第4話 事件ですわ④

「まず、奥本氏の命を奪った直接的な死因については説明するまでも無いでしょう。焼死です。奥本氏はその身を炎に焼かれて亡くなられた」

 私は自信ありげに、右手の人差し指を伸ばした。

 これを顔の前に。

 つかつかと書斎の中を歩き回りながら、現場に立ち竦む人々の顔をひとりひとり睨むように見つめる。

「気になるのはこの『炎』です。事件当時、奥本氏が内側から施錠したことでこの部屋はいわゆる密室状態でした。ならば炎も外部から持ち込まれたと言うのは考え難い。つまり、この書斎のどこかから、人間を黒焦げにするほどの火が発生した。……この答えは最初からひとつしかありません」

 私は暖炉を指差す。

 薪はすでにほとんどが灰となっているが、割れ目の奥に燻る赤い火種が見えた。

「この部屋の唯一の火元、暖炉です」


「待ってください、助先生! 暖炉と椅子の間は二メートル近く離れているんですよ!? どうやったって暖炉の火を椅子に座っていたご主人様に触れさせるなんてこと、不可能です……!」

 ファンであるという女中の茜空が私の言説を否定した。

 ありがたい。

 この小さな否定を打ち破ることで私の推理がより強固になる。

 ミステリ愛読者というだけあって、まるで事前に示し合わせたような非常に適切な意見とタイミングだ。


「ええ、その通りです。この事件の一つ目の問題点はそこでした。まずこの『暖炉と椅子の距離』が私を悩ませた」

 暖炉からゆっくりと椅子へと向かう。

 歩幅から考えても確かに二メートルほどだ。

「しかし、現場の状況を観察してみればごく単純なことでしたよ」

 椅子の前でしゃがみ込んだ。

 視線は床に敷き詰められたタイルの溝。

「この椅子から暖炉までの間を可燃性の液体、つまり灯油で繋いだんです。灯油ならほんの少し火に触れただけで引火し、激しく燃える。タイルの隙間というごく少量でも導火線としては十分でしょう」


 こんこん、と中指の第二関節で床を叩く。

「重要なのはこのタイルが木ではなく石でできているという点です。木材ならば炎の後が焦げ目として残るでしょうが、石材なら焦げることは無い。証拠が残る心配をしなくて良いのです」

「た、確かにそれなら! 今この場に灯油も焦げ目も残っていないことに説明がつく!」

 執事が驚嘆の声を上げる。

「待ってください!」

 再び反論をするのは茜空だ。

 小さな両手を握って胸元に揃え、必死に異議の意を示す。

「確かに灯油を導火線にすることはできたかもしれません……。ですが、そもそもこの部屋に灯油があるのが変じゃァないですか! 大広間には灯油ストーブがありますけど、この部屋は暖炉があるのでストーブは――」


「それが二つ目の問題点です」

 私は立ち上がって、窓際まで歩いた。

 そこには倒れたサイドテーブルと、割れて粉々になったティーポットが落ちている。

「『如何にしてこの部屋に灯油が持ち込まれたのか』。その謎を解く鍵は、このティーポットにありました」

「ま、まさかティーポットに…………灯油を!?」

「そのまさかです、女中さん」


 一気に部屋内がざわつく。

「そんなこと、あり得ませんよ!! ティーポットはカップ含め執事の私が持ってきましたが、この部屋に入ってすぐ、紅茶を一杯注いだのですよ!? その時の見た目もいつも通り普通の紅茶でしたし、何より灯油独特の匂いがしませんでした!!」

 今度は執事が反論する番だった。

「ええ、そうでしょう。毎日紅茶を注いでいるあなたが、その違和感に気が付かないはずが無い。奥本氏が紅茶を飲もうとする時にだって、灯油がカップに注いであったら異臭に手を止めるでしょう」


 しかし、と私は強調して続ける。

「そこに犯人の巧妙なトリックはあったのです」

 リターヌ嬢へ歩み寄って、右手を彼女へ伸ばす。

 きょとんとしたていた彼女は、しばらくして意図を理解したらしく苦々しい表情でティーカップを差し出した。


「皆さんは『比重』という言葉をご存知でしょうか。通常、ある物質と水の密度の比率のことを言います」

 彼女から取り上げたティーカップを体の前に置き、中の紅茶を見せびらかすようにする。

「簡単に説明するとその液体が水よりも重いか軽いかという話です。比重の異なる液体をひとつの容器に納めた場合、比重の大きい液体が下に沈み、小さい方が上に浮くことになります。水の上に油膜が張るのと同じ原理ですね」

