第27話 爪痕
──────翌日、日曜21時。401号室。
シャワーから上がり、半分濡れた髪のまま脱力した身体をベッドの上に沈め深い溜め息をつく。昨日は本当に散々な一日だった。
単に化け物が作り出す結界のようなものに巻き込まれた、という出来事ならばまだ許容できた。我慢ならないのは被害者が出た点だ。
あの後、誰かが呼んでいた救急車で運ばれていった賀科。全身を切り刻まれ、現在は意識不明のまま寝ていると聞かされた。
計142箇所の切創、加え3つの臓器損傷。誰がどう見ても紛うことなき重傷だ。
僕らは甘利の運転する車でそのまま帰った。固く握り締めたままの拳が解けるのは、この部屋に戻ってきてからだった。
そして、「菅原 卓人」と名乗ったあの男。名前を総当たりしてもまるで手がかりがないらしい。案の定偽名だろう。
能力についても細かな詳細はわからないまま。「黒い板」が動力源のような役割を果たしていること以外、水を生んだり煙と化したりと掴み所がない。
そしてあんなに派手な格好をしているのに、目撃証言がまるで取れない。能力を使って隠れているのか。その中身が不明である以上それすらわからない有り様だ。
本当に、不甲斐ない結果だった。いつだって、どこにだって未知の危険が潜んでいるリスクがつきまとうこの世の実情は理解していた。
それでも僕は、心から小旅行を楽しむつもりだったんだ。なのにあんなことに巻き込まれたらろくに外出もできないじゃないか。
いや違う。その対処をいつでもできるようになるためにここで訓練を重ねないといけないんだ。僕はまだ弱い。
弱さの自覚があるからこそ、結果を顧みた時の心的ダメージが大きい。考える度に積み重なっていく悔悟の念に押し潰されそうだ。
どうせ大量殺人を犯した身、自由になるのは叶わない。だからここで生きていくしかない。そう決心したのに。
身体が震える。人一人なんて簡単に死ぬ、それが身近な人間に置き換わっただけでこんなに辛いなんて。こんなに慣れないなんて。
「....でも、頑張るしか...」
明日は月曜日。初めてここでの授業を受けることになっている日。
勉強なんてするつもりになれないけど、多少の気分転換にはなるかもしれない。それに卒業しないと正式な課員になれないって聞いてる。
今日はずっとこの部屋でじっとしながら気を張りっぱなしだった。食堂行った時も、間宮さんの心配する眼差しを受け流すので随分神経をすり減らした。
「....寝よう。」
─────────────────────
──────翌朝。
セットしておいたアラームで目を覚まし、洗面台へ行き顔を洗って歯を磨く。初めて朝食を抜く前提で組んだルーティーンは当然馴染むはずもなく覚束ない。
教科書は使わないとのことなので、筆記用具を詰めたペンケースだけを手に部屋を出る。どんな授業になるんだろう。期待はしてない。
階段を下り廊下を進み、「H」の札がついた扉の前で止まる。そして数秒躊躇った後取っ手に指をひっかけ、スライドさせた。
が、教室はガラガラ。角にあるデスクに座りなにかの手入れをしている男と、真ん中にポツンと置かれた机に突っ伏して居眠りしている小柄な少女がいるのみ。
後方の壁にはいくつか机と椅子のセットが寄せ集められているが、使われている形跡がない。薄くホコリが積もっている。
すると男は僕に気づき、手に持っていた金属でできた何かをデスクに置くと椅子からゆっくりと立ち上がった。
ワイシャツの上にベージュのベストを着た、一見文明人然とした格好の男。しかしながら纏う雰囲気はどこにでもいるサラリーマンのそれであり、凡庸で少し陰鬱。
レンズのついていないスクエアフレーム、伊達眼鏡越しの瞳はボテーッとしていて、こけた頬が年齢差を感じさせた。
覇気がないというわけではないが、どこか物悲しいというか、くたびれているような印象を受けた。
男は丁寧にお辞儀をすると無表情のまま、壁にくっついた、使用した形跡のほとんどない黒板にチョークで名前を書く。
