第5話

 スミレは合成オレンジジュースを、まるでトラウマを抱えた退役軍人がウイスキーを飲むように飲んでいた。あの時スクリーンで見た映像が頭から離れないのだ。特にウォーマシンのパイロットの、あの悲鳴。目を閉じる度に、切り裂かれる彼の様子がまぶたの裏に浮かんでくる。じわじわと敵を絶命させていく、刀獅郎の怒りに歪んだあの顔が、鮮明に見えるのだ。


スミレの隣には、ビールと栄養バーを持つアリシアが座っている。正確には、アリシアが食べているバーは「バオバー」という別種のニュートリ・チャウだ。名称の「バオ」と「バー」はダジャレのつもりらしいが、センスは皆無だ。ニュートリ・チャウのダジャレよりもさらにひどく、とても創造性があるとは言えない。ちなみに「バオ」という言葉は、ワオ・チャウ産業のオーナーが所有する犬の名前「バオバオ」が由来であり、「バー」はその形状を指す。粘度のあるニュートリ・チャウを棒状にした菓子のようなものだ。味はニュートリ・チャウよりやや美味しい。しかしながら、それは下痢より固形の便の方が美味だというのと同じだった。どちらも不味いのである。


「あんなものを見た後で、私はどうやって立ち直ったらいいの?」スミレはジュースを飲み干すと、そう言った。


アリシアはスミレが未成年だと知りながら、ビールを差し出した。スミレは迷ったが、それを受け取って味見した。次の瞬間、その泡と味に、スミレはビールを吐き出す。


「ちょっと! おいしいビールを無駄にしないでよ!」アリシアは叫んでビールを取り返す。


「はぁ、孤児院にいた頃に、何度かひどいものを見たことがあるけど……あんなのは初めてだよ」


スミレはビールの味を洗い流したくて、ジュースを最後の一滴まで飲み干そうとする。アリシアは首をかしげて、答えを見つけようとした。


「あの人が実は良い人だ、って考えるほどスミレは馬鹿じゃないでしょ」


「刀獅郎さんが人を殺してることは知ってるよ。でも、あんなにじっくりと人を殺して、拷問するなんて話は、言い過ぎだと思ってた」


「彼は処罰に値する人たちを殺してるから、それを喜ぶしかないわ。私はそうやって乗り越えてる」


「……今日はもう寝ようかな。ジョニー・サントロの車の修理も全部終わってるし」


スミレはそう言って席を立った。


スミレが自室に向かって歩いていると、途中、ふと床に何かがあることに気が付いた。赤い点である。赤い点が、床一面に広がっていたのだ。


「血?!」


すぐに彼女はしゃがみ込んで、赤い雫を調べた。それは確かに血であった。エレベーターの前に血痕が広がっているのだ。目で辿ると、その跡は刀獅郎の部屋まで続いている。スミレは無意識に引き寄せられて血痕を追い、彼女が気付いた時には、怪物の部屋の前に立っていた。スミレは考えた。彼が敵のコックピットを突き破った時の傷が原因で、これほど出血したのだろうか。あるいは、彼はあの死体を部屋に引きずって持ち込んだのだろうか――スミレは頭を振ってその不合理な思考を追い払った。

スミレは、リビングスラッシャーを以前よりも恐れていることを自覚した。しかし同時に、彼が心の奥底に問題を抱えた人間であることも理解している。ゆえにスミレは勇気を出してドアのボタンを押した。すると、ドアがスライドして開く。


そこにはシンクに膝をつく刀獅郎の姿があった。彼と比較するとシンクはずい分小さく見える。刀獅郎は重々しく息を吐きながら、大きな手のひらで水を汲んでいる。ふと、彼は小さなメカニックに目を止めた。彼の唇と鼻孔に血が付着しており、シンクには出血の跡があった。


「大変!」スミレは叫んだ。


巨人は顔の血を洗い流そうとして、すぐさま目をそらした。スミレは問答無用で巨人に歩み寄って、声をかけた。


「大丈夫ですか!?」


その言葉が出たのは彼女の人柄ゆえだろう。


「…………ああ」


刀獅郎が出血の有無を確認して、大きく鼻息を吐いた。


「鼻? どうしたんですか? 鼻を骨折したんですか?」


「……ああ、なんでもない」


刀獅郎は静かに、そしてゆっくりと鼻に水をかけた。刹那、巨体が床に崩れ落ちて、スミレは飛び退いた。刀獅郎は大きな音と共に落下し、足が着地したとき、スミレは床の微振動を感じた。