「は、はぁ……」

 執事が眉を八の字に曲げ、得心のいかないという顔で相槌を打つ。

「さて、執事さん、あなたは灯油の比重がいくらかわかりますか?」

「……いえ、わかりません。そういったことには疎く。申し訳ございません……」

 彼は質問を受けただけで、やはりその額に汗を搔き始めた。

 まるで容疑者のような狼狽えぶりに、質問したこちらが申し訳なくなる。

「日常的に使うことのない知識ですから、執事さんが知らなくとも無理はありません。答えを言うと、灯油の比重は水より小さい。つまり、灯油と水を同じ容器に入れた場合、灯油は水の上に浮くのです」


「それが、事件とどうつながってくるのでしょうか……?」

 未だにぴんときていない様子の執事。

 他の面々も似たり寄ったりだ。唯一女中だけは顎に手を当てて、考え込むようにしている。もしかすると、自分の中で何か仮説のようなものが出来上がっているのかもしれない。

「重要なのは一点だけです。つまり――」

 だが、ついてこれないからといって、彼らを置いてけぼりにしてはならないだろう。

 それは優れた探偵のすることではない。

 探偵は素人でも理解できるように、謎を解説してあげなければならないのだ。


「もし、ティーポットの中に灯油と紅茶が一緒に入っていた場合、『紅茶は下層に溜まり、灯油は上層に浮く』ということです」

「そうかッ!!」

 深く考え込んでいた女中が顔をあげる。

 大きな瞳は爛々と輝き、その顔は驚きと喜びに満ちている。

「そうすればティーポットを傾けても、下層に溜まっている紅茶だけがティーカップに注がれて、上層の灯油は決して出てこないということですね!!」

 ファンサービスだ。

 私は出来の良い生徒を褒める教師のように優しく微笑んで頷いた。

「確かにそうすれば、誰にもばれずに灯油を書斎に運び込むことが可能です! な、なんてトリック......! 犯人は相当の知能犯ですね……」

 うんうんと赤べこみたく首を振りながら女中は呟く。


「おやおや、私の言うべきことはすべて彼女が言ってしまいました。そう、犯人は非常に頭が良く、科学的な知識を有している人物です。これから説明する最後のトリックからも、そのことがよくわかります」

 私はカップの紅茶を飲み干し、ソーサーごとリターヌ嬢へ返却する。

 喋り続けて乾いた喉が程よく潤った。

 渡すときに彼女の方角から品の無い舌打ちが聞こえた気がするが気のせいだろう。


「この事件の最後の仕掛け、それは『如何にして椅子と暖炉の間に灯油という導火線を引いたか』です」

 これまでの推理をつなげる連結部となる謎。

 深呼吸をして息を整えながら、最後の創作に取り掛かる。

「ティーポットに入れられた灯油がこの部屋に持ち込まれ、その灯油を用いて奥本氏が炎に包まれ死亡した。というところまでは今まで説明した通りです。では、なぜティーポットの中にあった灯油が、容器の外に出てしまったのか。この原因は、彼の習慣、、にあります」

 私は部屋の入口まで歩み寄った。

 そこには、ある機械が置かれている。

「奥本氏は食後に、この書斎で紅茶を飲みながらラジオを聴くという習慣がありました。これは毎日決まったルーティーンとも言える行動で、本日もいつもと変わりなく行われたという認識でお間違いないですね、執事さん?」

 一も二もなく頷く執事。

 もはや彼は場の空気に吞まれていた。

 違和感も疑念も持たず、ただ探偵の推理を聞き入っている。


「よろしい。では、ここで再び科学知識が必要となってきます。『共振』という現象に聞き覚えがある方は……――あなたはどうですか?」

 唐突に奥本叔父を指差す。

 指摘された彼は面白いくらい見事にびくりと身体を震わせた。

「そ、そのくらい知っている……あれだろう、く、狂ったように神を信奉する……」

 他の人々から一斉に期待の視線を受けた奥本叔父は、しどろもどろになりながらもごもごと言の葉を連ねる。

「そこまでで結構。ありがとうございます」

 その言葉を全部聞かずに打ち切った。

 誤解しないで欲しいが、奥本叔父にちょっかいをかけるのは、捜査に異様に短い制限時間を課してきたことに対する意趣返しというわけではない。

 私はそれほど狭量な人物では無い。

 単純に、奥本叔父の知識量が事件の今後の趨勢を握っているからだ。

 たぶん本当である。


「こちらも簡単に説明すると、物質にある特定の高さの音をぶつけると、その物質が呼応するように大きく震えるという現象です。身近なものだとギターがこの原理を利用していますね。弦というただの糸の振動がギター本体の内部で反響され、大きな音となって響き渡る。実に単純でしょう?」