「はじめまして、名厨君。」
「私は
「どうぞよろしく。」
「あっ、ど...どうも....」
「えっと....授業って...?」
「希望があれば始めます。希望があれば。」
「その様子だと、やはり十分な説明を受けていないようですね。簡潔に話します。」
菊入が言うにはまず、高校が義務教育でないのはここも外も変わらない。故にこの教室で僕が授業を受ける必要はない。
菊入本人としても自分は課員であり、メインに据えるべき職務は形骸化した課員候補生への教育ではないと認識しているとのこと。
賀科が言っていた、卒業が課員になるための必須条件であるというのは中学クラスまでの話であり、高校クラスは任意。
賀科は通っていたが現在は入院中。如月はそもそも来ておらず、そこで爆睡中の生徒に至ってはここに昼寝目的でやって来るらしい。
彼女の昼寝部屋とする分には構わないが、唯一まともに通い始めるかもしれない僕が授業を受けたいと言うのなら責任は果たす、と菊入は言うが。
「まだ前例のないケースですが、もし君が進学を望むのなら私も相応のカリキュラムを組みましょう。」
「いやぁ...そこまでは考えてないですけど。」
「よかった。冗談で言ったので。」
「えぇ....」
このやりにくさ。付き合っていくのはなかなか難儀かと思われる。
でも授業を受けるかどうかは任意、試しに一度くらい経験してみるのも悪くないかも。
ここまで浸かっておいて今更かもしれないけど、二度と手の届かない"普通"が少し近づく感覚が、なんだか眩しく見えてしまった。
「...今日だけって、いうのは...可能ですか。」
「構いませんよ。では、自分の机と椅子を出してください。」
「筆記用具は。」
「あ、自分のがあります...」
「よろしい。」
軽く上のホコリを払いながら、木製の机と椅子をワンセット用意して席に着く。そしてぬるっと始まる国語の授業。
しかし、気に留まったのは菊入の教え方。
「(死ぬほどわかりやすい.....)」
少し話しただけで察せるほどドライな気質のようだったので先が思いやられていたが、驚きだ。今までの教師にロクな人間がいなかった反動も多分あるけど。
よく噛み砕かれていて、要点をかいつまんだ模範的な授業。欠点を上げるとすればトーンが淡々としすぎていてイマイチ盛り上がらないところか。
それでも少女は横でか細い寝息を立てながら睡眠を続けている。最早マンツーマン授業。
気分は悪くないが、どうにも落ち着かない。しかし素晴らしいテンポのおかげであっという間に50分が過ぎ去っていった。
黒板に書いた文字を消しながら、ふと向こうのデスクに乗ったものを見る。筒のようなパーツや分解されたネジが正方形のハンカチの上に並べられていた。
「あの、先生...あの部品って...」
「私の銃です。さっきまでメンテナンスをしていまして。言っておきますがくれぐれも触らないで下さい。」
「今日はお試しなので、本来は午前中の三時間やりますが座学授業はここまで。これから任務に向かいます。」
「むしろここからが、この教室において最も深い要素となります。場数をこなすことも課員となる上で重要です。準備を。車は私が...」
「.....任務ッ。」
寝惚け眼でそう呟き、口元の涎を手の甲で拭う少女がむくりと身を起こした。
肩に毛先がわずかに触れるくらいくらいまで伸びている黒髪に、暗い青色のインナーカラーが入ったショートヘアーを掻いて、任務任務とぶつぶつ言いながら教室を出ていく。
しかし中性的な外見をした子だ。ヘアピンをしているが、穿いている細身のパンツは男物のようだ。
「...あの子も一緒に行くんですか?」
「ええ。かなりの実力を持っています。元々は
「え、じゃあ...」
「自らの意思で他人を殺したことのある人物、ということになります。」
「心配する必要はない。首輪が外されてからは、皆
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