刀獅郎は震えていた。頭を抱え、固く目をつぶっている。鼻血も出ている。巨人の呼吸が激しくなり、スミレは混乱に陥った。


「ま、ま、待っててください! そのままで! 今、ハクとアリシアを呼んできます!」


だが、巨大な手が彼女の腰を包み込んで訴える。


「駄目だ!」


その強い声色はスミレを骨の髄まで揺さぶった。彼の眼光は恐怖となって、スミレは失禁しそうになる。そして失禁した自分は、彼に殺されるかもしれないと感じていた。

苦しみの中で彼は呟いた。


「いや……助けは不要だ」


刀獅郎の大きな手は震えていた。それはまるで、怯える子供のようだった。巨大で、怖がりな子供。若いメカニックは、刀獅郎の意思を尊重するか、それとも無視して助けを求めに行くか、迷っていた。すると刀獅郎が目を見開いた。スミレは気づかなかったが、彼の顔はいたって平常に見えた。スミレを見るその瞳は、自身の願いを尊重してくれと懇願しているようだった。

スミレは巨人の手を取って精一杯握りしめる。その小さくて荒れた手が、彼の指を何とか包み込んでいることに、スミレは気が付いた。彼女は刀獅郎の症状も分からなければ、彼を慰める方法も分からない。ただ、その大きな手を握りしめることしかできないのだ。


20分が経過して、刀獅郎の震えは治まっていった。ゆっくりと、刀獅郎はスミレから手を離して仰向けになる。乾ききった血が顔中にこびりついていた。スミレはタンクトップを脱ぐと、洗面台できれいに水洗いし、タオル代わりにして刀獅郎の顔を拭いた。大きな侍は疲れ果てたように、大きく息を吐いた。そして目を開けて、スミレの姿を見る。


「ジッパーを上げろ」


スミレは上半身がブラジャー一枚だということにようやく気が付いた。


「ごめんなさい!」


途端に羞恥が込み上げて、スミレは急いでユニフォームのジッパーを首まで閉めた。刀獅郎を見ると、穏やかに息を吐いている。とはいえ、その巨体から発する呼吸音は、普通の人とは比べものにならないほど大きい。

彼女は再び彼の顔をそっと拭って、尋ねた。


「一体、何があったんですか?」


刀獅郎はその返答に長い時間をかけた。


「ただの頭痛だ、それ以上のことはない」


「頭痛!? あれのどこが、ただの頭痛だっていうんですか!? 私、やっぱり刀獅郎さんを病院に連れて行くべきでしたね!」


スミレは侮辱されかけた。刀獅郎はこの話題から容易に逃げられると思っているのだ。特にあのような姿を見せてしまった後なら、尚更である。

刀獅郎は止むなしといった風に大きくため息をついた。


「……単なる頭痛ではない」


「あら大変! 本当ですか!? そんなこと全然想像してなかったです! 本当にビックリですよ!」


刀獅郎はその皮肉に唸る。


「……兄弟を操縦することは、俺の身体とって大きな負担だ」


「は? 兄弟? 兄弟って……どういうことですか?」


スミレは、彼が“頭痛”のせいで、言葉がおかしくなっているのではないかと不安になった。


「ああ、つまり」刀獅郎は続ける。



「あのロボットのことだ。俺にとって、あのロボットは兄弟に等しい。俺たちは共に突出して大きい。俺たち二人は、人間とロボット、それぞれの種に残された巨大な存在だ。俺たちは共にチェンソー・サムライだ。だから、ロボットを兄弟――兄と呼んでいる」


スミレは彼の言うことを理解できた。彼女の知る限り、チェンソー・サムライは第3世代のウォーマシンである。A&Oデーの前、ウォーマシンのバトルの視聴率は低下していた。そこで当時のクリエイターたちは一計を案じ、第3世代のウォーマシンの商品化を企画した。第3世代は第2世代よりもはるかに背が高く、巨大なので、プロジェクトは迅速に進められた。しかし、第3世代のロボットは、製造されたものの、A&Oデーのために公開されることはなかった。ウォーマシン愛好家にとって非常に悲しい日であった。

スミレは、ハクが未完成の第3世代ウォーマシンを2機発見したことを知っている。そのひとつはマローダー・ジャックといい、もうひとつが、ザ・サムライである。ハクは2機のウォーマシンを合体させて再構築し、今日のチェンソー・サムライが完成した。


