第8話:ひよってんなゴリラちゃん 下
学名、ゴリラ=ゴリラ=べリンゲイ。
この冗談みたいな名の、でも霊長類最大級にして最強と呼ばれるマウンテンゴリラのことを、どれだけ知っているだろうか。
体重二二〇キロ、体長一九〇センチの大きな身体。草食性にもかかわらず、ライオンにもまさる咬合力。五〇〇キロをこえる握力。さらに神は、人間に次ぐ頭脳まで与えたのだ。
しかし、数多の天才が非業の死を遂げたように。恵まれすぎたギフトは、人を不幸にしてしまうのだろう。
ゴリラは知能の代わりに、乙女の心を持つ。
何といっても、ゴリラのメンタルは弱い。もう弱いというより、豆腐といっていって差し支えないぐらいだ。
襲われた恐怖で心臓が止まったり。動物園で飼育されるゴリラの中には、人に見られることのストレスで病んだり、逆に流行病で人が来ないことで病んでしまったりと。なかにはオスにフラれて自殺してしまう生き物なのだ。
わかるだろうか。ゴリラとは人間以上に繊細な生き物なのである。
そんな「獣」を彼女は継いでいる。だとすればウル郎くんの怒りは心を閉ざすのに十分だったのかもしれない。
背中を丸め、めそめそと泣きながら、
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
と繰り返す彼女に、僕たちはとてもいたたまれない気持ちになった。
ヘカテーちゃんがウル郎くんを追い出してもその調子だ。あのやり取りが、何かトラウマに触れたんだろう。
「そんなん。悪いんはウチらなんやから」
「いえ、……悪いのは、わたしなんです。ぜんぶ、わたしですから」
「そんな思い詰めんとって。ちょっと配慮が足りんかったかも知れへんけど、だからって暴力は振るったらアカン。そやろ?」
はい、とリラちゃんは肩を落としてうつむいている。
自己肯定感が低いんだろう。ヘカテ―たんが背中をさすって慰めても、心から納得しているようには思えなかった。
「どうしてそう思うの?」
僕は肩をすくめて言った。
「……どう、して?」
「一般常識じゃ、暴力は何にも勝る悪だ。言葉の暴力なんてのもあるけどね。法律のうえじゃ口が手を上回ることはない。なのに、どうして自分が悪いと思うの?」
リラちゃんは、消え入りそうな声で自分の膝に言葉を落とす。
「……不快にさせるような物は、人に見せちゃいけない。そう思うから、……です」
悟りを開いたような様子でリラちゃんはスケッチブックを広げる。
そして、うずくまるようにして落ちていた筆を滑らせた。
水のようになめらかな動きは、一つの映像を切りだしてゆく。
それはさっきの、自分の首を掴んでいたウル郎くんをカッコよく描いたものだった。
リラちゃんはうほ、うほと口を歪めた。
恍惚としたその表情、さっきのあれさえ刺激的だったんだろう。そして、そんな自分に嫌悪感がおさえられない。
出来に満足した彼女は、鬱々とした表情で紙をくしゃくしゃにした。
「気持ち、悪いですよね? こんなの」
「……そんなん」
「いいんです、わかってますから。わたし、おかしいんだって」
ヘカテーちゃんから遠ざかると、リラちゃんは膝をかかえて一人座りこんだ。
膝に口寄せ、毛布を両手で握りしめ、力なく微笑む。
それはもう、自分に絶望しきっているようにみえた。
「わたし、昔から落ちこぼれで。それで……地面に落書きばっかり、してたんです……」
リラちゃんは語った。はじまりは従兄弟がのぞんだ一枚の絵だったこと。それが友達に広まり、仕事になり、巨大な芸術という名の歯車として動き出したこと。外を出歩くだけでサインを求められる有名人になったこと。より過激な表現に傾倒していったこと。多くのファンを獲得したが、同時に家族や友達からは気味悪がられるようになったこと。
なにより自分の好きが、男の子たちにとって苦痛以外の何物でもないということに気づいたこと。
「もっとリアルが欲しくて、それで従兄弟の子にいろいろ。でもわたし……気づいてなかったんです。本当は嫌がってる、ことに」
きっかけは、その従兄弟の父に見つかったことだったそうだ。まだ幼い少年の心を、芸術として切り売りしている。それが問題視された。
