第2話

 チェーンソー・サムライこと刀獅郎・ワトソン。彼は様々な名で呼ばれている。

真の怪物。残酷な鬼。苦痛の拡散者。人間の恐怖の化身。エル・モンストロ・デ・ラ・ムエルテ(死の怪物)。罪人を切り刻む者。リビング・スラッシャー(生ける切り裂き魔)。

そして誰もが好む称号である「オールド・シカゴの悪夢」。


多くの人が彼の空想物語を作っている。例えば、彼は影に溶ける、弾丸に耐性がある、金属や人肉を食べる、荒れ地から来たミュータントである、傷つけるとよりパワーが増す、更には、彼が幽霊やゾンビの類だと妄想する人もいた。


刀獅郎の行動がまるで神話的であるために、多くの事実とフィクションが入り混じっていて、それらを区別するのは困難である。

人々は彼について知らないことが多い。多くの人は彼の本名すら知らないのである。仮に知っていても頑なに口にしない人もいる。刀獅郎を名前で呼ぶということは、彼が人間であることを暗示することになるからだ。


刀獅郎について周知されていることは、刀獅郎・ワトソンがしばしば冬木ハクを守っているということだが、その理由は誰も知らないままだ。獣は美しい者に惚れるのだろうか、あるいは彼が彼女に何かをしてやりたいのだろうか。

また、チェーンソー・サムライがかつてチェーンソー・ギャングの裏切り者だったのではと疑う者もいる。どちらもチェーンソーをシンボルとして使用するからである。


いずれにせよ、ハクは刀獅郎・ワトソンを意のままに動かしているようだった。例えそれを、彼女が望んでいなくとも。


 ハクは刀獅郎と共に――正確には刀獅郎が付きまとっている状態だが――家路を歩いている。彼の差し迫る体格にハクが気付かないわけがない。特に先刻、彼に命を救われたのだから尚更だ。


だが彼女はその救世主を無視して歩き続ける。


「ハク、なぜ逃げなかったのか」


刀獅郎は気にかけた。しかし、ハクは彼を見ようとはしない、返事もしない。ただ歩き続けるだけだ。

ハクは気まずい沈黙を破って口を開く。


「認めたくねぇけど……あんたはアタシを救ってくれた。いや、いつも救ってくれる。アタシが必要だと感じたときに、いつも、だ。けどな、アタシはあんたに感謝することはないね。あんたはアタシにまだ借りがあるだろ」


二人はサムライ・メカニクスへの道を歩き続ける。二人とも無言だ。


「なぜ逃げなかった」


今度は刀獅郎が沈黙を破った。ハクは歯を食いしばる。


「恐怖を見せることはできないな。そう、敵に恐怖を見せちゃいけねぇんだ。一度でも怖がっちまうと、恐怖を感じることが止められなくなるからな」


「ふん、それはどうかな」


ハクは立ち止まった。刀獅郎は彼女がそうするのと同じようにして歩みを止める。

振り向いた彼女の目は、極度の怒りが露わになっている。


「どういう意味だ?」


ハクは極力冷淡に言った。


彼女の強烈な眼光は、チャウチャウロボットのレーザーを凌ぐほどだ。普通の男なら怖気づくだろうが、刀獅郎は違う。彼はそれよりも遥かに恐ろしいものを見てきているのだ。


「ハク、お前には希死念慮がある。犬型ロボットに助けを求めて逃げることもできたし、ガレージに走って防御システムを起動することもできた。俺は毎度、一分一秒までお前を助けることはできん」


「あんたに守ってくれなんて頼んでねぇだろ!」


ハクは怒りに任せて歯を食いしばり、そう言った。


「だがお前は死ぬことはできない。この街にはお前が必要だからな」


「それは分かってる」


「では、何ゆえチェーンソー・ギャングと戦う? お前はもっと利口だろう」


「刀獅郎。それは多分、アタシが生きようが死のうがかまわないからだ」


ハクの発言に、巨人は黒いアビエーターの奥で赤い瞳を大きくさせた。驚いた様子であった。

彼女の腫れぼったい目は、彼に対する憎悪と恨みが膨れ上がっている。


「おそらくアタシは、この死にかけた街で生活することに興味がねぇんだよ。ゴミでできたこのクソみてぇな街は、昔から嫌いだね! アタシは何の理由もなく生きてる。時々、ちょっとだけ正義を感じたくて悪人を殺してんだ。たぶん、アタシは、この惨めさから解放してくれる奴に出会いたい。人じゃなくたっていい。とにかく会って、アタシをひと思いに殺してほしいんだよ!」


