨拶をする。

 「おはようございます。灯里先輩」

 「おはよ、深月ちゃん。今日はどうしたの? なんか早いね」

 それに……と、先輩は私の真横を不思議そうな目で見た。

 短距離走のフィールド。私は準備を始める時、いの一番に用意したものだ。

 そして次に、私の隣に立っていた彼女を見て、先輩は目を丸くする。

 「えっと……その子は?」

 「どーも。深月の友達の、瀬崎恭子っていいます」

 恭子は手を振りつつ、そのまま体をぶるりと震わせた。

 「寒いっ! こんな時間に呼び出すとか、鬼か深月!」

 「ごめんって、恭子。またお礼はちゃんとするから」

 「ほんとー? まぁ、なんにせよ。早めに終わらせてね」

 そう勝手に話す私たちに、先輩はさらに困惑気味だ。恭子は私の肩をつついて、

 「ほら。先輩にお願いするんでしょ」

 「……うん」

 いい加減、話さないと。そう正面を向くと、途端に緊張する。

 先輩はなんて顔するんだろう。もしかしたら、怒られてしまうかな。

 でも……先輩が、近くにいる。それはきっと、今しかない時間だと思うから……

 「……先輩。私と、一緒に走ってくれませんか?」




 長い髪を上げ、纏めた髪が静かに揺れた。

 先輩は呼吸を整えて、スタートラインで私を見る。

 「どうして……私と?」

 今一度、先輩は私に聞いてくる。

 先輩の顔を見ると、実は憧れてましたなんて、言うのが躊躇われる……というか、恥ずかしい。とりあえず、私はその場しのぎの誤魔化しを口にする。

 「せっかくの時間ですし、一度ガチな意見を貰いたくて」

 「でも、それなら昼間の時間でも」

 「その……先輩とこうしているのも、もしかしたらそんなに長くない、から」

 ふと、隠していた本音が少しだけ零れていた。

 先輩は少しだけ驚いたような顔をした。私は、今どんな顔をしているのか分からない。笑ってるのか、それとも泣きそうになってるのか。

 だけど……先輩は目を閉じて「わかった」って、納得してくれた。

 「深月。大丈夫?」

 その横で、恭子が軽くが肘でつついてくる。

 「大丈夫だよ。恭子もごめん。いきなり呼びつけちゃって」

 「いいって。私の学校、始業も遅いから」

 それに、と。恭子はふっと笑って、

 「久しぶりにさ。深月の走るところ、見たくなってね。

 深月、走ってる時、結構いい顔してるんだと思うんだよね」

 「えっ……?」

 友達の意外な言葉に、私は隣に立つ彼女をもう一度見た。恭子はそのまま続けて、

 「真剣な顔、してるから。ずっとまっすぐ前を向いてて、他の人と走ってるのに、深月だけ孤高の人って感じがして。

 だから、面白いかも。そんな深月が、ただ、あの先輩を見てるってさ」

 また恭子が笑った。私は返す言葉が出てこなかった。

 走っている時は、あくまで自分のことだけ。でも、当たり前だけど、私のことを見てくれてる人もいるって、今更気づかされた。

 恭子に背中を押され、私と先輩はそれぞれ位置につく。

 ピストルを手に、恭子もまた位置につく。私はもう一度軽く呼吸を整える。

 隣には、あの先輩もいる。

 ブロックに乗せた足がわずかに震える。それを、抑え込むように足に力入れた。

 「二人とも、行きますよ」

 確認するように恭子が言った。

 心臓の鼓動が、耳に響く。

 意識するほどに、自分の体が熱く感じてくる。いつも走っている時と同じ、全開で体を動かした時、同時に感じるの体の限界を。

 でも、今は関係ない。そう信じたい。

 先輩との勝負、この時間。この瞬間に、そんな余計なものは持ち込みたくない。

 「___ッ」

 世界を裂くように、号砲は鳴り響いた。

 先輩と私だけ……100メートルだけの世界に私たちは飛び込む。

 (……体が、軽い)

 走り出した瞬間、冷え切った空気が体と思考を一瞬で覚ました。

 いつも以上に、走り出した足が軽い。多分、今までの中で一番のコンディションかもしれない。今まで感じていた無力さと執着心。その執着も、泥のように重く、体を動かすたびに絡みつくように重かったはずなのに。

 この瞬間を、どこかで待ち望んでいた気がする。だって、今は先輩と__

 (__あ)

 目の前に先輩が走っていた。

 多分、私は最高の走りが出来てるはず。少なくとも手ごたえはある。

 でも、それでも先輩は速かった。わずかな距離を離されてる。それはいつもなら追いつける距離ではあるはずなのに、なぜか遠く感じてしまう。

 私は今とても楽しい。先輩と一緒に走れて、絶対に自分では気づかなかったことを、貴方は教えてくれたから。

 今もそう。その走る姿に見惚れている。どこまでも遠くを見ていて、その足はどこまでも遠くへ行こうとしている。

 ようやく気づかされる。私は先輩と初めて一緒に走った。だから今まで気づかなかったことを嫌でも思い知らされる。

 憧れ続けた先輩の背中。

 それに、私は追いつくことができないって。

 (__先輩)