問答のすえ、実家を叩き出されたそうだ。
けれど、それでも熱は冷めなかった。それでも彼女の創作意欲は消えなかった。
そんな彼女を少年が打ちのめした。無理矢理連れ出そうとした少年の涙が、彼女を我に返らせた。
「ふふ……わたしって、本当にダメですよね。だからこんなわたしを変えたくて、正反対の道を選んだのに」
そうして、情熱は罪悪感へと転じた。向いてないとわかっていて、このジャファリ王立士官学校をえらんだのは、自分を叩き直すためだったんだろう。
しかし、過去は追いついてきた。彼女のファンはどこにでもいた。彼女の世界に魅せられた人間はどこにでもいた。
そしてなにより、その世界を心から望んでいる自分がいることに気付かされたのだ。
あらゆる現実から逃げ出した彼女は、けれど既存の芸術に満足することができず、新たな巨塔を打ち立ててしまうくらいには天才だった。
その才能は、世界を動かし、世界を作り替えてしまうくらいの価値があった。賞賛と崇拝を一身に浴びるくらいには抜きん出ていた。
けれど、それはギフトであると同時に呪いでもあることに気づいてしまう。
その才能が、遺伝子に刻まれた烙印が、自分自身を焼いてしまうことに。
「あんなに反省したはずなのに。なのにわたし、わたし、気づいたらまた描いてるんですっ! 親にも、友達も、みんな離れていったのに、それなのにまた、また描いてるんですっ! リアルじゃイケなくて、こうやってうほうほ描いてるんですよっ!」
「……」
「顔や身体だけじゃないんです。道具や武器にさえ、性欲が抑えきれない自分がいるんです。もういやなんです、こんな自分! なんでこんなに、ダメに生まれてきちゃったんですか! まちがって生まれてきちゃったんですかっ! わたし、もっとまともに生まれたかった……」
ボロボロと涙をこぼしたリラちゃんは、それでも左手を地面にはわせて筆を探していた。
それほどまでに無意識なんだろう。筆を手に取った彼女は、そんな自分の腕を恨むようきっとにらみつけた。
「なんでわたし……生きてるんですかね」
絞りだすようにしてリラちゃんはつぶやいた。それは、何かが決壊するような響きだった。
困り顔だったヘカテーちゃんもさっと顔色を変えた。
なぐさめとは違う。ここで踏みどまらせないと。そんなはっきりとした決意が感じられた。
「そんな風に言ったらアカン。誰にだって、居場所はあるんやから」
ヘカテーちゃんはさっきくしゃくしゃに丸めたウル郎くんの絵を広げると、彼女により添った。
「認めてくれる人はいたわけやろ。なら、自分を卑下したらあかん。これを好きなみんなを、否定することになるんやから」
「そう、ですね。……そのとおり、だと思います」
そう頭を下げたリラちゃんは、とても空虚にほほえんだ。
ヘカテーちゃんが僕を見る。思った以上に響かなかったからだろう。
彼女にしてみれば本心で言ったはずだ。人は誰にでも居場所がある。
そして事実、リラちゃんにも居場所があった。
だからそれは、正しいはずなんだ。正論なはずなんだ。
それでも、何も響かなかった。
だって、そんなことはもう知っているからだ。
彼女には才能があった。生きていくだけの力もあった。
それなのにその特別を捨て、居場所を捨て、ふつうに戻ろうとした。凡人であろうとした。
たとえ他の人に価値があるといってもらえても、自分自身がそうは思えなかったから。
そんな人間に、あなたには価値があるんだといっても意味がない。
これは仕方がないことなんだ。陽の当たる世界で生きてきたヘカテーちゃんに、僕らみたいな影の住人のことなんかわかりっこない。
ど底辺な僕たちは、それが地獄への片道切符だと知りながら、それでもそっちに舵を切るしかない憐れな生き物なんだ。
そうしなければ、自分という自分を保っていられない弱い生き物なんだ。
それなのに、自分を肯定してもらうために被害者ぶってしまうんだ。
そんなことないよ、大丈夫だよって言ってもらうために。
だから僕は言うんだ。
君はゴミだって。
「アンタっ!」