ハクは頬を紅潮させて息を荒げた。刀獅郎以外に誰も聞く者はいない。

巨人はただ立ち尽くすだけだ。


「ハク、お前は……」


「黙れ!」


ハクは叫んだ。そして舌打ちをしながら、身を翻して再び歩み始める。ハクは自身を落ち着かせようと何本もタバコを吸った。

やがてタバコを吸いすぎたために、タバコの箱は空になってしまった。


 ハクはサムライ・メカニクスに戻った。車の修理を終えたアリシアとスミレが、ハクの姿を見つけて声をかけた。


「ヨー、ハク」


「って、ちょっと! その顔どうしたの!?」


続くスミレの言葉を聞いて、アリシアはハクに駆け寄った。


「誰にやられたの? 日本セクターのギャング? 中国セクター? チェーンソー・ギャング? 過敏なチャウチャウロボ?」


アリシアはハクの身体を調べながら問い詰める。

腫れた手では平手打ちが難しいようだ。ハクはアリシアの手を叩いた。


「チェーンソー・ギャングだ。つーか、チャウチャウロボットに襲われたら、マジで生きてられると思うか?」


とハクが言うと、スミレが腫れ止めの薬を持ってやってくる。ハクはそれを受け取り、クリームを顔に塗る。


「最後の2つは冗談よ。彼が助けてくれたんでしょう?」


「彼?」


「チェーンソー・サムライよ」


「あのロボットのことか?」


ハクは皮肉を言いながら、スミレに薬を返した。


「彼が誰のことを指すのか、よくわかってるじゃない」


「チッ!」


ハクは怒って、アリシアを無視して自室に戻っていく。


それを見送ったアリシアは苛立ちをみせた。


「ハクは本当に困った人ね。オールド・シカゴの生活は誰にとっても良いものではないけれど、ハクは誰よりもたくさんの問題を抱えているわ、間違いなくね」


「問題って?」


スミレはポケットに忍ばせていたクッキーを食べている。


「リビング・スラッシャー――彼自身のことかもしれないわ。ハクったら昼夜問わずいつでも怒ってる――」


「ゲホッ、アリシア! 見て!」


突然スミレは言った。彼女はむせ返りながら、アリシアの背後の何かを指している。背の低いスミレは、長身で黒檀のような美女の影に隠れた。

美女――アリシアは振り向いた。そこにいたのは、刀獅郎・ワトソンだった。


「マジ!?」


そこに立つ刀獅郎の姿に、アリシアは悲鳴を上げて飛び退いた。


「落ち着いてアリシア! 刀獅郎さんだよ」


スミレは優しい声で言うが、そのトーンは恐怖を堪えているようだ。彼女はめったに刀獅郎に会わない。彼が激情的な一匹狼だというのは明白なので、スミレは、普段は彼の邪魔をしないようにしていた。


刀獅郎はただ黙ってスミレとアリシアを睨んでいる。彼の目は、黒いアビエーターメガネの奥で赤く光り続けている。

アリシアが彼を「リビング・スラッシャー」と呼んだことは、彼への侮辱だったかもしれないと二人は考え、そして恐れた。例えその称号がどれだけ真実であっても、だ。


「え、ええと、その、お、お願いですから、そんな風に忍び寄らないでくださいな、ミ、ミ、ミスター・ワトソン」


と、アリシアは恐怖に震えていた。


アリシアがチェーンソー・サムライについて知っていることは、彼が、あたかも魔法のように背後に出現できるということだ。アリシアは、彼がその巨体にも関わらず無音で動く技を得ているだけだと理解はしているものの、それでもなお刀獅郎が神話の怪物であるように感じている。