 先輩は走り続ける。後ろの私と目が合うことなんて決してない。

 先輩の視線の先を追う。その眼はずっと遠くの空を見つめていた。

 灰色の空。一日が始まる前の世界。そこは厚い雲がずっと流れ続けていて、映し出す空っぽの色には空虚なものを感じた。

 その時、鮮烈な赤が、空を一気に染め上げた。

 それは上り始めてようやく顔を出した朝日だった。灰色の空に突然かがやいたそれは炎のように空を照らす。

 生まれたばかりの鮮烈な光。その光に、先輩が重なる。私は思わず声を出しそうになる。

 (__先輩)

 走りながら、必死にその背中を追う。

 あんな風に走りたいと思った。今ならそれに近づけると思った。

 でも__遠い。先輩の背中が。私を置いて行って、何処までも自由に駆け抜けていく。その陰に私の体は追いつくことができない。

 今まで感じた無力感。それ以上に私は__

 「……いかないで」

 体を必死に動かす。もう走り方なんて滅茶苦茶だったかもしれない。

 でも、追いつきたかった。追いつけなきゃ私は、このまま__

 「置いていかないで……っ! 灯里先輩!」

 その瞬間。

 赤の光に埋め尽くされた世界は、一気に真っ黒なものへと変わった。




 「……にしても、盛大にコケたよねえ」

 ちょっと間が開いて、私は地面に大の字になっていた。

 必死に私を呼びかける先輩。それに対して、呑気に私の体を確かめる恭子。

 何があったのか、無意識のうちに理解してた。起き上がろうとすると、さらに痛む膝に自分がコケたことを実感した。

 「だ、大丈夫!? 深月ちゃん!?」

 「あー、大丈夫です。ちょっとテンパってコケちゃったかな~って……」

 実際、驚くほど体はピンピンしてた。痛いのは擦りむいた膝だけ。こんなに派手に転んだのは、小学生以来だろうか。

 「と、とりあえず瀬崎さんは、保健室行ってくれるかな!?」

 「いや、この時間空いてないでしょ」

 「あっ、あ……そうだった」

 「私、絆創膏とか持ち歩いてますから、ちょっと取ってきますよ。先輩は深月のことを見てやってください」

 そう言って、恭子は走って行ってしまった。私は先輩に肩を借りて、ゆっくりと起き上がる。

 「大丈夫?」

 「……はい。平気です」

 そのまま、私たちは自動販売機が並ぶ休憩スペースまで歩く。そこに水場があるので、出血した膝を軽く洗い流す。

 「冷たっ」

 「わわっ、タオル貸してあげるからちゃんと傷口拭いてね」

 「す、すみません」

 そうして傷を洗い流した後、先輩は飲み物を買ってくれた。

 ココアの缶。体を動かした後は冷たいものが飲みたいはずなのに、今は何だかそんな気分じゃなかった。

 周りに登校してる子達はいない。休憩スペースにいるのは、私達だけだった。

 「……ごめんね」

 ベンチに座って、開口一番に先輩は謝った。

 「先輩は悪くないですよ。私に勝手にコケたんですから」

 声を出して、その声色を出来るだけ明るくしようと努力してみる。

 でも、無理だった。頭の中は、さっき走った時に感じた暗いものしかなかった。

 「……こちらこそ、ごめんなさい。私が、勝手なことを言い出したせいで」

 手元の缶に目を落とす。栓を開ける気には慣れなかった。

 隣の先輩は、ちょっと躊躇った後、私に質問する。

 「……どうして、深月ちゃんは私と走ろうとしたの?」

 「……」

 走る前に言われた質問。それを、もう一度聞かれる。

 どう言っていいか、上手く言葉がまとまらない。でも、なるべくちゃんと話せるように、真剣に言葉を選んだ。

 「私は……先輩に憧れてました」

 「えっ……」

 「多分、先輩は覚えていないと思いますけど。県大会の会場で、私は先輩の姿を見かけたんです。先輩はOBとして同じ中学の子と走っていたんだと思います。

 私はその姿を見て、憧れたんです。先輩、何だか楽しそうに走るから」

 その姿は、今までの私とは違う在り方だった。

 走ることに勝手に執着して、勝手に限界を感じて。

 実は走ることに、誰よりも目を背けていたのかもしれない。

 「でも、先輩はそうじゃないって。走ることが楽しいってことを。気づかせてくれたような気がしました。

 だから、いつか一緒に走りたいと思ってました。先輩がもしかしたら陸上をやめるかもしれないって言われた時、もうチャンスが今しかないと思って、だから……」

 その結果、私は先輩に追いつくことができなかった。

 私の灰色の世界は、先輩がいるだけで変わると思った。先輩が景色に、私も連れて行ってほしい思った。

 でも、そんなことは有り得なかった。先輩の背中は何処までも遠く、私の足では届かない世界まで飛び立っていくみたいだった。

 届かない。先輩が炎のような光に、私は手を伸ばすしかできないって。

 「だから……だから……っ」

 言葉を続けようとした時、嗚咽がそれを遮った。

