第2話 アングラ
家を出て駅へ向かう。東京にあるバイト先へはここから遠いため、電車で通わなくてはいけない。
交通費がそこそこかかるのが痛いが、仕方ない。支払いを済ませて車両に乗り込む。
この時間を使って覚悟を決める。毎回なにが起こるかわからない仕事内容のため、常に緊張して臨まなくてはならない。
平静を保つため、スマホのネットニュースを開き眺める。最近では、とあるタワーマンションで殺人事件が起きたようだ。
一室で、鈍器で全身を滅多打ちにされ殺害された女性が発見されたらしい。頭は完全に潰されていて、怨恨の線が濃厚として捜査中。
まだ犯人は捕まっていない。最近妙に物騒な事件が増えている気がする。
それでも僕がこれから向かうところに比べれば、こんなのは可愛いものだ。
いくつか駅を乗り継ぎ、見慣れた東京の街に降り立つ。だが買い物や観光など余裕を要する行動は一切眼中になく、ただ一つの目的地へ向かう。
空が暗くなり始め、人通りが増えてくる頃。僕はクラブ「
合鍵を使い開業前のエントランスの扉を開けて中へ入っていく。まだ電灯が点いていないため暗いが、道は憶えている。
階段を下りていった先にあるダンスフロア。夜な夜な活躍しているのであろう照明がなければただの無機質な空間だ。
その奥、ステージに隠れた場所にあるこれまた鍵のかかったスタッフルームのドアが、この世の理とその裏側とを隔てる壁。
もっともあれは、全体的に見ればごく一部に過ぎないのだろうが。
ノックを四回。二回ごとに一拍間を空けてからさらに二回叩く。するとすぐにカチャッと音が聞こえるのですぐに中へ。
右手にあるカウンターの椅子に座り、スマホに熱中している職員に一応会釈する。
片目を紫のメッシュが入った長い前髪で隠し、厚手のパーカーを着て棒つきキャンディーを咥えた中性的な容姿の女性。
合言葉代わりとなるノックを聞き取りリモコンでドアの開閉、通った人物の記録を行う係だが、見ての通りそれしかやることがないため暇を持て余している。
向こうも向こうで「話しかけるな」オーラを出しているため、いつも特に会話はせずそのまま素通りすることにしている。名前も聞いたことがない。
ややオレンジがかった照明の光が降る、やたらと広い廊下を歩いていく。赤を基調とした洋風の華美な装いが辺り一面を埋めている。
ここは客人が通る道でもある。例えここに訪れる目的がどんなに残忍であろうと、もてなす心は均一に配るのだろう。
ここのオーナーには出会ったことはない。正確には顔を見たことがない。
僕の"バイト"が持つ性質上、その主宰であるオーナーは顔を隠さざるを得ないのだ。
十字路になっている廊下を右に曲がり、控え室兼更衣室へ入る。内装はほとんど変わらず、シャンデリアまで据え置きだ。
人員を大切にしているのか使い捨てたいのか、運営側の考えることはよくわからない。小さなテーブルに長袋とリュックを置き、柱状のカーテンの裏へ向かう。
着替え、もとい衣装はいつも用意されている。黒いスラックスはあったが、上に着る服がどこにも見当たらない。
僕はスマホを出して、担当の新島さんに電話をかける。
『もしもし。もー着いた?』
「はい...あの、一つ確認したいんですが。」
「今日の衣装っていうのは、このズボン一枚ですか...?」
『そーだ。今日のショーを丸ごと貸し切った客からの要望で、受けた傷を生で見たいんだと。』
『シャツ着てたら隠れるから。そのスラックスとパンツ以外は着んなよ。』
「そ、そうですか...わかりました。すみません。すぐ着替えます。」
『客はもう会場で待たせてる。もうすぐ"薬"も持ってく。』
着ていた制服、Yシャツ、インナーも脱ぎ上半身裸になり、用意されたスラックスに脚を通す。サイズはピッタリだが、これではやや動きにくいかもしれない。
改めて露出した肌に視線を落とすと、全身に刻まれた傷跡に辟易する。要望に応えればチップも弾む、これ以上の痛みも堪えないと解放への道はまだまだ遠い。
この傷が増えることになろうとも、背負った業からは逃れることはできない。
全国、各国まで広がるセレブたちは、地下空間で繰り広げられる惨たらしい殺戮ショーを見物しにこの"裏側"の場所へ集う。
