第25話 射程圏内
指先に伝わるざらついた感触と、肌に寄り添う無機質な冷たさ。あまりにも張り詰めた静寂の中意識を取り戻した僕は、ゆっくりと身を起こした。
賀科、如月の姿もない。いつの間にか置かれていたこの場所は、見たところ地下鉄のホームのようだ。
しかし異様な点は見渡すごとに増えていくばかりだった。
照明がないのに明るく、線路は一定の長さのみを残して途切れている。車両が通るはずのトンネルがないからだ。
この空間は、地下鉄のホームを引き伸ばし、円形に繋げたような地形をしていた。そして気づく、線路の上をヒタヒタと歩く異常な存在の気配も。
「なんだ....あれ....」
どこかのネット、教科書か。見たことがある妙な神秘的さを放つフォルム。
女性。裾がボロボロな黒いセーラー服を着ていることから僕の頭はそう断定した。
しかし三面六臂。頭が三つ、腕が六本あるというあまりにも異常すぎる点を除いては。
顔に目鼻はなく、真っ黒く墨を塗りたくったようにのっぺりと。それどころか腕や脚の皮膚まで同様の漆黒に満たされている。
そして、ごく緩慢な速度で歩くその存在の後方には、全身をバラバラに切り裂かれた死体がいくつも転がっていた。
おそらくは、乗客たち。その中から必死に知り合い二人の姿を探し見当たらないことを確認して、少し安堵した僕はその場に立ち上がろうとした。
少し靴の裏が、床と擦れる音が鳴った。嫌な予感の答え合わせは、何番目かもわからない頭がこちらをぐるりと向いたことで即座に、否応なしに突き付けられる。
「まずっ...!!」
その瞬間、六本ある腕のうち一本が振り下ろされ空を切った。
あいつ、なにかをこっちに投げてきたんだ。そして迫る風切り音と、同時に背後から近づく重々しく駆ける足音。
「滑り込みィイイ!!」
雄叫びと共に僕の前に転び出た人影。その顔の前にかざしている両腕が飛んできたなにかを弾いて、一瞬火花を散らす。
賀科だ。全身にクロムの鎧を纏って、自らを盾としている。
「賀科くん...!ど、どこにいたの...!?」
「お前が動けるようになるの待ってたんだ!!後ろにトイレが見えるな、そこに走れ!そこに如月もいる!!」
急いで立ち上がり、僕は賀科の言葉を信じて振り返りながら走った。そこには確かに男女用の公衆トイレがそれぞれ見える。
「賀科くん!!男子と女子どっち!?」
「女子トイレ!!つーか聞く必要ある!?」
「聞かないとどっちに如月さんいるかわかんないじゃんか!!」
「確かに!!っと、もー限界ッ!!」
腕を振り乱し繰り出される異常存在の猛攻を防ぎ続けていた賀科も背を向け、トイレのドアを開いた僕の方へ駆け戻る。
とんでもないスピードでマシンガンのように次々と飛来する、刃物のような物体。
それを命からがらかわしながら、僕達はトイレへと逃げ込んだ。
閉めた扉に数度突き刺さる衝撃が伝わったのを最後に攻撃は止む。僕達は壁にもたれへたり込むように息を切らした。
「あっっぶねえ...!」
「なにさ...あいつは...!」
「知らん...とりあえず避難だ、あれはさすがにヤバすぎる...」
「ほら、
賀科が指差した先には、確かに如月がいた。大量のペーパータオルをタイルの一角に敷き詰め、その上で膝を曲げ横になっている。
膝で顔の大部分が隠れているが、覗く眼差しは怒りの一点。いや、状況はわからないけど僕達のせいではないからそんなに睨まないで。
「なんでペーパータオルを...」
「...ここがトイレだからに決まってるでしょ。ちょっと考えればわか...」
「あーあー喧嘩すんな、んな時に限って!」
「俺達は脱出の手立てを立てなきゃなんねえ。ここで結束しなくてどーすんだ!」
「...とりあえず、お前が起きるまでにわかった情報を伝える。」
賀科は、今置かれているこの状況そのものは不明だが、できること、使えるものをまとめて僕に話してくれた。
まず、スマホは使えない。圏外というわけではないが、弱すぎる電波が絶望的で外部と連絡を取ることはできない。
しかし時計は普通に進んでいることから、何らかの方法で外とこの空間とが遮断されている状態にあると推察された。
助けが来るまで、当面はこのトイレで籠城するということになったが、水道も使えず、残った食料は賀科がたまたま持っていたグレープ味の板ガムが四枚のみ。
そして賀科は、洗面台の上に置いてあった鈍色の物体をつまんで僕に見せる。
「...これ、あの化け物が投げてきたヤツだ。」
形状は、カミソリの刃。しかしサイズが既知のものとは異なり掌ほどに大きい。
これがあんなスピードで、それも絶え間なく無数に飛んできたとなればひとたまりもない。