 いつの間にか涙が零れていた。自覚した瞬間、さらに頬から流れ落ちて、

 止められなかった。あふれる涙と、自分自身の気持ちを。吐き出すように私は、

 「……先輩に追いてかれるのが怖かった。

 一緒に走ってくれた時、本当に楽しかった。でも、私の足はどうしても先輩に追いつけなくて、どれだけ頑張っても足は動いてくれなくて……!」

 言葉が、剥き出しのまま感情が零れる。先輩は黙って聞いてくれた。

 「このまま追いてかれたら、私は昔のままに戻るんじゃないかって。また、同じことを繰り返すんじゃないかって……だから!」

 もう、止められなかった。目は、わずかに先輩の方に向いて、

 「やめないでください、先輩。私は、ずっとあなたと一緒に走りたいです……」

 ずっと隠していた言葉を、伝えてしまった。

 その言葉に先輩は答えない。でも、目を背けもしなかった。ただまっすぐなまま私を見て、私は泣き顔を見られたくない卑怯な思いでまた目を背けてしまった。

 先輩は、失望したのかな。怒ってしまったのかな。

 どれだけ言われてもいいと思った。それは当然の罰だから。こんな身勝手なことをした私に対して、何を言われても当然だと思った。

 でも……先輩は、私の手を軽く握っただけだった。

 「……?」

 怒りもせず、軽蔑もせずに。言葉を待っていた私は思わず顔を上げた。

 先輩の表情は……分からなかった。でも、どこかで見覚えがあった。

 (……あっ)

 それは、まるで救われたような表情だった。

 そして、先輩はゆっくりと口を開いた。

 「ありがとう。深月ちゃんがそう思ってくれたなら、とっても嬉しい。

 ほんとはね。私、自分がやってることに自信がなかったんだ。中学時代から陸上やってるけど、その頃からあんまり自身はなかったんだ」

 でもね、と。先輩は優しく笑う。

 「高校一年の時。中学の時の顧問に呼ばれて、後輩の試合を見に行った時、私も一緒に走ることがあったんだ。

 その時ね。先輩は楽しそうに走りますねって。後輩に言われたの。私、びっくりしちゃった。自分が陸上のこと、そんなに楽しくないって思ってたのにね」

 「それって……」

 「うん、多分。深月ちゃんが、私を見つけてくれた時のこと」

 そして先輩は、頭を私の肩に預ける。

 「だからね。あの時の言葉を、もう一度、深月ちゃんが言ってくれたことが、とっても嬉しかった。

 走ることはきっと苦しいことかもしれない。でも……それでも、深月ちゃんが私を追いかけてくれたなら、きっとこの先も大丈夫だから」

 それはきっと、私を送り出してくれる言葉。

 首を横に振る。私はきっと走れない。このまま先輩もいなくなった場所で私は。

 「きっと、一人じゃないから」

 「……えっ」

 「さっきの瀬崎さんもそう。深月ちゃんを見てくれてる人はたくさんいる。

 フィールドに立ってる時は気づかないかもしれない。でも、一人で走ってるように見えて、みんな私達のことを見てくれてる」

 だから、大丈夫だよ。そう言って、先輩は私を抱きしめてくれた。

 涙は止まってくれない。声にならない声が、言葉をせき止め続ける。

 でも、それでも、その言葉は私の背中を無理やりにでも押してくれた。

 今まで灰色だった私の瞬間に、また新しい火がついたみたいに。

 今は先輩のいなくなった空白に耐えられないかもしれない。また一人で走り続けることに耐えられないかもしれない。

 意識するたびに感情は、抑えられない。でも、それに抗うなにかもあった。

 (……一人じゃない)

 きっと、先輩の言ってることは正しい。一人じゃない。私もまた、誰かと一緒に走り続けていたかもしれない。

 だから、大丈夫。

 少なくとも、私はその言葉を……先輩の想いを信じたいと思った。




 夜が明ける。初夏の風は、爽やかなようで体を焼くように熱い。

 先輩がいなくなっても、日々のルーチンワークは抜けなかった。誰よりも早く来て、誰よりも早く準備する。先輩がいない今、私より早く来る子はいなかった。

 誰もいない空っぽの運動場は寂しかった。でも、私はおかまいなしにグッと伸びをする。

 「……よし」

 準備を終えて、私は遠い空の夜明けを見る。

 あの頃から、走ることには前向きになれたと思う。でも、憧れの背中が見えなくなったのは、やっぱり寂しかった。

 でも、あの人はきっと大丈夫って言ってくれた。

 私も二年生だ。来年、このまま陸上をやめるかもしれない。でも、このまま走り続けた結果も見てみたい気もしてきた。

 未来に期待すること。そんな気持ち、今まで感じたことがなかった。

 「……うん、今日も頑張ろ!」

 始まりは静かに。でも、なるべく元気よく声を出した。

 心はずっと空虚かもしれない。でも、大切な人が教えてくれた熱は、今でも胸に残っているはずだから。

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