 実際に単純かどうかはさておこう。

 わかった気になってもらえれば、トリックの解説には差支えない。

「今回の事件ではその弦の役割をラジオが、ギターのボディの役割をティーポットが担ったのです」

 舌の回転が良くなってきた。このまま結末へと走るのが良いだろう。

 これまでの推理はすべて好感触だったのだ。

「そう、奥本氏は習慣の通り、紅茶が届いた後は部屋に鍵をかけてひとり、大好きなラジオを聴くために電源を入れる。このひと通りの動作に違和感を感じることは無いでしょう。しかし、ラジオから流れ始めた音は振動となってティーポットを揺らし、共振という物理現象の果て強力な振動に耐えきれなくなった陶器は砕けた!」

 だん、と右手で強く真空管ラジオを叩いた。

 内部でパリンという音。

 真空管が割れたらしいが、気にしている場合では無かった。


「つまり! ラジオから発せられた音による共振で、ティーポットは砕け、中にあった灯油は部屋の床へ。そしてそのままタイルの溝を通って暖炉へと流れたのです!」

 私は自信満々に告げる。

 人差し指を立てて、口元にはほんのり笑み。

 どこを切り取っても名探偵と言える。


「…………」

 しかし。

 私の熱のこもった弁舌に反して、部屋には冷めた空気が流れ始めていた。


「……のです!」

 まずい。

 これは良くない反応だ。

 脇から染み出し始めた嫌な汗を感じながら、じっと表情を見渡す。

 全員が全員、今の共振トリックについてどこか納得のいっていない顔をしている。

 場の空気は一変し、探偵の推理を疑う聴衆一同という構図が生まれ始めていた。


「と、突飛な話に聞こえるかもしれませんが、これは科学的にも実証可能な事実です。米国では実際、共振によって人の声でワイングラスを割ったという実験結果もあります。原理さえ把握していれば、これは実に簡単なことなんですよ」

 周りからの視線が痛くなり、私は振り向いて窓の方を見る。

「かの名探偵も仰っていました。『全ての不可能を除外して最後に残ったものが如何に奇妙であっても、それが真実となる』、と。我々も最後に残ったこの真実を受け入れていかなけらばならないのです!」


「待ってください」

 声を上げた人物の顔を見て驚く。

 それは白い厨房服に身を包んだコックだった。

 鋭い瞳をさらに細め、値踏みするような視線を送ってくる。

「本当にそんなことが可能なんですか? どうも俺にはすべてが机上の話のように思えてしょうがないですよ。確かに実験室ではワイングラスが割れたのかもしれないけど、ここは実験室ではないし探偵さんが割れたと言ってるのはティーポット。厚みから材質まで何から何まで違うじゃないですか」

 ぐうの音もでない。

 実にその通りであると、私も本心では思う。

 私もこの説を唱える上で最も弱点となりうる部分だと感じていたが、これまでの雰囲気から押し切れると思ってしまっていた。

 つまり聴衆を少々小馬鹿にしていたのだった。


「俺も同意見だ。そんなふざけた推理がまかり通るわけないだろ。所詮は三文作家のしょうもない創作だな。ならやってみせてみろよ。無理だろ? 犯罪の手法を頭のうちであれこれ捏ねくり回すのは結構だが、そういうのは妄想の中だけにして現実をもっとよく見ることだ。お前、大学とか行って、もっと科学というものを学んだ方がいいんじゃないか?」

 憎らしいことに奥本叔父も同調して、ここぞとばかり攻撃し始める。

 トリックについてはもちろん、私の科学に対する知識教養までを卑下してきた。

「な、何を言うんですか! 助先生の説明したトリックは現実的で再現可能に決まってるじゃないですかッ! ね、先生。このミステリ初心者たちに見せてあげてくださいよう!!」