さっきは賀科が助けてくれたけど、あのまま身を晒すのは自殺行為だった。
「食いもんも水もないんじゃ、一週間も持たないだろうぜ...それに日帰りだっつーことを知ってんのは甘利さんだけ。」
「もし任務なり何なりが重なったら、帰りが遅いってな異常を察知するのも遅れる...」
「だから、リスク取って出口を探さなきゃいけないんだが...」
「はッ、はァ!?あのカミソリがビュンビュン飛んでくる中で歩き回るっての!?」
「無理に決まってんでしょ!?」
「ただ歩き回るだけじゃあ、な。」
「俺が
「囮って...賀科くんは...!」
「こんなカミソリくれー、俺にかかりゃ楽勝に弾けるっての!さっきもやってたろ?」
「腹減って体力無くなる前に行った方がいい。二人とも、準備してくれ...」
「お前らが十分に見て回れるくらいには、持たせてみせるからよ。」
言い分はもっともだ。この現状を打破する策も見当たらないし、まずはこのトイレから出ない限りはなにも始まらない。
心配だがリスク承知で、やるしかない。仲間を信じて必ずここから脱出するんだ。
長考の末立ち上がった僕達は、頭まで覆う鎧を纏った賀科を前方に据え、出入口の扉の前にスタンバイする。
「...いいか、扉を開くのと同時に名厨は右に、如月は左にダッシュだぜ。」
「...了解。」
「はいはい...」
「行くぜ.....ゴー!!」
勢いよく扉が開かれ、賀科は真っ直ぐ飛び出していく。案の定化け物はもっとも近い位置にいる賀科を狙って攻撃を仕掛ける。
そして如月と分かれ両側に展開。急ぎすぎずゆっくりすぎず、辺りをくまなく見回しながら円形のホームを走っていく。
しかし見えるものは同じようなトイレや柱、シャッターの降りた通路ばかり。出口らしきものはまったく見当たらない。
線路の方へ目をやれば、賀科はジリジリと近づきながら投げつけられるカミソリを一身に受け続けている。
衝突する度に甲高く響き渡る金属音。激しく散る火花。ハラハラしながら走っている内に、僕達はついに半周を終えかち合ってしまった。
「名厨...出口は!?」
「ないよ...!それっぽいのはどこにも...」
「もう...というか、
再び線路に視線を向ける。賀科は依然として化け物と熾烈な戦いを繰り広げているが、明らかな劣勢に追い込まれていた。
単に攻撃を受け続け時間を稼ぐ、それすら危うい状態にある。
化け物の攻撃手段が変わっていた。カミソリはカミソリでも、黒いI字のカミソリ。巨大なそれを何本も同時に振り回し賀科をメチャクチャに切り裂こうとしている。
いくら打撃に強いゲル入りの鎧で受けられても、外側から削られれば元も子もない。現にいくつもの箇所を破壊され、そこに深い切り傷ができている。
全身に張っている分、
どうしたら。防御に精一杯で、削り取られた分の金属を回収する隙すらない。立っているのもやっとのはずなんだ。
「...私達だけでも逃げるよ、名厨!そもそも囮を引き受けたのはアイツ...」
「...ダメだ。」
「私達も殺され...」
「ダメなんだ...ッ!!」
「友達なんだ、助けないと...」
「僕が...僕じゃなくなる!!」
右手を構え、意識を集中させる。今まで基礎能力の底上げとして頼ってきた
なんでもいい、どうでもいい。使い慣れた形さえしていれば。
「刀ッ...刀ッ、刀ッ刀ッ刀刀....!!!」
「早く出ろ刀ァア...!!」
形も、鋭さも関係ない。一刻も早くあの化け物から僕へヘイトを移すための道具をこの手に呼び出すんだ。
そして、柄糸もハバキも、鍔さえない。幅のやたらと広い大型の刀が手の内に現れる。
刃物としての体裁は保てたんだ、振り回せばそこそこの威力にはなるはず。
やってやる。恐れるな、あの程度に。今度は僕が助ける番だ。
「如月さんは下がってていいから...君だけでも、出口を探して...!」
「は...!?賀科は鎧があっても、あんたはないのよ!?一度でももらったら...」
「死ぬ...かもね。」
「でも、僕に本来起こる死に方とは違う。友達を守って死ねる。」
「...だから大丈夫。根拠ないけど、僕は大切な人を失うのが死ぬより怖い、だけだから。」
重たい刀を握り締め、脚の震えに鞭を打って線路の方へ向かう。恐ろしくないと言えば嘘になっちゃうけど。
このまま友達を見捨てられるほど僕は残酷じゃないと、信じられる証明が欲しいんだ。
「............行かないで」
背後からぽつりと聞こえたような。その淡い言葉を空気と共にびゅんと切り裂く、しかしカミソリとは違うまた未知の刃が突然、化け物に突き刺さった。
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