暮、泥

伊島糸雨

暮、泥

 暮れなずむ境界の色、その温度のことを、わたしは密かに愛していた。かごめかごめが雑音混じりに流れるそのいっときだけは、役立たずの頭も少しはマシになった。それはわたしだけの特別で、秘密で、何より語られるべきではない幻想の一種だった。空を焼く色。街を熾火に変える色。誰もいない団地の愚かにカラ回る生活の匂いを火葬していく束の間の逢瀬。人目を忍び夜の暗がりに息を潜める必要はどこにもなかった。忍ぶべき一切は死角に埋もれ、ただひとつ焦点の合う場所には、必ずあのひとの姿があった。

 伽藍堂はいつだってわたしの声には応えない。軋む扉の不快な啼声に顔を顰め、白化した珊瑚の鍵を右に二度、左に三度回してやる。リノリウムの廊下は斜陽の陰に沈み、夜間巡回の院内で瞬く不確かな光を思い出す。連鎖する扉たちの横では鉄格子の窓から光が漏れる。点いては消え、消えては点いて、それが何かの信号に似ていることをわたしは知っているけれど、わたしは解読するための鍵を知らない。部屋番号は同化と肥大を繰り返し、666の先に霞んでいくことをまるで疑問に思っていないように見える。いくつかの気配と共に冷たい光の霊柩に足を踏み入れる。浮遊がわたしを連れて行く時、気配はすべて霧散している。空っぽの角灯ランタンを掲げる。そこには遠くねばつく残照が宿り、わたしを牢獄の外へと導いている。

 夏の残滓を攫うように、側溝に並ぶ蝉の葬列を風が揺らしている。黒い斑は蟻の弔問、尽きることのない蠢きは草葉の茂みに消えていく。呼吸も消えた団地の中で、ひとでなしの生命ばかりが緩やかな時間の中を行き来している。何度も、何度も。その光景は繰り返される。逝きそびれた茅蜩ひぐらしの悲鳴が、点在する木々の、暗緑の波間で木霊こだましては、存在しないかたわれの亡霊じみた求愛を探し続ける。

 かつて彩りに輝いていた、過去に色褪せたタイルの道はひびと歪みによって舗装されている。ひとが歩むほどに傷を増やし、劣化し、ひとが姿を消すほどに風化して、そしていつしか忘れ去られる。くすんだ道の両端で、手入れを欠いた雑草の、わたしの無知によって名付けの機会を欠いた青くくゆる匂いにむせ返る。ベランダに覗く洗濯物が風に流されて燃え尽きる。気配たちはひとさし指を唇にあて、肌に合わせて塗り込まれた漆喰の奥で黙然と宙を見つめている。あるいはそれはわたしであったかも知れず、幽体と袂を分かつにはどれほどの争いが必要なのかと考える。霊は沈黙を好む。帰るべき場所に縛りつけられ、顔を失くしたまま永遠を余儀なくされる。

 神社とかなら素敵なのにね、とはブランコを立ち漕ぎするあのひとの弁。出会いの場所、と付け足されるけれど、わたしは別段そんなロマンは求めておらず、価値観の相違を隠したくて、はあ、まあ、とお茶を濁すのが常だった。わたしののっけからの関心事、あるいは重要事は、同じ学校の喪服じみた黒地に喀血の跡にも似たリボンが揺れることの一点にあり、場所以上に時間、何処よりも誰であったので。

 きぃこ、きぃこ、と軋み揺れるたびにあのひとの長髪は揺れ、その重み、絡みつけばきりきりと締め付けるような艶やかな繊維の波は、生温い空気と西日をかき混ぜて、気怠げな香りを振りまいている。隣の席にはからっぽの花瓶が置かれ、絶妙な均衡を保ちながらゆらゆらとひとりでに漕がれている。わたしは滑り台の鼻先に腰を下ろして、あのひとの姿を眺めている。

 寂れた団地、薄ぼけた棟の合間に身を埋めた公園は、剥げかかった遊具の塗装とその下に覗くざらついた鉄錆の色でできている。かつて子供が遊び大人たちがその躍動を見つめたかも知れない幼い光景は今や打ち捨てられ、どこにも行けなかった亡霊たちの埃を被った澱みが積もる。郷愁に渇き、憐憫に湿る砂の地面には、過去に刻まれた足跡も残ってはいない。