彼女は、脊椎の大半を折られるほど彼を怒らせてしまったのではないかと恐れた。彼女は知っているのだ。彼の名前を呼んだ子供が、そうした結末を迎えてしまった事例があることを。


フン、と刀獅郎は唸った。


アリシアとスミレは共に目を閉じた。ああ、神様どうかお願いします、といったふうに。

刀獅郎は二人の周囲を歩き回って、やがて中のオフィスに入っていく。二人は床が揺れるのを感じた。彼の一歩一歩がまるで短い地震のように、大きな音を立てて床を叩いている。


「ええと……刀獅郎さん、お帰りなさい!」


と、スミレは行儀よく敬礼して言った。


刀獅郎は一瞬立ち止まってスミレを見た。そして、無言で中に入っていく。

二人の少女は、緊張状態から解放されたかのように汗をかいた。


「彼に会うのは慣れないわね、ほんとに」


アリシアは額の汗を拭いながら言った。

すると、スミレが興味本位で尋ねた。


「ところで、ずっと聞きたかったんだけどさ。ハクと刀獅郎さんはどんな関係なの??」


「知らないの? ここで3ヶ月も生活して、働いてるのに? まぁ、仕方ないか。私が知っているのは、二人がイトコ同士だってことだけよ」


アリシアは言った。


「えっ!? 本当に!?」


この事実にスミレは驚愕する。


「私がハクと何年も一緒に仕事をしてきて、彼女が話したのはそれだけよ」


「はぁ!? そんなことってある!? 刀獅郎さんは『オールド・シカゴの悪夢』で『リアル・ライフ・スラッシャー 』で『ハクのイトコ』なの!?」


「ええ、そうよ。彼は何度もハクを助けてる。だけど、ハクは彼の話をする時はいつも不機嫌だし、彼との関係の話をすると怒るのよ」


スミレは戸惑った。「ハクはいつも不機嫌か、もしくは怒ってる」と言った。


「ええ。ミスター・ワトソンの話になると、もうそれ以上に不機嫌で怒りっぽくなるの」


「ねぇ、どうしてハクは彼のことで怒るのかな?」


「さあ? 多分、ハクは恥じているのよ。彼に関する恐ろしい話が、全て自分に関係していることをね」


「わぉ」スミレはまるで一部にしか知れてない重大な秘密を聞いたかのような顔だ。


「あまりマジに受け止めないでね。これは私の推測でしかないの、ベイビー・ガール」


「オッケー。それじゃ私は刀獅郎さんに最後のニュートリ・チャウをあげようかな。それが好きみたいだし」


そう言うとスミレは事務所に行った。

事務所の冷蔵庫を開けると、そこには、『ニュートリ・チャウ』のロゴが入った歯磨き粉のようなチューブが4本入っていた。

そのチューブの裏に書かれているスローガンを、スミレは今までに何度も見ているが、いまだにそのフレーズが信じられないでいる。


『おいしい! 栄養満点! あなたやペットの食卓に! 特に愛犬に!』


それ以外の何物でもなかった。彼女は、ニュートリ・チャウはもともと人間ではなく、犬のために作られたのだと感じている。

彼女はそれらを手にして、刀獅郎の部屋へ向かった。


 何の変哲もない、彼の部屋の扉。スライド式のシンプルな自動ドアである。開閉ボタンを押すとドアが開く。すると、タバコの煙が濛々とスミレにまとわりついて、その独特の臭みに吐き気を催した。


スミレは室内を見渡す。刀獅郎の部屋には何度も来ているが、いつも空っぽであることに、スミレはショックを受けていた。

家具はおろかベッドすらない。白い壁はタバコのヤニで汚れている。そこにあるのは、流し台と、チェーンソー、壁に張られた大きな鏡、タバコの吸殻、野太刀、そして刀獅郎本人だけだ。