「言い繕ったってしょうがないじゃん。彼女はゴミだよ。辞めたくても、欲に負けちゃうなんてさ。獣じゃないか、そんなの」
ヘカテーちゃんを押しのけると、おびえるリラちゃんに言った。
「みんな、嘘をつくのが上手いからね。良い人ほど、君にも価値がある、君は素晴らしいんだって褒めてくれる。でも、そんなわけないんだよ。誰にだって価値があるなんてそんなわけないんだよ。ゴミはたしかにいるんだ」
「…………ぁぅ……」
「いい加減にせえっ! 黙らんかったら、ウチがっ——!」
「だって、それは知っていることなんだ。彼女自身が否定できない事実なんだ」
僕も高校のとき、担任の先生に同じことを言われたことがある。
お前はダメじゃない。いつか必ず自分の居場所に出会えるから。人には向き不向きがあって、今はたまたまそれに出会えていないだけだからって。
でも、こうやって生きてきて、思う。
僕はあのとき、そう言って欲しかったんじゃない。
希望を持たせるんじゃなくて、現実を教えて欲しかったんだ。
それからの人生を歩けるよう、道標を示して欲しかったんだ。
お前は糞だ。
どうしようもないやつなんだ。
何の役にも立たないうんちなんだ。
——でも、生きていて良いんだって。
どれだけくだらなくて、どれだけ惨めでも、見ているだけで安心できる奴がいる。下をみたときにちゃんとはいつくばっている。
それがお前の役割なんだって、本当のことを教えて欲しかったんだ。
うそで勘違いさせて、届かない夢を見せることほど残酷なことはない。
生まれたときからクソなら、それが運命なら、最初っからそう言ってくれればいいんだ。
だってそうだろう? 僕たちは結局、ゴールにむかって走っているだけなんだから。
切りたくもないのに、スタートを切らされて。がむしゃらにゴールへとひた走っている。
なら、途中がどうなったってどうでもいいじゃないか。過程なんてどうでもいいじゃないか。
最後はみんな、同じゴールに辿り着くんだ。なら、それまで全力で走れよ。
僕たちのやることなんてそれだけだろ? 途中で諦めないことだけが生き物としての定めだろ?
「そんなん……」
「あるよ。死にたいやつに死なせるほど、幸せなことはないじゃない?」
それこそ僕たちに課せられた罰ゲーム。未来永劫終わることのない、ダンテにさえ救えない神曲のはじまりなんだ。
残酷だって知っていても、僕は言うよ。お前だけ寝てんじゃねえ。楽してんじゃねえって。
だってほら、ズルしてる奴ほど妬ましいものはないじゃない?
サボってる奴ほど疎ましいものはないじゃない?
だから僕は、言うんだ。
クソでもいいから、生きろって。
「わたしのこと……気持ち悪くないんですか?」
膝をかかえていたリラちゃんは、前髪の奥から瞳をのぞかせた。
「キモいよ。だから?」
「……これ、気持ち悪いですよね?」
「キモいよ。でも、好き嫌いは人それぞれじゃん」
そもそも僕は、こういった芸術がダメだとは思ってない。
趣味や嗜好なんてどうでもいい。そもそも僕にあれこれ言える資格なんてあるわけない。
僕が言いたいのは、どんな能力があろうと自分に価値を感じられない人間というのはいて、そいつらはすべからくゴミだということだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
そして他人に迷惑をかけなければ。いや、たとえ迷惑だとしても諦めていい理由にはならない。
死んでいい理由にはならないということを言いたいのだ。
「……アンタ」
なんて、そんな真剣に取らないでよ。こんなのただの狂言だよ。チラシの裏に書きなぐった、ただの戯言だよ。
真に受けられちゃ、こっちが困るんだけど。
はぁ、仕方ない。リラちゃんも落ち込んだままだし、僕が一肌脱いであげるか。
制服のボタンをはずし、ベルトもかちゃかちゃと鳴らす。
上半身裸になり、ズボンをずり下げようとしたところで、顔を両手で隠したヘカテーたんが叫んだ。
「な、なにしとるんや!」
「なにって、僕たちは仲良くなりにきたんだよ。なら態度で示さなきゃ」
「や、やからってそんな——!」
いやいや。そう言いながらキミ、ばっちり指と指に隙間あるの見えてるからね。