 自分たちがここにいることの意味を、わたしもあのひともよくわかっている。帰るひとのいない部屋でひとり膿み腐るのを待っていたわたしは密かに導かれてここにいる。行くはずだった場所。得られるはずだったものたち。無気力を言い訳にそれらを投げ打ってきた結果が今ここにある。それはきっと、あのひとも。「学校、同じですか」きこきこブランコを漕ぐ影に向けて、開口一番放った言葉。あのひとは何も言わずに、誘うようににこりと笑う。

「行かないんですか、学校」

「行けたら苦労しないんだけどなあ」

 何らかあって追い出されたらしいと後になってわたしは理解した。どうして制服を着続けるのかと訊ねてみたら「未練、未練」とあのひとは唱えた。歌うように言うな、とぼんやり思っていると、かごめ、かごめ、と口ずさむ。かぁごめ、かごめ、かぁごのなぁかのとぉりぃ、は、いぃつ、いぃつ、でぇやぁる……。わたしの方をちらと見る。わたしは思わず先を呟く。よあけのばんに、つると、かめと……。

「どこまでが本当なんだろうね」後ろの正面、とあのひとが呟く。「遊女、とかいう……」わたしが応じると、よく知ってるね、とこちらに目を向ける。底無しの黒。どこを見ているのか、いつになっても判別がつかない瞳で。

吉凶悲喜交々ひきこもごも、ね。ひとって不思議だね。言葉ひとつであることないこと思いつく。でも、そんな空想たちが、退屈な本当なんかよりもずっと気持ちがいいんだろうね」

 やったこと、ある? 問われて、わたしは黙って否定する。そんな遊びが成立するほどの関係を、過去に築けた試しはない。残念なことに。「じゃ、今度やろっか」誰と、とは訊ねなかった。愚かな問いだと思い、肺腑の底に仕舞い込んだ。

「あなたは、うまくやれそうなのに」

 ローファーの爪先で砂に円を描きながら、わたしは何となしにそんなことを言う。具体的な理由は言葉にならない。あのひとは相も変わらずブランコを漕ぎ、その隣では花瓶が揺れる。地面に壁にとへばりつく黒い染みは角度も変えずにじっとしている。茜はいつからか空に居座り、夜の帳はその役目を忘れたように地平の底で眠り続ける。生温い風ばかりが頬を撫で、わたしは重ねて言葉を繋ぐ。

「やったこと、あるんでしょう」指示の対象はぼかされても、あのひとは何のことかわかっている。「そうだね」どんな想いも褪せた声であのひとが言う。「昔、ね」

 団地に連なる無数の棟を越えた先には触覚じみた煙突が口を伸ばし、雲に馴染む灰の色調で細々と煙を吐いている。最初からこうだったよとあのひとは言う。「あれは火葬の煙」誰もいないこの場所でいったい何が焼かれているのかを確かめる術はない。散歩の行末は無窮の団地であって、煙突は永遠の裏側に描かれた細かいドットの背景として在る。茅蜩ひぐらしは寂れた棟の合間を行き交って番を探し、季節の終わりを悟って悲鳴を上げる。夏の悲鳴。終わらない終わりに発狂してはひっくり返り、そのグロテスクな腹を晒しては、空に棚引く煙を眺めている。「みんな似たようなものだよ」あのひとは時折そんな言葉で厭世し、「冗談」と笑いもせずに翻る。真意は青く香る草叢と錆の霞に隠れている。倦怠に糸を引く拙い言葉の中で、わたしがそれを目にすることはないだろうという予感ばかりが低く足元を浸し続ける。

 コンクリートに絡みつく蔦の幾何学模様はいつしか時の砂塵に攫われ姿も眩む。「花火をしよう」あのひとはいつも思い立ってわたしを誘う。「こんな明るい時間から?」たくさんの線香花火が公園の砂にばっと散らばる。