「俺に優しくするのは何ゆえだ」


スミレはその問いにハッとした。好奇心と答えたいが、実際には憐みを感じたゆえである。


「刀獅郎さんが寂しそうだったので」


「……俺が怖くないのか?」


「…………いえ」


「怖がるべきだろう。俺は変人だ。ミュータントだ」


刀獅郎がチェンソー・ギャングのメンバーだという噂は、スミレの耳にも入っている。今ここで、彼自身がミュータントであると告げたことから、噂と真実に相関関係がある可能性があるとスミレは思った。


「つまり刀獅郎さんはチェンソー・ギャングの仲間ということですか?」


すると刀獅郎は立ち上がって高圧的に見下ろした。その時、彼女の内なる恐怖が告げた。その答えがノーであり、そこで話題を打ち切るのが最善であるということを。

刀獅郎は再び横になる。


「……アメリカの荒れ地を旅していた時に、俺は突然変異を起こした」


「だからこんなに大きくなったんですか?」


その冗談に、刀獅郎は睨みを利かせた。彼女は、しまったという風に立ち上がり、血まみれのタンクトップを洗い始める。


「……いや、俺の体格は突然変異ではない。俺は以前からこうだった。先端巨大症という病気だ。映画やテレビでは巨人症という名で知られているかもしれん。俺の真の変異は脳だ。突然変異によって、俺の脳には特殊な脳波が生まれた」


「それは、超能力みたいなものですか?」


「正解ではないが、ほぼ正解だ。荒れ地で超能力を持つミュータントに遭遇したことがあったな。しかし俺の脳波は強力だが悪さをしない。ハクが開発した専用のコントローラーを介して、俺は能力を使うことができる」


「もしかしてGBコントローラー?」


「そうだ。チェンソー・サムライ用にハクが発明したものだ。あのコックピットは元来モーションキャプチャ・コントロール用に設計されたものだった」


「だった? でも、刀獅郎さんがそれを使っているのを見ましたよ」


「ああ。あれは、兄弟をより操縦しやすくするために再インストールされたものだ」


「より操縦しやすい、とは?」


「チェンソー・サムライの腕は、俺が望むような素早い動作を強いることができない。もし存分に動かしたときに、痛みが強ければ、それを使う必要がある」


「痛むって……何がですか?」


「俺の脳だ。チェンソー・サムライを精神で動かすたびに、俺の脳は傷つけられる」


スミレは濡れたタンクトップを落とした。あまりに衝撃的な事実であった。


「チェンソー・サムライを動かすたびに、脳へ負荷がかかる。複雑な動作なら、尚更だ。複雑な動作ほど多くの脳波を必要とするから、脳へのダメージは大きくなる」


スミレは、信じられないといった顔で刀獅郎を見つめる。


「あの戦闘で、ハクが俺からコントロールを何度も奪おうとしたことは分かっていた。だが俺はその強要を拒否しすぎた。だからストレスで脳出血を起こしたのだ。もしかしたら、永久的な傷になる可能性すらある」


スミレは恐怖のあまり口を覆った。彼に何を言うべきかを思案するが、何も思いつかない。


「刀獅郎さん……どうしてそんなに自分を苦しめるんですか?」


刀獅郎はしばらく沈黙した。スミレは、彼のこの沈黙が苦手だ。彼は、しばし思考を停止したのか、返答を避けたいのか、あるいは言葉に詰まっているのか、沈黙の理由が分からないからスミレは不安なのだ。すると、突然、刀獅郎が沈黙を破った。


「それは、俺が戦い続ける理由と同じだ。俺がチェンソー・サムライの操縦を引き受けなければ、誰も引き受けはしないだろう。痛みと同じことだ。俺は痛みしか感じない」


刀獅郎が頭を抱えたので、スミレは再びタンクトップを濡らす。洗い終わって振り返ると、刀獅郎の顔に苦痛が見て取れた。彼が自分の話をしていた時に、スミレは彼の悲哀の表情を見た。無論、スミレはあの戦闘中に見てしまったものに、まだ悩んでいるのも確かだ。だがしかし、少なくとも、彼は罪のない人々に手を出してはいない。


「何ていうか……気の毒ですね」


「同情は必要ない。俺は怪物だ。怪物に同情は不要だ」


情けの言葉を拒否されて、スミレは悲嘆しながらも、刀獅郎の顔に付着した最後の血を拭き取った。そしてこれまでと同様に、立ち上がってタンクトップを洗う。

ふとスミレは思った。彼を元気づけたらどうなるだろうか、と。無論スミレは、彼が何を喜ぶのか知るはずもない。そこでスミレは、リトルトーキョーのドクター・タケダを思い出した。彼なら、脳の傷を治す脳オルガノイドを持っているかもしれないのだ。