 唯一の味方であり私のファン。

 女中の茜空は推理を擁護する発言をしていたが、彼女の中でも完全には得心がいっていないのだろう。信じようとする気持ちが逸り、焦るような早い口調になっていた。


「……なるほど」

 さて、トリックの再現。

 当然できるわけがない。

 説明したトリックは一から十まで創作なのだから。


「わかりました」

 だがここまで来て、今までの推理を無かったことにはできない。

 最後のピースこそ上手くはまらなかったが、ここまで描いてきた青写真は悪い出来ではなかったはずだ。

「割りましょう、ティーポット。ラジオは…………動きませんね、なぜか」

 先ほどラジオ内部の真空管が破損したことを思い起こす。

 ちょっとばかり強く叩いた結果の破壊ではあったが、これは逆に功を奏したとも言える。

 ラジオで再現するとなったら、きっと裏工作が面倒だから。

「それに生憎、この屋敷にはレコードも再生機も無いようですし、代わりに私の声で検証することになると思いますが」




$$$$$




 私たちは場所を事件現場の書斎から、厨房へと移した。

 実験の場としては書斎が相応しいが、なにぶん機材が揃っていない。

 再現に必要となるティーポットも水も両方がすぐ手に入る厨房が適しているという合意が全員でなされた結果の移動だった。


「ア~~~……。んん!! アァ~~~……。ちょっとお待ちください。喉の調整を……」

 二メートル四方ほどの金属製調理テーブルの上にティーポットを設置。

 中には三分の二ほどの水が充填されている。

 私の語った内容では、灯油と紅茶をティーポットに収めるということになっていたが、公衆衛生の観点から灯油抜きで実験を行うことを提案したのだ。ポットが割れたとき、厨房の床に灯油が散乱することになるというのはよろしくない。

 しかし、私の真意としては別にひとつ、『水』でなければならない理由があった。


「リターヌ嬢……」

 咳き込むふりをして、背後のリターヌ嬢を見る。

 彼女は目を伏せ、相変わらず静かに紅茶を飲んでいた。

 喧噪の外、ひとりだけ異空間にいるような出で立ちである。

「た、探偵役を演じる切るためにきみの助けが必要なのだが……」

 私の哀願を聞くなり、リターヌ嬢は目を瞑ったままこれ見よがしに溜め息をついた。

「まるでドジで間抜けなどこぞの小学生みたいですわね」

「なんだか分かりにくい罵倒だな」

「『リタえもん、リタえもん』と、人に頼ってばかりで成長しようともしないダメ人間のことですわ。今は一九六〇年ですから……四、五年後あたりにこの罵倒の意味を知るでしょう」

 相変わらず、彼女の言っていることは訳がわからない。

 だがもちろん、今突っ込んでいる余裕は存在しなかった。

「……今はそんなふざけている状況じゃ無いのはきみもわかるだろう」

 私とリターヌ嬢以外の五名は、離れたところでこの実験を通して探偵の質を見極めようとしているのだ。

 周りから痛いほど視線を受けながら、小声で続ける。

「いや、きみの信念を軽んじているわけではないんだ。『魔法は秘するもの』、うん、その通りだと私も思うとも。秘密兵器というものは、ここぞという時に使うから効果があるのだし。けど、ほら、ね、頼むよ、きみと私の仲だろう」


「………………ふぅ」

 彼女は場違いなほど優雅に、ゆっくりとカップをソーサーに戻す。

「仕方ありませんね。またひとつ、貸し《、、》としましょう」

 令嬢が目を開く。

 作り物のような青い瞳が、灯りを反射して妖しく光っていた。



「ァア~~~……。よ、よし。喉の準備ができました。では、実験を始めましょうか」

 何事も無かったかのように振り返る。

 何事も無かったはずもないことは、この場の誰もが見ていたと思うが。

「さて、米国の実験によるとワイングラスを割るための周波数は約六百ヘルツ。成人男性の声の周波数は平均五百ヘルツ近辺であるため、ワイングラスを割るためには一般男性よりも若干高い音域の声を出せば良いということになります」

 だが、今回の標的はティーポット。

 厚みから考えると、それよりも低い音が必要となってくるだろう。

 リターヌ嬢がすべて何とかしてくれるのだから、正確性は必要ない。

 とはいえ、可能な限り信じてもらいやすい演技は必要だ。平生よりも喉を開いて発声する。


「ア~~~~~~~~……」

 厨房に響き渡るのはお世辞にも美声とは言い難い私の歌声。

 六人全員が一言も発さずにただ聞き入っている。

 荒唐無稽な光景は、私の肺から空気が無くなるまで続いた。

 おや?