「どんな時間でも」

 赤熱した小さな涙は、弾けて消える刹那の象徴であるという。ふたりで屈み溶け合う陰翳の内側で、かれらはぱちぱちと炎をこぼす。雫が絶えれば次を持ち上げ、そのようにして永生の真似事に精を出す。「勝負しよっか」あのひとが言い、わたしは思わず渋面をつくる。「露骨に嫌そうだねえ」何を隠そうわたしは勝負事が大の苦手で、差がつくことも順位がつくことも嫌いだった。負けたくないから、とあのひとが訊ね、わたしは黙って頷いた。負けず嫌いの裏返しと自分でも理解している。ただ、わたしという人間がどうしようもないというひとつの価値を、形はどうあれ目にするのが耐え難かった。

「きみは弱いね」

 歯に着せる衣などないとあのひとは笑い飛ばす。そしてそこにはひと匙の慈愛がこもり、不意に寄せられた口元からは耳奥を這うように甘い吐息が漏れる。「でも、それが堪らず愛おしい」

 音も景色も本当は画質の粗い現実で、それをわたしの空想が補っているのではと、ふとした時に思わされる。

 終わらない夕刻、尽きることのない団地の死した群像たちは、無限のさかずきにも喩えられる。かの泥濘は足踏みを呑み、停滞を言祝いで静かに寄り添う。時に薄く時に色濃く伸びる平面の影絵たち。かれらもまた逃れ難い存在の境界に囚われて、どこにも行けないのだと思い込まされている。だからこの街は永遠で、籠の中の鳥たちは馬鹿げた遊戯に付き合い続け、そして気力もなしに負けを重ねる。足りない語彙で矛盾を抱えた言葉を唱え、うっかり入り込んだ迷宮で延々隘路を彷徨い歩く。

 そうして在る限り、かれらはわたしを拒まないから。

 花火の雫を落として立ち上がり、「遊ぼう」とわたしは初めて彼女を誘う。あのひとは制服を着ている。同じ高校の、喪服の黒に喀血の赤。あるいはもっと幼少の、もしくは大人が纏う白と黒。爆ぜる花火の瞬き、揺らぐ肖像のまま彼女は笑う。「あなたが鬼で、ね」

 あのひとがわたしの手を引いていく。重ねた肌に熱はなく、薄い皮下のかたい骨が擦れ合う。鏡像のあのひとは気がつくとわたしを背から抱擁している。震える手を撫でさすり、たおやかな声でこう告げる。

「目を閉じて」

 暮れ泥む境界は目蓋の裏に沈んでいく。微かな光が血潮の色をわたしに見せる。あのひとのローファーが砂を擦り、ハイヒールが、スニーカーが、素足が、さく、さく、と音を鳴らす。かがめ、屈め、とかれらが歌う。わたしは膝を折って蹲る。影がさし、暗くなり、描かれる輪の合間を斜陽が射抜いてわたしを照らす。伽藍堂の団地の片隅で、雑音混じりの歌が聞こえる。


 かぁごめ、かごめ

 かぁごのなぁかのとぉりぃ、は

 いぃつ、いぃつ、でぇやぁる……

 よぉあけぇの、ばん、に

 つぅるとかぁめと、すぅべぇった……


 茅蜩ひぐらしが啼いている。わたしの悲鳴は掻き消える。



 虚ろな部屋が声を殺し、夕暮れの教室がわたしを燃やす。漠然とした閉塞と凝り固まった価値のレール。町を舗装するそれらがわたしのすべて、わたしの小さな世界に映る変容し難い秩序だった。

 漆喰に覆われた顔のないかれらはいつもわたしを置き去りにする。重く垂れ込める暗黙の了解たち。それらを気にせず爛漫といられるひとの体質が、ずっと妬ましく、疎ましかった。馴染めないのはわたしの方で、かれらはわたしを拒みはしない。誰よりも拒絶の意志に塗れていたのは、いつだってわたしの方だった。

 いとい、拒み、遠ざけ、笑いながら駆け抜けるかれらを見ては俯いた。足元には砂利があり、罅割れたアスファルトがあり、リノリウムが、フローリングが、畳があった。そしてそこにはいつもわたしに踏まれへばりつく泥のような影があった。わたしの影。わたしから離れることもできない哀れなかたち。それこそが真に選択の余地もなくわたしの傍にあり、わたしがこの街で微睡む限り同じ確度で在り続ける。

