第6話 事件ですわ⑥
廊下から厨房に向けて止めどなく熱風が流れ込んでくる。
不謹慎にも、冷えた体に少し有難いと思ってしまった。
「どうしましょう、助先生!! 私たちが気が付かないうちに火の海になっていたんですよぉ!!」
茜空が言うには屋根裏部屋や普段使われていない客室など、そこら中から小さく出火し、いつの間にか家屋全体が火に包まれているという話だった。
玄関からリビング、リビングから厨房へ至る経路は奇跡的に無事で火の手がほとんど回っていない。
彼女はそれを知らせに危険を冒してまで、この厨房まで走ってきたのだと言う。
私たちがいた厨房は内部から出火しなかった上、外部からの影響も金属製の外壁によって完全に防がれていたせいもあり、火事の発見が遅れたのだ。
「リターヌ嬢、なんとかするんじゃなかったのか!?」
私は令嬢を見て叫ぶ。
叫ぶ必要は無かったが、驚きと焦りでつい声を荒げてしまった。
リターヌ嬢も私と同様、厨房の外の火炎を瞳に映して驚愕の表情を浮かべていた。
「な、なんとかするつもりでしたわ! どこかが燃えたら火災警報器が反応して
「カサイケーホウキ? なんだね、それは?」
「嘘でしょう? 全ての居宅には火災警報器の設置が義務付けられて――まさか」
「……り、リターヌ嬢。それは、
昭和四〇年、つまり一九六五年現在にそんな法律は無い。
「助先生方! 何のお話をなさっているのか、浅学なわたしには皆目見当もつきませんが!」
がッ!! と、文字通り割り込んできた女中は殊更強調して言った。
「今すぐ避難すべきですッ!! そこの犯人も連れて早く!」
「あ、ああ賛成だ! 即刻脱出しよう! 茜空君だったかな、知らせてくれてありがとう。きみは先にもう行きたまえ! リターヌ嬢、コックは私が担ぐからきみも早く脱出の準備を!」
茜空がスカートを膨らませながら走り始めたのを見て、厨房を振り返る。
しかし、当の令嬢はその場から一歩も動いていない。
ティーカップを片手に、椅子に座るコックの眼をひたすらに凝視していた。
「これが、貴方の言う
男は微笑みながら顔を上げる。
「そうだ。もしも、魔法を使う以上かなり確率の低いもしもだが、俺が犯人ってばれた場合は、こうやって全部燃やし尽くして有耶無耶にしようと思ってたんだよ。ほら、厨房から玄関までの道は燃えてないだろ? 本来なら『奥本家の人間も使用人もみんな死んだけど、なぜか俺は奇跡的に生還できました』ってする予定だったわけ。これも念入りに準備したからな。屋敷中に仕込んでおいた魔法陣の位置調整、大変だったんだ」
「リターヌ嬢! そんな奴の話はどうでもいいから、早く――」
厨房服の男が立ち上がる。
なぜか、両手両足を縛っているはずの縄は切れていた。
「俺は料理人だから。何かあった時のために、果物ナイフくらい常備してるよ」
いつの間に。
いや、我々が女中に気を取られている間だ。
「さて、あんたたちは早く玄関から出て行くといい。俺は適当に燃えてる部屋から逃げるからさ」
言い終えるとともに、厨房の出入り口を通って廊下より、信じられないものが内部へと侵入してくる。
先ほど、コックが披露した宙を舞う五つの火の玉。
それよりも遥かに多い、十をゆうに超える火球が行進するように飛び回り、整然と男の周りに並んだ。
「もしあんたが今身を引かないなら、屋敷が焼け落ちる前にこの火の玉たちがこの場にいる全員を襲いに行くことになる。
男はさらりと、大量殺人の宣言をした。
それを聞いていた令嬢は、いつもと変わらぬ様子で、やはり、優雅に紅茶を飲んでいた。
「り、リターヌ嬢、ここは一旦家の外へ退避するのが得策だと思うがね。私が正しく状況を理解できてるとは思えないが、このまま行くと依頼人である奥本青年含め皆死んでしまうのではないだろうか……」
それだけではない。厨房の中にも徐々に煙が充満してきている。
このままいくと火の玉で死ななくとも、一酸化炭素中毒が原因でお終いだ。
別に。
と令嬢は言った。