「よし、刀獅郎さん。あなたを元気づけられるものがありますよ! すぐ戻ってきますね!」


スミレは着替えのために退室し、その様子を刀獅郎は無言で見送った。若い娘が部屋を出て行くのを、巨人はただ見ているだけなのだ。


 スミレはホバーバイクに乗って、ネオンの輝くリトルトーキョーの歓楽街へまっすぐ向かった。やがて、歓楽街の正面玄関ともいえる鳥居と、「ネオ歌舞伎町」と書かれたネオンサインが見えた。その先にはストリップモールがあり、それはいわゆる小規模の商店街で、多様な店舗がそこに入っている。

ドクター・タケダは刀獅郎を助けることを快諾してくれるだろうか、とスミレは願った。ドクター・タケダは、以前はノーブル・ダウンタウンに住んでいたが、チャウチャウ医局に自院を潰されてしまった。引っ越しを余儀なくされたので、リトルトーキョーに移ってきたのだ。

スミレは一匹のチャウチャウ・パトロールマンの側を通過する。これはチャウチャウロボットの頭に、警官の帽子を可愛らしく添えただけのものだ。その外見は本物のチャウチャウと全く相違ないが、その完璧な静けさが見る人を不安にさせる。スミレはそのチャウチャウロボットの胸を撫でた。すると、その犬型ロボットは、プログラムによって嬉しそうに息を弾ませて、感謝を伝えた。


「400CCドルよ! 払って!」


その声に、スミレと犬型ロボットは振り向く。露出の多い服装の若い女が、客に怒鳴っていた。


「冗談だろ! コリアタウンじゃ、お前よりも安くていい女がいるんだぜ! お前にそこまでの価値はねぇよ!」


スーツの男はそう吐き捨てて去ろうとした。若い女――娼婦は彼の腕を掴んで支払いをせがむが、男は振り向きざまに彼女の目を殴りつけた。女は倒れ、男は飛び出しナイフを取り出した。


「このアマ! 豚みたいに皮を剥いでやろうか!」


「バオ! バオ! バオ!」


途端に、ロボットのチャウチャウの怒りが作動した。男はロボット犬を見るやいなや、ナイフを落とす。恐怖で顔をこわばらせながら、両手を上げて降参を示した。


「ハハハ、いい子だ。彼女を傷つけたりはしないよ」


「バオバオ!」とチャウチャウのロボットが言った。


次の瞬間、チャウチャウロボットの目と鼻から強力なエネルギーのビームが発射された。瞬く間に男の上半身は完全に焼却され、下半身は糸で操られた人形のごとく地面に倒れた。

その後チャウチャウは倒れた女に近づいて様子をうかがった。そして、彼女が応答できるかどうかを見るために吠えた。彼女は目を押さえて言った。


「ありがとう、ワンちゃん!」彼女は下半身だけの男から財布を探し出し、そこから大きな札束を取り出して数える。


「300CCドルと……あとは些細なもんね。うん、十分だわ」


若い娼婦はそれを自分の財布に入れる。それからチャウチャウを入念に撫でて、通りを歩いていった。スミレはゆっくりと小さなホバーバイクに戻って、その場を去った。


スミレはチャウチャウが悪人を殺すことに慣れない。正確にいうと、彼女は「死」には慣れているが、その残虐性に慣れていないのだ。血や、人の死や、刃傷沙汰を見るのは、どんなに小さなことでも、彼女にはまだ怖いのだ。

ふと寿司屋から3人の男が出てきた。薄汚れているが高価そうなスーツを着ており、二人は黒で、残る一人は白のスーツである。3人はスミレの前に歩み出て、スミレは急停止を迫られる。


「お前たち見ろよ! スミレちゃんだ!」と白いスーツの男が言った。


スミレはその男を認識し、愕然とした。


「トキムネ!?」


スミレは、彼はヤクザが虐殺されたあの時に死んだものだと思っていた。すぐさまスミレはホバーバイクを立て直そうとする。しかし、トキムネはそれを踏みつけて阻止した。


「どこにいくのかなぁ? スミレちゃん?」彼は不気味な口調と笑みを含ませながら、可愛らしい素振りをした。


「ほっといてよ!」スミレは怒鳴ったが、黒いスーツの男2人が彼女を取り囲んだ。一同は辺りを見渡してチャウチャウ・パトロールマンの姿を確認するが、あいにく彼はパトロールに行ったらしかった。