 刀獅郎は鏡の前に立って、そこに映る自分を睨んでいた。スミレはこの部屋に入るたびに、彼がそうしているのを見る。なぜそうしているのか、理由は分からない。刀獅郎は自分の部屋に戻るといつもそうだった。誰かがドアを開けても気にとめなかった。


これが正常な行動ではないことを、スミレは理解しているが、幾分か怖かった。無論、悲観的になることが無意味であることも知っているので、彼女は何事も前向きに捉えようとする。


「刀獅郎さん。食べるものを持ってきましたよ」


心情を隠すようにしてスミレは声をかけた。


刀獅郎は威圧的な態度でなくともスミレを怖がらせる。身長の差だけでも震え上がりそうなほどに。


刀獅郎は振り向いて、赤く発光する目をスミレに向けた。

スミレは恐怖と不安で胸が張り裂けそうになる。彼女はその時、チェーンソー・サムライについて聞いた話を思い出した。彼がチェーンソーで胸を切り裂き、心臓を切り取って、死ぬ前にそれを目の前で食べるのだ。

スミレは本能的に、自分がチェーンソー・サムライを怒らせたので、逃げなければならないと感じた。しかしそうはしない。代わりに彼女は目を固く閉じ、彼にニュートリ・チャウを差し出す。


突然、頭の上を3本の大きな指がこするのを感じた。目を開けると、刀獅郎が自分の髪を優しく撫でている。

見上げると、刀獅郎の顔に異常はなかった。不機嫌そうであるが、目に赤い光はなく、表情もいくらか和らいでいる。


彼はニュートリ・チャウを受け取ると蓋のネジを外し、たった一回の吸引で全て食べてしまった。残ったチューブはまるで絞って乾かしたようにしぼんだ。そして彼はチェーンソーが置かれたシンクにそれを放り込む。


壁に背中をつけて座ると、もう一本のチューブを手に取った。座っていても、刀獅郎はスミレよりもずい分背が高い。


スミレは興味本位で彼の隣に座った。まるで、おとぎ話に登場する生物の隣に座っているような感覚だった。もっと現実的な例えをするなら、巨大な虎の隣に座っているような感覚だった。

スミレはその伝説の男と会話を試みた。


「刀獅郎さん。そのカッコいい赤いジャケットはどこで手に入れたんですか?」


「ハクが作った」


その返答にスミレは飛び上がった。ゆっくりとニュートリ・チャウを飲む刀獅郎の声が、いつもと違っていたのだ。

スミレのよく知る、ガツガツと不機嫌そうな感じはどこにもない。声に含まれていた雑音はなく、獣のような声でもない。刀獅郎は“ほとんど普通の声”だったのだ。深くて、低く、大きなささやき声だ。


「そうなんですか。あの、どうして急に普通の声を出したのか、聞いてもいいですか?」


「咽頭癌で声を失った。代わりに声優用の特殊なボイスボックスを取り付けてもらって、これを使うと声の響きを変えることができる。おかげで声色を完璧に真似ることもできるようになった。時々、無意識に違う声を出してしまう。大声を出すと、ひどい金属音がするがな」


「すごいですね」


スミレは、刀獅郎がまさしく悪魔であり、その声は彼が食べた魂の叫びであるという話を聞いたことがある。スミレは、少しずつ、その空想話の裏側にある真実を理解していった。

彼女は刀獅郎がデリケートな話題について話しやすくなるように、質問を変えようとする。そう、まずは簡単な質問からだ。


「何か趣味はありますか?」


刀獅郎は視線を動かさずに食べ続けた。人殺し以外の趣味は持ち合わせていないのだろうか、スミレは、何か他の質問を考える。


「タバコとアニメ鑑賞だ」


すると、突然巨人が言い出した。


唸り声や怒号ではなく、いたって普通に話す彼を見て、スミレは再度飛び上がった。驚いたのは、タバコについてではなく、チェーンソー・サムライがアニメ鑑賞を好んでいることだ。


「わぉ! そうなんですね! 好きなアニメは何ですか?]