 リターヌ嬢、話が違うぞ。

 想定と異なり、ティーポットには何の変化も現れないでいた。

 実験の性質上、顔をティーポットに向けているため、後ろにいるはずの令嬢の姿も確認できない。


「……んん! し、しばらくお待ちを。人間の声帯とラジオのスピーカでは根本から構造が異なりますからね。もう少し調整が必要なようです」

 まさか、と思い立つ。

 タクシーに乗る際からかったことをリターヌ嬢はまだ根に持っているのだとしたら。

 だとしたら、ここで彼女は私に対してさらに恥をかかせようとしているのかもしれない。


 誰もが目の前の探偵を、はずれを引いた時のような残念そうな表情で眺める。

 一部からは溜息すら聞こえてきていた。

「なあ、探偵さんよ。もう諦めたらどうだ? 流石のあんたも、今自分がやってることがどれだけ馬鹿らしいかぐらいわかってるだろう」

 振り向こうとしたところで、厨房には似合わないスーツという風貌の奥本叔父が声をかけてくる。

「あんたの推理は間違ってるんだよ。兄貴はティーポットの灯油で殺されたんじゃなくて、きっと火の玉に焼かれて死んだんだ。だから犯人はこの場にはいない。この地に住まう恨みとか怨霊とか、そういうものに殺されたんだよ」

 不気味なくらい的を射た推理をする男だ。

 トリックは見事に正解である。


 だが、そんなことを言われては反論しないわけにはいかなくなった。

 事件の真相が魔法によるものなどと言われてしまっては、これまでの努力が泡と消える。

 それに、奥本叔父のそんな言葉が、私の胸の内で燻る何かに触れた。

「はは、おかしなことを仰いますね。火の玉? それこそ非現実的で起こるはずもありませんよ。二十世紀の世に何を言っているんですか」

 そう、今は西暦一九六五年。

 科学が大手を振って闊歩する二十世紀なのだ。


「ご存じないかもしれませんが、火の玉の原理も科学的に考察がなされています。統計的に冬場に見られることが多いというデータから、乾燥した木の葉の自然発火説。墓地に出現するということから、埋まっている人間の遺体に化学反応が起こり、地下から燃えやすい物質が噴出したというリン発火説などが、科学界の今の通説です」

 安楽椅子探偵に憧れ、普段それほど運動という運動をしない私は、先ほどの『大声を数秒間出す』という行為だけで顔中が汗にまみれていた。

 いくら格好つけても、どこか道化のようになってしまう。

 惨めな風貌で、息も絶え絶えながら言葉を続ける。

「いいですか。火の玉とか怨霊とか……魔法とか、そういう非現実的で摩訶不思議なことなど、この世にはひとつも存在しないのです」

「……ふん。口ではどうとでも言えるだろ。だったら証拠を……」

 

「――今から起こることをよく見ていてください。そうしたら、あなたはもう少し科学というものを学んだ方がいいとわかると思いますよ」


 厨房のテーブルに向き直る。

「ン……アア~~~~」

 リターヌ嬢の助力が期待できない以上、これはもう気合いで割るしかない。

 科学という名の気合いだ。

 音域が合っているかどうかはともかく、何より重要なのは声量のはず。

 腹式呼吸の要領。

 丹田に力を強く込めて叫んだ。


 すると。

 ティーポットの蓋が揺れて、カチ、という音が鳴った。

 

 奥本叔父が目をしばたたかせる。

 非常に小さい音だったため、聞き間違いだとでも思ったのだろう。

 彼は猫背になり首を前に突き出して、起こり始めた現象を注視する姿勢へと体位を変えた。

「ア~~~~!!」

 私が馬鹿みたいに大きく口を開くと、呼応するように陶器も強く震え始めた。

 女中の茜空は口元を手で押さえて、反対にゆっくりと後ずさっていた。

 感極まった彼女の目元はすぐにでも決壊しそうなダムのように涙で潤っている。

 