「うん、どうやら犬はどこかに行ってしまったようだね。さて、覚えてるよね? 君は僕にお金を借りていることをさ」


スミレはトキムネの手に、飛び出しナイフを見た。


「何も借りてないってば! ていうか、ヤクザはみんな死んだでしょ!」


トキムネは眉をひそめ、スミレの頬をひっぱたいた。スミレの可憐な顔が、ひび割れた道に落ちる。顔に張り付いた砂利と、小さな切り傷を感じながら、スミレは起き上がった。


「恩知らずのクソガキめが!」


そして彼はスミレの髪を掴んだ。


「ヤクザは死んでないさ! 僕たちは生きている限り、ヤクザの家族であり続けるんだ!」


「だからほっといてってば! 私はサムライ・メカニックで働いてるの!」


「いいや違うね! 君はまだ、僕たちのために働いているんだよ。僕のファミリーが君に色んなことをしてあげたのに、君はここで起き上がって、そして去っていくことが出来ると思うの?」


スミレは掴まれた髪を振り払おうともがいた。しかし、トキムネは髪を強く握りしめたまま、ナイフの刃を彼女のまぶたに当てる。


「仕事をしてるということは、給料をもらってるんだろう? 少しは払ってくれないかなぁ? それとも、代わりに君の目で払う?」


刃がまぶたに押し当てられて出血した。鮮血が目に向かって滴り落ちていく。スミレは目を閉じた。


「私はそのお金のために一生懸命働いてるよ。だけど、地獄はそのお金をあんたにあげることはない。絶対にね」スミレは歯を食いしばって言った。


「へぇ、じゃあ目で払うのかな? オーケー、まぶたも追加でね」


するとその時だ。突如、大男がヤクザの手下の上に着地した。大男が建物から飛び降りたのである。大男の巨大な両足がヤクザの背中に激突し、破壊音と破裂音の不協和音が響く。肺が潰れて、一瞬で自由が剥奪されたヤクザの手下から、小さな悲鳴がした。


「まずいぞ」


災難を免れたもう一人のヤクザは、そう叫んでバールを取り出した。しかし巨人の長い腕が、到底人とは思えぬ速さでその男の足を掴む。巨人はその足を苦もなく持ち上げると、無力と化した男の身体をスイングさせて、頭からコンクリートの壁に叩きつけた。男の頭皮と頭蓋骨が引っぺがされて、頭が裂けた。

巨人のアビエイター越しに赤い光が見える。その瞳は、計り知れない軽蔑を持ってトキムネに向けられた。


「く、来るな!」


トキムネはスミレの髪を手放したが、すぐに彼女の身体をターンさせて腰を拘束した。そして喉元にナイフを突き立てる。

彼の脳裏にフラッシュバックするもの――初めてチェンソー・サムライに会った時のことだ。


――巨人が幹部会議室のドアを蹴破ったのを覚えている。彼は死体を引きずりながらそこまでやってきた。幹部の一人が巨人へ発砲すると、彼はその死体を操って照明を叩き割った。弾丸はすべて、彼の体に跳ね返されたようだった。無論、当たった弾丸は存在したようだが、それは流血する彼の怒りを助長するだけだった。

闇に包まれた室内に、銃声と閃光が走っていた。幾度となく繰り返される閃光は、チェンソー・サムライが幹部や護衛たちを、残虐かつおぞましい方法で殺害している様を何度も映し出した。トキムネは、切断された仲間の死体の間に横たわり、死んだふりをしていた。闇の会議室には血や糞尿の悪臭が充満していたが、恐怖は悪臭の嫌悪を沈黙させた。トキムネはそうして、巨大な侍が立ち去るのを待ち続けたのである――。


生き延びた最後のヤクザが現実に戻る。しかし、あの時の恐怖が、両腕を広げて彼を背後から抱きしめて一緒に付いてきた。巨人の視線に、トキムネは少しずつ後ずさりをする。


「来るな! でないと女を殺すぞ!」


刀獅郎はトキムネに向かって足を踏み出した。その様にトキムネは恐怖とめまいを覚えた。意に反して思考が停止した。彼の心が、考えることを拒否していたようだった。


「シャアアアアア」


高周波のノイズ音と煙が、刀獅郎の鋼鉄の歯の隙間からうねるように吐き出される。

トキムネの闘争・逃走反応が働いた時、恐怖は彼の神経を麻痺させた。トキムネは逃げようともがくスミレを手放して刀獅郎に追いやった。刀獅郎はすかさず、スミレの腰を抱きとめて、逃がすまいとトキムネの手を掌握した。そのまま、スミレを優しく地面に降ろす。