「どうでもいいですわ、他人のことなど。勝手に生きて、勝手に死んでください。今なにより重要なのは、この男から情報を聞き出す事。異世界の住人である彼がなぜこの世界にいるのか。どうやってこの世界に来たのか。それを知らなければ、探偵の真似事なんていう茶番をしてきた意味がありませんわ」
くく、とコックは無邪気に笑った。
「随分自分勝手だな」
「悪役令嬢ですもの」
令嬢の青い瞳が輝いたように見えた。
「どれほど自分勝手であろうと、そのことでそれだけ他人から非難を浴びようと構いません。私は、リターヌ・ラ・カイゼリアは、こんなところにいる場合では無い。こんなことをしている場合では無い」
「私は、
厨房の床に溜まった水の中から、しゃぼん玉のように水の玉が浮き上がる。
向かい合う火球にも劣らない十分な数だった。
「他のことなど、すべて些事です。故に、知っているのなら疾く教えなさい。貴方がどうやってこの世界に来たのか。――どうやったら、
遠くから小さくサイレンの音が聞こえてくる。
この音が煙を多量に吸い込んできたことが元である幻聴でなければ、どうやらやっと警察が到着したようだった。
「タイムアップだな。中々楽しかったが、もう歓談はおしまいだ。そろそろそこにいる探偵だか助手だかが死ぬぞ」
あんたは大丈夫だろうけど、とコックは呟く。
「ほら、熱意に免じて手掛かりを贈呈だ。今日のところはこれで勘弁してくれ」
男は親指くらいの大きさの赤い宝石をこちらに投げ、リターヌ嬢はそれを片手で受け止める。
「なんですの、この、ラピュタの飛行石赤色版みたいのは」
彼女はその石を手のひらで転がして検分する。
「取り敢えず、それをひとつの取っ掛かりにしてみると良い。俺の口からは何も言えない約束だが、言葉以外ならまあ、許されるだろう」
私にはただの綺麗な石ころ程度にしか見えなかった。
「上手くいけば、またどこかで会うことになるかもしれないな」
火の玉はぱっと消え、それに合わせて水の球も厨房の床へと戻っていく。
「……覚えておきなさい。次会ったときは溺れる程度では済ましませんわ」
足元の水が、満ち引きを繰り返す浜辺の波の如く動き出したのがわかった。
ふらつく私は、波の力で足を持っていかれて倒れそうになるのを、なんとか堪える。
次いで、厨房内のありとあらゆる水分。
水道管が噴水から指向性を持った水鉄砲に変わり、リターヌ嬢の周囲に漂う。
それらの水分がひと塊になったかと思うと、小さな津波のように通路へと流れ出していった。
まるでモーセの起こした奇跡のように、火の海が真っ二つに割れて中央に安全な道ができている。
「助々、帰りますわよ」
$$$$$
そこから先のことはあまり覚えていない。
燃え盛る炎の中をどうやって帰ったのか、警察に対してどういう対応を取ったのか、多量に吸い込んだ煙のせいで頭がぼんやりとしていたのだ。
明らかに一酸化炭素中毒による症状だった。
だからこれは後からわかった話だが、結果的に奥本氏の邸宅は全焼。
奥本氏の遺体は完全に焼失し、犯人と思われる男の行方は未だ不明となっている。
事件に関わった探偵としては、遺憾に堪えない。
唯一の幸運と言えば、それ以外の死傷者はいなかったことだ。
奥本青年も、奥本叔父も、執事も女中も、怪我なく脱出することができたのは喜ばしい限りである。
奥本青年に至っては脱出の際、燃えやすい事業の書類や権利書を持ち出すようにして逃げたという。火の玉を捕獲した時と言い、信じられない蛮勇っぷりである。
人は見かけによらない。
父である奥本勝比古氏の後を継いで、事業を続けるという。
奥本叔父は出家したらしい、というのを風の噂で聞いた。
火の玉が舞い、ティーカップが暴れる今回の事件で何か思うところがあったのかもしれない。遺産相続の権利も今まで持っていた資産もすべて放棄して、身一つで山籠りだそうだ。
うん。
壮健であれ。
そして我々。
数日に及ぶ警察からの事情聴取ののち、ようやく解放されて東京の事務所に戻ってきていた。