「ローズ・オブ・ヘブン]


スミレは驚愕のまなざしを上に向けた。アニメ『ローズ・オブ・ヘブン』は、宇宙を舞台にした2人の恋人たちの恋愛ドラマを描く作品だ。実はスミレはそのアニメが大好だ。今まで観たアニメの中で、最も美しいアニメのひとつと言っていいほどに。


「私もローズ・オブ・ヘブンが好きなんですよ! まさか刀獅郎さんも好きだなんて!」


「あれは俺にとって大切な思い出が詰まっている」


そう言う彼の表情は厳かだった。


「そうなんですか。どんな思い出ですか?」


すると刀獅郎は再び沈黙した。悲しみと苦しみの表情が広がっていた。


スミレは、この話題を掘り下げてはいけないと感じ、そのまま数分間、完全なる沈黙がそこを支配した。スミレは、何を質問しようかと考えては、刀獅郎が否定的な反応を示すであろうことをシミュレーションしていた。そして、とりあえず何か質問することに決める。


「どうして目が赤く光るんですか?」


刀獅郎は食べ終えたニュートリ・チャウを脇に投げ捨てて、新しいニュートリ・チャウを開ける。


「ハクがこの目をくれた。俺の本物の両目は、ライガー・クラン一味との決闘で切り抜かれた」


「ライガー・クラン?」


スミレは不思議そうな顔をする。


「俺がウェイストランドを旅した時、行動を共にしたミュータント・グループだ」


「すごい! 刀獅郎さんはスカベンジャーとして働いてたんですか!?」


スカベンジャーとは、ウェイストランドを探索するために雇われた人々のことだ。当時流行していた地下バンカーや、地下貯蔵施設にいる生存者を探すことが主な役割だった。あるいは他にも、ランドマークが変化した地域で図表を描くこともあった。

しかし、あまりに多くの人がミュータント――特にチェーンソー・ギャング――に殺されたために、解散させられたのだ。その後、彼らはチャウチャウ探検隊に取って代わられた。


「いや、俺はスカベンジャーではない。知人の叔父からその装備品をいくらか盗んだくらいだな」


「なるほど」


「言った通り、ライガー・クラン一味の一人が俺に決闘を申し込んできた。俺は決死に戦ったが、残念ながら俺の目は永遠の闇に葬られた。完治は不可能だった。右目は人や物がぼんやりとしているし、左目は全く見えない。俺は1年間、嗅覚と聴覚だけを頼りにして生きていた。ハクと再会した時、それに気付いた彼女が外科手術を行い、俺の目は人工の――サイバネティック・アイズに置き代わった」


「ハクはサイバネティック手術が出来るの!? すごい、ハクに出来ないことってなんでしょうか?」


「ハクは俺たちが若い頃からいつも頭が良かった。俺のような馬鹿とは違ってな。彼女が俺の目を治せたのは特に不思議なことではない。だが、このサイバネティック・アイズはとても古いモデルだ。ストレスがかかると、瞳孔が明るく発光する。つまり俺は常にストレスにさらされている。常に、怒っている」


「今は怒ってませんよね?」


「……今のところはな。怒りが俺の感覚の全てだ。この呪われた街に正義をもたらすために、俺は怒りを持ち続けなければならない」


「あはは、 スーパーヒーローみたいですね、刀獅郎さんは」


そのジョークを聞いて、刀獅郎はニュートリ・チャウのチューブを吸いきった。スミレは一瞬、彼の機嫌を損ねたのではないかと恐れた。


「俺はヒーローなどではない、スミレ。俺は怪物だ。悪魔は怪物を恐れる。俺は、この街の悪魔が恐れる存在なんだ。恐怖、苦痛、そして死の化身。俺の罪は俺が背負う。何もかも、罪なき者を守るためだ。もしも俺が、守ろうとする者たちに嫌われようが、恐れられようが、その重荷も俺が背負わなければならない」


スミレは罪悪感を覚えた。この数年、彼女はチェーンソー・サムライの怖い話ばかりを聞いてきた。初めて刀獅郎に会ったとき、その風貌と恐ろしい行動から、その話は本当なのだと感じた。しかし、今、彼女はその怪物の背後に存在する“人間”を見ている。