「あああああああああああ嫌だ! 行かせてくれ!」


トキムネは強靭な握力を堪えながら膝をつき、悲鳴を上げる。手を成す骨がことごとく折れ、崩壊していく。トキムネはもう片方の拳で刀獅郎の腕を殴り始めた。だが巨人の腕は石垣のごとく強固で、激痛がトキムネの拳を襲う。刀獅郎は小者の犯罪者を解放した。トキムネは無残な形をした己の手を見る。どの指もねじれ曲がり、骨が皮膚を突き破っている。トキムネはその手を抱えて地面に転倒した。刀獅郎はしゃがみ込んで、自分の手の平をトキムネに差し出した。そこには飛び出しナイフが刺さっていた。刀獅郎はそれを引き抜くと、まるで爪楊枝を折るかのように刃を破壊し始めた。


「お許しください!」トキムネは土下座をして言った。

そして何度も「お許しください」と母国語で繰り返しては、しつこく地べたに頭をつけた。そして願った。刀獅郎がこの土下座に情けをかけて、許してくれることを。だが刀獅郎は、土下座が見えていないかのようにトキムネの頭蓋骨を掴み上げて、壁に叩きつけた。そうして、怯えるヤクザに顔を近づける。


「お前」


刀獅郎の声は金属的で、荒々しく、恐ろしい。そして彼の巨大な親指が、トキムネの気管を圧迫した。


「お前の顔を覚えている。ヤクザだ!」


刀獅郎は巨大なチェンソーを背中から引き抜いた。哀れなヤクザは巨人の指が頭蓋骨を圧迫し、めり込んでくるのを感じていた。もう終わりだ、とトキムネは思った。


「助けてくれ! 誰か助けてくれよ! お願いだから!」


それゆえ必死に助けを求めるが、刀獅郎は彼の胸ぐらをつかみ、背中から壁に打ち付けた。すると、そこにパトロール中のチャウチャウロボットがやってくる。ロボット犬は熊のような、あるいはライオンのような可愛らしい顔を、トキムネと刀獅郎に向けた。

ロボット犬と刀獅郎の目が合った。


「バオ! バオ!」


その瞬間、スミレがチャウチャウの前に飛び出した。死のレーザーから大きな救世主を守るためである。しかし、次の瞬間、まるで最初からそう決まっていたかのように、チャウチャウはふさふさの頭をくるりと背け、そこを立ち去ったのである。その光景は、刀獅郎以外の全員を驚愕させた。


「まさか! バカ犬が! なぜだ!」


更に強さを増して、刀獅郎はトキムネを壁に叩きつける。トキムネは痛みだけでなく、背中で何かが弾ける感覚を覚えた。


「去れ」刀獅郎はスミレを見た。


「えっ? あ……わ、私のことですか?」


「去れ!」


その鼓膜を突き刺すほどの声にスミレは気圧された。スミレはすぐにホバーバイクに乗って、その場を去った。


刀獅郎はトキムネに集中することができた。


「ヤクザはお前の他にもいるのか?」


チェンソーがトキムネの顔に接近して、ヤクザはヒッと声を上げた。刀獅郎は赤い目を更に光らせて、怒りを露わにした。口からノイズ音と煙が噴き出ている。トキムネは、まるで地獄の目と口を見ているようだった。


「いない! 僕と、2人の手下だけだ! 残りは死んださ! お前がやったんだろ! お前が、オールド・シカゴのヤクザを全員殺したんだろうが!」トキムネは苦痛と恐怖に泣き叫んでいた。


「嘘をつくな!」刀獅郎は握力を強める。


「嘘じゃない! 頼むから離してくれよ! 質問には答えただろう!」


だが、トキムネの背中が再び壁に叩きつけられる。刀獅郎の目はいっそう憎悪に燃えていた。


「違うな。お前らはクズだ。人に噓をつき、人を痛めつけることしかできないクズだ。優越感を味わうために、弱者を標的にして略奪と暴行をするクズだ。この苦痛はすべてお前らが生み出したもの。お前らは悪魔だ。もしこの苦痛を終わりにしたいのならば、全員死ね」