僕は今宵の出演者。持参した長袋の中身はバイト道具として渡された古い日本刀。
相手はいつも知らされない。薬漬けにされ頭がおかしくなった状態の、ナイフを手にした男と戦わせられたり。猛獣のように凶暴な犬に追いかけ回されたこともあった。
だがいずれも、勝ってきた。生き残るために全て殺してきた。何故僕がこんなショーに参加させられているのか、それは自殺した親が僕に遺していった借金を返済するため。
今回で出演は五度目、残る借金は843万円。一回の出演につき渡される給与は20万円。加えて時偶貰える観客からのチップ。
今後幾度となく放り込まれる死地から生き残って完済する可能性は、それまでに僕の正気が粉々になってしまうことよりも遥かに低いだろう。身体中にあるこの傷跡も、このショーでできたものだ。
すると、少し乱暴なノックが扉を打つ。きっと新島さんがやってきた。
「どうぞー。」
若干の抵抗を残し、これは衣装であると言い聞かせながら僕はカーテンを開ける。やはり入ってきた新島さんと鉢合わせた。
腰まで届くまっすぐな飾らない黒髪に、乾いた血が付着したままの白衣。うっすらと透けるその裏は目のやり場に困る下着姿。
シワだらけのポケットに両手を突っ込み、女性とは思えない鋭い眼光をただ黙ったままこちらに向けている。
元闇医者らしく、ここの医務室の
新島さんもかつてはドギツいボンデージファッションに大型ハンマーを携え出演していたらしいが、正直なところ恐ろしくて真偽を確かめたくはない。
惜しげもなく恵まれたスタイルをさらけ出されるのには慣れたが、こちらが上裸というのは些か経験がないため恥ずかしさがある。
「なにモジモジしてんだ、気持ち悪い。ヒョロガリのお前になんか魅力一つねえ。」
「ホラ、もうすぐ始まんだから飲め。」
「...どうも。」
ポケットから取り出した、サイケデリックな幾何学模様が描かれた錠剤を受け取る。これはショーを盛り上げたいオーナーの指示により出演者が必ず服用しなければならない興奮剤で、感覚の増強をもたらす。
すぐさま口に放り込み、飲み込む。依存性はなく副作用は喉の渇きくらいなもの。とはいえ得体の知れない薬を躊躇なく摂取できてしまう自分が、如何に麻痺しているか。
これを飲んでから十五分経てば開演だ。しかし本来薬の摂取を見届ければすぐに医務室へ戻っていく新島さんが、何故か控え室に留まっていた。
物憂げに腕を組んで壁に寄りかかり、天井を見つめて唇を甘く噛んでいる。
「あの...戻らなくていいんですか?」
「あー?いや、ちょっと気掛かりでさ。今回の客について。」
「たった一人だけで来た。ケージに妙な生き物詰めて。」
「妙な生き物...」
「ハッキリ見せてくんなかったけど、猛獣の類じゃなさそうだった。そいつとお前を戦わせようって話だ。」
「相場の三倍の金額を積んできたから、オーナーも怪しみつつオッケー出した。」
「...死なないですよね、僕。」
「知らね。お前が死んでも代わりはいくらでもいるし。」
十五分が経過した。全身の毛が逆立ち、それぞれが神経の糸となったように空気の流れを過敏すぎる触覚としてキャッチする。
視界の色彩は鮮やかに燃え盛るように見え、至るところに十字の光が明滅する。頻りに唾を飲み込み始める僕を見て、新島さんは人差し指を曲げて「来い」のジェスチャー。
刀を手に控え室を出て、廊下を進み右に曲がる。眼前に見える両開きの大扉が何倍にも重厚であるように感じられた。
音もなく開かれた向こう側へ歩く。左右に広がる観覧席はやはりほとんどが空っぽで、円形の会場、中心に位置するエリアを見下ろすVIP席に脚を組んだ一人の若い男がついていた。
この距離からでもわかる長身痩躯。細身のスーツを着用、明るい茶髪を横に流し、顔を舞踏会用の
あれが"妙な生き物"を持ち込んだという今回の観客か。顔立ちは日本人らしくもあり、そうでない感じもある。
どこかの御曹司かなにかだろうか。そんな考察をしている暇もなく、臨戦態勢に入った身体は半ば独りでに檻を抜け、砂地の上に立つ。
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