興味津々なんでしょ。このクソどエロクマ女が。
まあ、いいよべつに。僕はみられて屈辱に感じるようなタイプじゃない。なんなら興奮できるタイプだ。
あれ、なんなら役得じゃない? このまま脳内をマイ胸筋で侵食してやるか。
「あの……」
とか妄想していると、うつむいていたリラちゃんが顔をあげた。
「どうしたの? ポーズの指定?」
「……いえ、その……」
リラちゃんは、めちゃくちゃ気まずそうに、
「なんていうかその……メルボルンさんに、あんまりウホウホしないので……その」
脱ぐ意味がないです。と、彼女はおずおずそういった。
僕はぶぜんとした。ヘカテーたんもあわてて口をおさえる。
こらえきれず震えているけどね。クソがっ。
「ご、ごめんなさいっ。その……そういう意味じゃなくて」
「……べつにいいけど」
なんか彼女の言い分は、もっと華奢なジャニーズ系イケメンじゃないと妄想がはかどらないらしい。
ってことはアレか、僕はイケメンじゃないと? つまりそういうことか。
なんだよもう。いそいそと服を着る。なんだかホテルに行き、でも、
「ちっさ」
と言われ勃たなくなった気分だった。
ヘカテーたんのなぐさめも白々しいし。クソがっ。
「あっ、あのでも……」
「なに?」
ぶっきらぼうになるのも仕方がないと思う。
なのにリラちゃんは欲望全開、目をハートマークにして頬を染めた。
「輪投げ係なら、……その」
「わなっ——えっと、なんだって?」
「その、ヴォルフくんのお○○ぽ輪投げをする係なら…………ぽ」
両頬をおさえ、恥ずかしがるリラちゃん。
フェミニストだった僕は普通にミソジニー化した。
ぽ、じゃねえよ。女の子だったら全部許すと思ってんじゃないだろうな。いくら僕でも許容限度があるんだぞ。
つかこの子、言ってることマジキチだぞ。お○○ぽ輪投げって、どんな縁日でやってんだ。なんか、
「空気ってさあ、つながってるわけじゃん。なら、それはもう常時クン○してるのと一緒じゃね」
とか興奮していたガイキチを思い出した。
……やべ、それ今世の父だわ。
「帰る」
「あ、あかんて。ほら、リラちゃんもこう言っとることやし」
「ぬ、脱がなくていいですからっ! その、それは想像しますからっ! だからその、ちょっと投げてくれるだけで……」
ふざけんな。っていうか二人とも、ちょっと楽しくなってるだろ。笑いこらえてるのわかってるんだからな。
「絶対ヤダっ! だいたい、あっちもウンっていうわけないじゃんっ!」
「そこはほら。ヴォルフはウチが説得するから、な?」
「そ、そうですよ。ちょっと人助けだと思って……」
「どこが人助けなんだよっ!」
二人に制服を引っ張られながらも、扉にしがみついてイヤイヤした。
あかん。このままやと、僕の輪投げ童貞が。
すると外から物音が。待機しているウル郎くんが、騒ぎを聞きつけたのかもしれない。
あわてて助けを求めると、二人が口に足にと飛びついてきた。
あ、やばい。クマ女ぷらすゴリラ女はムリだ。気合いでなんとかなるレベルじゃない。ガチで深みに引きずり込まれる。
そんなときだった。逆光の彼方から救世主があらわれたのは。
僕はなんとか手を伸ばす。もうこうなったらウル郎くんでもなんでもいい。
だから頼む、このエロ娘どもをなんとかしてくれ。
「あ、ヴォルフっ。よかったわ、今呼びにいこうと——!」
そこでヘカテーたんは絶句した。いや、彼女だけじゃない。リラちゃんなんか、もう声も失ったぐらい青ざめていた。
なぜなら扉の向こうから現れたその男が、——無造作に僕の手を踏みつけたから。
「へぇ。お前に無能な東組のお友達がいるとは知らなかったぜ、なあ」
僕は、その男のことを知っていた。
そして、その男が引き連れる男たちのことも知っていた。
だからこそ、衝撃的だった。なにせ彼らがここに現れるなど、誰も想像していなかっただろうから。
「よう、俺を裏切るってのか。リラ」
彼の名はイナズマ。僕がイタチと呼ぶ、この物語のフィクサーだった。
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