刀獅郎は歯と顎の力でチェンソーを始動した。


「もう僕の家族は誰もいないんだ!信じてくれよ!」


トキムネは、大破した背中を気遣っている場合ではなかった。文字通りに殺人鬼に襲われた犠牲者として、激しくあがいては命乞いの言葉を張り上げるだけだ。


「その嘘にまみれた口がぬかす言葉が真実なら、それが最後のものとして絶やしてやろう。悪の根源を永遠に断ち切るために!」


刀獅郎は雄々しく叫んで、チェンソーをトキムネの腹に突き刺し、瞬く間に、全身に返り血を浴びてゆく。


「 助けてくれええええええ誰かあああああああああ!!!」


トキムネの絶叫は、不運にも居合わせた建物内の人々の骨を振動させた。多くの者が恐怖で耳をふさいでいる。また、立ったまま、あるいは座ったままで、極力静止している者もいた。苦痛に悶えるトキムネに身を乗り出し、刀獅郎は、飛散する血と内蔵を浴びていった。


「俺が正義! 俺が審判者! そして俺は悪の災いだ! 貴様たちの罪にまみれた魂は、永遠に燃え続けるがいい! 貴様が地獄で苦痛を味わうときは、俺の名前を思い出せ! 俺はワトソン・刀獅郎! 俺がチェンソー・サムライだ!」


言い終えるとほぼ同時に、刀獅郎はチェンソーを無理矢理に持ち上げ、頭上まで切り裂いた。トキムネの上半身が左右に割れて、ぐにゃりと曲がってぶら下がる。そしてトキムネだったものは尻もちをついた。

それから刀獅郎は、建物から飛び降りた際に肺を潰した男を見た。まだ青白い顔をしている。一方で頭蓋骨を砕いた男は、手足をゆっくり動かして這っているようだった。刀獅郎は、その這いつくばる男に向かって歩き、首を踏みつける。するとヤクザはじっと横たわったまま、首から何かが砕ける大きな音を発していた。

刀獅郎が辺りを見渡すと、ネオ歌舞伎町の通りに人影はほとんどなくなっていた。チャウチャウ警察がホバーカーに乗って通りを行き来しているだけだ。刀獅郎はこの光景を何度見たかわからないが、致し方ないことだと思っている。任務を終えた刀獅郎は、静かに帰路についた。


 巨人はサムライ・メカニックの建物に戻った。その日はもうガレージは閉まっていたが、刀獅郎はドアの鍵が開いていることに驚いた。誰かがいるのかと、静かに中に入った。アリシアは、自室で大きな韓流スターの枕を抱いて寝ていた。それを見て、彼はそっと部屋のドアを閉めて、ハクの部屋へ向かう。


ハクがベッドで寝ていたことに、刀獅郎は驚いた。普段なら広い地下室で、チェンソー・サムライの修理や改良に、一心になっているからだ。

部屋は照明がついたままで、油の臭いでいっぱいだ。刀獅郎は、そっと入ってハクの様子をうかがった。彼女の寝顔は、悲しみに溢れていた。


「……父さん、母さん、モモちゃん、お兄ちゃん……私を置いて行かないで」つぶやくように寝言を言ったハクは、泣いていた。


その言葉は、刀獅郎の心を強く痛めた。ふと湿った布の存在に気づいて、血に染まった手を素早く遠ざける。

刀獅郎はハクの頭をそっと、しかし心を込めて撫でた。悪夢の中にいる従兄妹を慰めるように。すると突然、その大きな手をハクの手が捉えた。刀獅郎は驚いて手を引っ込めそうになったが、ハクは、大きな手を抱きしめたまま、頬擦りするように自分の頬へ押し付ける。

ハクは眠っているようだ。

彼女の頭は、彼の手と比べるととても小さい。昔と同じように。


「トシにぃ」彼女が呟く。


その呼び方は刀獅郎の石の心を強打した。彼女の手は荒れてざらついているが、今なお、とても小さくて、脆く感じられる。ハクの手の感覚は何年ぶりだろうと、刀獅郎は思った。特に、愛情がこもった手は。刀獅郎は自分の大きな手を彼女に握らせた。

ハクはそのまま30分ほど涙を流し、うなされ続けていた。やがてハクが手を離した瞬間に、刀獅郎も自分の手を離す。そして無言で立ち上がり、その場を去った。

しかし部屋を出る前に、ハクの声が聞こえた。


「トシにぃ、私を置いて行かないで」


それは、あの時の言葉であった。刀獅郎が最初に彼女の元を去った時に、聞いた言葉だった。巨人の頬に、温かい涙が伝っていく。


――トシにぃ! 私を置いて行かないで!