 次の瞬間。

 ティーポットは砕け、水が内側から弾けるように溢れだした。

「……ふぅ……ご、ごら……ゲホッ……」

 空っぽになった肺は酸素を求めるばかりで、うまくいうことを聞かなかった。

 砕けたティーポットからテーブルを伝い、床へと滴り落ちていく水を見つめている人々に対して、精一杯自信ありげに手を広げて告げる。

「……ご、ご覧いただいた通りです。これが『共振』という物理現象ですよ。適切な音量と適切な周波数さえ用意できれば、ティーポットといえど、容易く割ることができるのです。……とは言え、まあ、今の実験でも判明したように、そう簡単にはいきませんから、犯人は今日この日のためにティーポットを振動させやすい周波数帯域が強く出力されるよう、ラジオに細工を加えたのでしょうね」

「すァ……さすがですッ!! 助先生……!! わ、わ、わたし、先生の推理を信じていました!!」 

 女中は震える声で歓喜の声を上げる。


「待て! 偶然という可能性もありうる! 偶々割れやすかったのか、はたまた割れていたポットだったんだろう! ほ、ほら、このティーポットも割ってみろ……! 今ここにも水を入れた――」

 おたおたしながら、奥本叔父がティーカップを掲げる。

 あれを見たにも関わらず、まだ信じきれていないのだろう。顔面を蒼白にしながら、僅かに闘気の残った瞳でこちらを睨んだ。

「――いいでしょう」

 私は軽く振り向き、リターヌ嬢に目配せをする。

 彼女は呆れたように整った眉を八の字に曲げた。

「ウゥ~~~~!!」

 間髪いれず、奥本叔父の手にあったティーカップが割れる。

 彼は驚きのあまりばたばたとその場で震えた後、後ろに倒れて大きな尻餅をついた。床に溢れた水を下敷きにした高級そうなスーツが、その水を吸って濃く変色していく。


「ゥア~~~~!!」

 ついつい興が乗った私はそのまま歌いながら、水道の方を向いて軽やかに蛇口を指差す。

 意図を理解したリターヌ嬢の協力のおかげもあり、かたかたと金属製の留め具が震え出し、蛇口の握り部分が宙へ飛んでいった。

 抑えを失った水道管は止めど無く水を噴出させている。


「これが『科学』の力です。コツされ掴めば容易いことですよ」

「あ……あ…………そんな馬鹿な……」

 奥本叔父は微振動を続けながら、焦点の定まらぬ瞳で噴水と化した蛇口を見つめている。

 彼の中にある今まで信じてきた現実感と虚構の境界が粉々に砕けてしまったのかもしれない。

 私にも似たような経験があるため、その気持ちには同情ができた。だが、こればかりは天命とか運とかそういう自分の意志ではどうにもならない曖昧なもののせい、としか言いようがない。

 私も彼も、魔女に出会ってしまったお互いの運の悪さを呪うしかないのだ。


「リターヌ嬢、ティーポットを割るのに随分時間がかかったじゃないか。私としては気が気でなかったのだが」

 皆が滅茶苦茶になった厨房を呆然と眺めている隙に、後ろを振り返り令嬢に耳打ちをする。

 遅かったことで若干劇的にはなったが、要らぬ恥をかいたことも確かだ。

 抗議の気持ちを隠さずに訴える。

「貴方に『私が安心して未来に帰れるように努力する』という気概があるかどうかだけ確認しただけですわ。ただ甘やかすばかりでそれが無いと、二十一世紀の将来、本当にダメ人間になってしまいますから」

「なんだ、きみ。未来に帰るのか。まさか本当に未来人だったとは」

「……言葉の綾ですわ。本当に話が通じませんわね」

「……リターヌ嬢、きみ本当に話が通じないな」


 これ以上の会話に意味が無いと感じて打ち切る。

 捻った腰を戻し、前を向いた。

「さて、では私の語った推理の尤もらしさが証明されたところで、この事件の犯人を明らかにさせていただきましょう」

 服の襟を正し、容疑者一同を見回す。

 最初から決まっていたこととはいえ、この事件の真相を解明する場だ。

 最後まできちんと伝統に則らなければならない。

「今回の事件も間違いなく難事件と言えるでしょう。犯人も相当高度な専門知識を持っていたことは確かです。『共振』、『比重』、『タイルの溝』、まるで関係無いとも見える三つの要素を見事に使いこなし、密室に仕立ててこの屋敷の主人である奥本氏を殺害した」

 私は人差し指をぴんと伸ばして右腕を上げる。


「その犯人は――」

 しまった。

 今更になって、この事件を解明する上で決定的に足りないものに気がついた。

 しかしもう後戻りはできなかった。


 これでは格好がつかない。

 嗚呼、名前くらい聞いておけば良かった。

「――あなたです。コックさん」

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