 どこにも行けないのではなく、と選べる強さを羨ましいと思った。半端者でなく、境界になく、分水嶺を越えた先こそ正しいのだと理解していた。存在しない亡霊が頭の中で囁いている。昼と夜のあわいを彷徨うわたしこそ、籠の中の鳥ではなかったか、と。

 わたしを囲むあのひとたち。混在する時系のすべての彼女が、暗がりの外で手を繋ぐ。軽快に大地を蹴り、いくつもの足音でわたしを追い立てる。望みもせずに籠に入った哀れなおにへと語りかける。いつになったら出てくるの? わたしが誰か当てられたら、そこから今すぐ出してあげる。

 底無しの黒でわたしを見つめてとわたしは言った。果てなき泥の愛でわたしのすべてを受け容れてと空想に縋り続けた。永遠をください。変わるのが怖い。変われないわたしを変えるほどの力が働くとして、わたしはそれに耐えられない。だからどうか暮れずの無限をわたしにください。廃れても壊れていても構わないから、いつまでも揺蕩っていられる愛すべき揺籃を、どうか。

 対等な関係で、当たり前の倦怠で、ありふれた鬱屈でこの脳味噌を満たしたかった。木偶の坊でも触れたかった。それが幼く拙い遊びでも、わたしはずっと、その関わりをこそ欲していたから。

 未練、未練、と呟くあのひとの名をわたしは知らない。どこまでが本当なんだろうね、と自問するあのひとをわたしは知ることができない。昔ね、とこぼすあのひとが辿った過去は語られることがない。きみは弱いね、と認めてくれたあのひとは、それでも確かにここにいる。けれど。

 それが堪らず愛おしい、と言ってくれたあのひとは、もうわたしの明日にはいない。

 だから、わたしはあなたを縛りつけ、斜陽のかげに磔にする。いつか忘れ去られるばかりの錆びた団地と画質の粗い火葬場の煙に紛れ、ぼやけた記憶を再生する。喪服のあなた、喪服のわたし。水に解ける血赤がリボンを結び、擦れ合う骨の痛みを思い起こす。交わした言葉は不明瞭な信号になる。ブランコを漕ぐ生温い風を知っている。とろとろと燃える火花の熱を憶えている。わたしはあなたの歌を口ずさむ。

 かごめ、かごめ。たぶんそれは鏡像未満の幻像で、残影の集合に似た歪な何かだ。そうとわかって、悟ってもなお──わたしはこの暮れなずむ境界の色、その温度のことを、愛さずにはいられなかった。


 うしろのしょうめん、だぁれ。


「わたし」

 わたしは応える。いつの間にか足音は止んでいる。どこまでも続く静寂しじまの中で、茅蜩ひぐらしが啼いていた。

 いいの、と足を止めたあのひとが控えめに言う。わたしは目を閉じたまま首肯する。「そっか」今度は素っ気なく、「目、開けていいよ」

 影はいつまでもわたしと共にある。

 何ひとつ変わらぬ夕刻の狭間で、攪拌された瑕疵バグが震えている。存在と非存在を往復する不確かな亡霊たちは、今でもまだ〝あのひと〟であることに変わりない。わたしが求めたひと。わたしが望んだ居場所。わたしが願った永遠と、わたしが祈った不格好な愛の証明。非現実でなく、現在でなく、確かな感触を与えながら指の隙間にこぼれ落ちる幻想の泥は、わたしを捏ねあげるための必要条件だった。

「馬鹿だね、きみは」

 あのひとたちがわたしを覆う。柔らかな熱、十色のかたちで包み込まれる。わたしは温かな暗闇のその胎内で、寒さに震える脳髄が静かになるのを感じている。団地はいつまでも顔のない影と虚ろに佇んでいる。ひっくり返った茅蜩が今際に叫び、累々と重なる死骸を風が攫っていく。落ち続ける陽の残照が停滞した街を焼き尽くす。遠く棚引く煙は雲へと変わり、花束の根元で火葬される骸の名前を、わたしだけが正しく理解していた。

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暮、泥 伊島糸雨 @shiu_itoh

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