「スミレ、部屋に戻れ。俺は寝なければならない」


スミレが携帯電話を見ると、時刻はまだ午後の7時だった。


「ずいぶん早寝さんですね」


「犯罪者は主に深夜に動くからな」


刀獅郎はニュートリ・チャウの最後の一本を飲み干した。そして目を閉じる。

このまま床で寝るんですか? とスミレは聞こうとしたが、彼はおそらく一人になりたがっていると察して聞かなかった。


「それじゃあ、おやすみなさい。刀獅郎さん」


――スミレが部屋を出てドアを閉める様子を、刀獅郎は黙って見ていた。


見送ってから、暗い部屋の中で立ち上がった。刀獅郎は再び鏡の前に立ち、己の姿を見つめる。

鏡の中の、憎しみに満ちた瞳を見た。


鏡に映る刀獅郎が、赤く目を光らせて言った。


「お前は怪物だ。あの少女の優しさに、お前はふさわしくない」


「わかっている」


刀獅郎は呟くように言った。


「お前は怪物だ。恐怖と憎悪を具現化した生き物。お前が流し続ける血。お前が殺める悪はまだ人間だ。お前が敵に与える拷問は地獄以外の何物でもない。お前がもたらすものは苦痛と悲惨さのみ。お前には、幸福を得る資格がない」


「そうだ」


罪悪感、憎悪、そして自己嫌悪が彼を包み込んだ。


「お前はこの街のクズ共よりタチが悪い。お前は何世紀も前に滅んだはずの街に住んでいる。お前は殺人者や、裏切り者や、強姦者、そして悪魔よりも忌み嫌われる悪! お前は誰も救えない! お前にできることは、痛みと苦しみを与えることだけだ! お前は誰も幸福にできない! 誰も守れやしない!」


「わかっている!」


自己嫌悪は怒りに変化し、刀獅郎は唸った。


「そう、モモと同じように! お前のせいでモモは死んだ!」


「黙れ!」


尚も声を上げる刀獅郎は重圧で汗だくだ。


「護狼先生が死んだのは お前が先生に従わなかったクソ野郎だからだ!」


鏡の中の刀獅郎が歪んで、ねじれていく。彼の歯は鮫のようで、目の全体が赤く光っている。


「黙れ!」


刀獅郎は大声を上げた。手のひらの皮膚が破れそうになるほど、拳をきつく握りしめた。


「キクコが死んだのは、お前が彼女の心を毒したからだ!」


鏡の中の刀獅郎はなおも叫んでいる。


刀獅郎は耳をふさいだ。自分が殺した人々の悲鳴が反響して、刀獅郎の鼓膜に突き刺さってくる。

刀獅郎は鏡を掴んだ。


「だまれといっている! そのはなしはやめろ! おれのせいだ! おれがころしたんだ!」


鏡が引きはがされて、刀獅郎の手を離れて落下する。割れはしなかった。刀獅郎は頭と耳を抱え込んで膝をつく。鏡の刀獅郎はさらに輪郭を歪ませ、赤い瞳で、威嚇するように彼を見つめている。明瞭な大声で、叱咤する。


「ははがしんだのはおまえがよわかったからだ! おまえがあそこにすわってみていなければ、かのじょはくるしまなかっただろう! おまえはかのじょをころし、そしてかのじょのふこうをおわりにすべきだった! おまえはなにもせずにすわっているだけだった!」


途端、鋭い巨人の拳が鏡を打ち抜いた。

破片の中から手を引き抜いて、刀獅郎は流血する己の拳を見た。床のコンクリートの破片がいくつもめり込んでいる。痛みがあった。その痛みは、彼にある種の安心感を与えた。


「これでいい。俺に価値などない。ただ苦しみを持つだけだ。この惨めな様こそ俺の罪を清める唯一の方法だ」


刀獅郎は部屋の隅に腰を下ろして両足を広げた。一日中走ったり、飛び上がったりしたせいで、足に強い痛みがある。


サムライは恥を隠すようにして顔を覆うと、眠りについた。

願わくは悪夢が少しでも穏やかであらんことを。

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