「助々、暇ですわ。何か面白いことをしなさい」
「……」
机に向かって必死に手を動かす私に対して、リターヌ嬢は窓際の所長席から勝手な言葉を投げかける。
「五月蠅いな。見てわかるだろう、私はきみと違って暇ではないんだよ。締め切りも迫っているし、事件のことを忘れないうちにある程度形にしなければならないんだから」
私の目の前にあるのは、原稿用紙だった。
四〇〇字詰めの白い紙を、手に持ったペンでひたすら黒く染めていっている。
「ふん、まあ馬車馬のように精々あくせく働きなさい。貴方の名が広まれば、この事務所に来る依頼ももう少し増えるでしょうから」
増えないだろう。
この事務所に依頼が少ないのは、一から十までこのリターヌ・ラ・カイゼリアという魔女が原因なのだから。
「特別に私が、次の作品のタイトルを考えてあげましょうか。そうですわね、今までの法則に載っとるならば……『茶器共振奇譚』あたりかしら」
残念ながら、彼女の提案前にすでにタイトルは決まっていた。
はずれである。
正解は『共振茶器異譚』であったが、それを彼女に馬鹿正直に伝える必要は無い。
「まあ、そんなとこだよ」
「嘘」
心臓が跳ねた。
驚いて、書いた『し』がミミズののたくったような文字になってしまった。
この魔女は、魔法を見抜く眼に加えて、人の心を暴く眼まで手に入れたのか。
「そ、それも未来人としての力かね?」
「そんなわけないでしょう。アニメでも人気コミックでもない無名作家である貴方の小説なんて、未来で誰も知っているわけがありませんわ。マイナーすぎてきっとブックオフで投げ売りされているでしょう」
「……相変わらず言っていることはわからないが、きみが私を貶していることだけは良く伝わってきたよ」
話の枠組みを練り終えたところで、一度手を止める。
お茶でも飲んで一息つこうと思ったが、私の分の紅茶は私が用意しなければ存在しないため、休憩はあきらめて軽く身体を伸ばすだけにする。
「ところで、この前の事件の時だが」
再び筆を走らせながら、頭の中では燃え盛る屋敷と水に濡れた厨房を思い起こす。
向かい合うのは、厨房服の料理人と豪奢なドレスに身を包んだ令嬢という、不釣り合いな組み合わせ。
「きみが帰るとか、戻るとか言っていたのは、
「私の秘密を暴こうなどとは、下世話なことばかり熱心ですわね。普段からそれくらい仕事や雑用にも熱意を持って貰いたいところですわ」
「茶化さないで欲しいな」
「……まあ好きに想像してくださって構いませんわ。強いていうなら、過去でも未来でも無く、私が本来存在すべき
「……ふうん、随分詩的な表現をするね。きみ、詩人の才能でもあるんじゃないか」
リターヌ嬢がキッと私を睨みつけてきたが、それも一瞬のことで彼女はすぐに手元の紅茶に目を戻した。
「当然ありますわよ、才能。なんなら貴方の代わりに小説でも書いてあげましょうか? ゴーストライター令嬢ですわね」
「辞めてくれ。万に一つもないとは思うが、もしもそれで売れてしまったら、私の立つ瀬がない」
探偵を奪われ、事務所を奪われ、看板まで奪われた。
残す矜持は小説家という肩書きだけなのだから。
「そんなことはありません。探偵助手という立派な肩書がありますわ」
「その肩書は仕える探偵の優秀さに比例するのだよ」
ノックスの十戒を端から破る探偵の質など、たかが知れている。
つまりその助手の質もたかが知れているということだ。
「なら最高峰ですわね」
飽きれて何も言えなくなった私は、ただ溜息だけを吐いた。
一時静かになった部屋の中に、こつこつという足音が響く。
滅多に耳にしない、誰かが階段を昇る音だ。
「あら、最高峰の探偵事務所に依頼人が来たみたいですわね。助々、その机の上のゴ、紙束はどこかに退けて、助手らしくとっととお茶の用意をしなさい」
「……わかっているとも」
事務所の扉がノックされる。
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