幼いハクの声が、刀獅郎の耳の奥で反響する。あの時、刀獅郎はハクを置き去りにして、彼女を傷つけた。それは彼の選択であり、また、それに対する代償は彼女からの永遠の憎しみだった。


「すまない、ハク。……すまない」


部屋を去る刀獅郎の姿は、厳粛で、悲嘆に暮れていた。


刀獅郎は食事のためにラウンジへ入った。そこではスミレが魔法少女の映画を観ている。刀獅郎はそれを横目に見て、そっと冷蔵庫を開けた。照明が壊れているために、スミレは彼に気づかない。スミレは上体を反り返らせるように伸びて、頭を後ろに傾けた。その時に得られたものはストレッチの効果ではなく、巨人の影の存在だけであった。


「きゃー! 刀獅郎さん!?」スミレは背伸びの状態から地面に転倒した。


「どうやったらそんなにこっそり入れるんですか!」


刀獅郎は低い声で唸り、ニュートリ・チャウのチューブを6本持って、同じようにそっと去ろうとする。しかし、スミレが駆け寄って彼の手を掴んだ。


「待ってください!」


刀獅郎は彼女を見下ろす。


「あの、助けてくれてありがとうございました。刀獅郎さんのやり方は好きじゃないですけど、でも、ありがとうございます」


「……気にするな、スミレ」


「それから、脳オルガノイドの注射を手に入れたかったんですけど、できませんでした。ごめんなさい」


「もう俺には効かない代物だ。過去に何度も使いすぎて抵抗力がついてしまったからな。だがスミレ、感謝する。……もう寝る時間だ」


そう言って刀獅郎は行こうとするが、スミレは逃がさなかった。


「ハクの部屋で刀獅郎さんを見ました」


刀獅郎は何も言わず足を止めた。


「暗かったから、最初は部屋を徘徊していたのが刀獅郎さんだって気付きませんでした。だから銃を構えたんです。それで、こっそり狙いを定めていたら、それが刀獅郎さんだって分かりました。……ハクを、慰めていたんですね」


巨人は応答しない。


「刀獅郎さんはハクのこと気にかけてますよね? 二人の間に何があったんですか?どうしてハクは、刀獅郎さんを憎んでるような態度なんですか?……刀獅郎さんがハクのこと好きだっていうのはよく分かります。ハクだって、その気持ちをいつも隠してますけど、刀獅郎さんと同じ気持ちに違いないんです。私には分かります」


刀獅郎は無返答を貫いた。


「刀獅郎さんは苦しんでます。さっき、ハクが家族の名前を呼んで泣いてた時、刀獅郎さんは心から辛そうな顔をしてました。……泣いてましたね。暗くても、見えたんです」


そこでようやく、刀獅郎はスミレを見据えた。その顔は悲しみと苦しみに覆われて、今にも泣き出しそうであった。スミレは彼の手を握りしめて、暗黙の気遣いを示す。しかし刀獅郎は再び目を逸らした。


「もう寝ろ、スミレ」


彼が、現段階では何も話すつもりはないと察して、スミレは止む無く手を放した。そして重苦しげに刀獅郎は去っていく。彼の深い悲しみに、スミレもまた悲しんだ。スミレは彼の力になりたいと思う一方で、自分にはそれは不向きだとも感じた。


多くの疑問が一枚の布となって、スミレの心を覆い、包み込んだ。スミレは考える。モモとは一体誰なのか? ハクと刀獅郎の関係を壊したものとは? 何が刀獅郎を怪物にしたのか? そして、スミレが最も気にする疑問は、オコネルの存在である。それは一体何者なのか?

スミレには知らねばならないことが多すぎた。しかし、ハクがそれを解決してくれるはずはない。だから、この小さなメカニックは、刀獅郎が己の苦しい過去を、彼自身が打ち明けてくれることを願うばかりだ。


彼女はテレビ画面を見やった。そこでは、橋にいる二人の高校生が映し出されている。橋から今にも落ちそうな一方を、もう一方が救いの手を差し伸べ、互いにしっかり握りしめているシーンであった。

スミレはテレビを消した。画面の光源が途絶えると、彼女だけが、一人闇に取り残される。

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