第3話 事件ですわ③
ノックスの
曰く、探偵小説における基本規則を定めたものである。
第二戎。
『探偵方法に、超自然能力を用いてはならない』
リターヌ・ラ・カイゼリアは事件開始と同時にその戒律を破ったのである。
恐らく他の戒律もいくつか破っている。
「犯人はあのコックですわ」
超常的な探偵方法の結果として、事件は直ちに解決した。
とはならない。
そんな解決方法は誰も納得しない。
我らが法治国家日本では証拠がすべて。
当然、事件解決にも証拠が必要なのだ。
魔法やら魔力やら常人に認識できない要素を幾ら理路整然と並べたてたところで、犯罪の証拠足りえないことは火を見るよりも明らか。
立証には物理的な証拠と動機が必要となる。
「犯人は教えました。後は助々、貴方の出番ですわ」
魔女は金色の髪を靡かせ、サファイアのような青い瞳でこちらを見つめる。
「
大きな落胆とともに、肺の中の空気をすべて吐き出さんとするほどの溜息を吐いた。
研がれたナイフの如く鋭利な頭脳によって容疑者の中から犯人を見つけ出すのではない。地道に証拠というピースを拾い上げ、論理的推論に基づいて事件というパズルを完成させるのでもない。
判明している犯人へとつながる証拠をこねくり合わせ、人々が納得できる形へとでっち上げる。
つまり事件の後始末。
それが私、助透元探偵。現助透
「またかね……」
「またも何もこれが私たちの本分でしょう。惚けていないでしゃんとなさい。あのコックは私と同じ、この世界の外から来た異邦人。とっとと吊るし上げて、話を聞く必要がありますわ」
私は再び、長い長い溜息を吐いた。
「遅ればせながら、まずは自己紹介を」
悲惨な事件現場を目撃した私たちは、その熱の引かぬまま屋敷内の人間全員をリビングに集結させた。
私たちを含めて、総勢七名。
灯油ストーブを囲むように全員が座れるだけの椅子やソファがあったが、使用人と思われる男女二名は離れたところで固まって立っている。
「私は助と申します。そして彼女はリターヌ嬢。私……いや」
未だに慣れない。
「
奥本青年に目をやると、自身なさげにこくこくと頷いているのが見えた。
彼の顔色はより一層青白く、視線は未だ定まっていない。
「依頼内容は『火の玉事件』の謎を解明すること。しかし、みなさんご存知の通り、そんな事件よりもより重大でより緊急性の高い事件が起こってしまいました」
リビングの中をゆっくりと移動しながら、集まっている一同の顔を見渡す。
誰しもが、恐怖と疑心暗鬼に囚われている。
「奥本家当主、奥本
私は顔も知らぬ故人の名前を告げた。
まさに他人であるが、この場にいる人々にとっては事情が異なる。
奥本青年にとっては父親。
それ以外の人物、使用人なども主従などの関係性があるはずだ。
「皆様の心中お察しいたします。しかし、悲しんでばかりもいられない。気付かれているとは思いますが、これは殺人事件です」
ここでひと息。
「しかも。奥本氏の遺体が見つかった書斎は内側から施錠され、もう一つの出口となり得る窓は、はめ殺しで開閉不可能。これは俗に言う『密室』というものです」
「み、密室殺人……!?」
二人いる使用人のうち、片方の女中が感嘆の声をあげる。
口元を隠しているため表情からは判別できないが、なぜか声色は上擦っている気がした。
「ええ、その通り。そして窓が開閉不可能ということは、奥本氏の書斎へは施錠された扉しか出入りはできないということです。屋敷の外の人間、外部犯はありえない。もうお察しかもしれませんが念のため、言葉にさせていただきます」
これは茶番である。
そんなことは百も承知だ。
しかし、人々を納得させるためには時として無駄に見える行為も、そうと自覚した上で実行しなければならない。
儀式は、伝統に則り、厳粛でなければ。
足を止め、私はおもむろに顔を上げた。
「……つまり犯人は――」
「――この中にいるわけです」
自分の言葉ながら、薄寒いものを感じた。
どの口が言っているのだ。
犯人はそこのコックである。
誰ひとりと口を開くものはいない。
リビングは静寂に包まれ、その場にいる人間の呼吸音、衣擦れの音までもがよく聞こえた。
「先ほど警察には連絡をいれました。が、なにぶん奥本邸は山中深くにあるものですから、急いでも三時間はかかるとのこと。……この三時間、私たちがしなければならないのは、再び犠牲者が生まれるという事態を防ぐことです」
次の殺人の可能性。
想定していなかった人々の間にどよめきが広がる。
「これは連続殺人です。一人目の犠牲者はそう、この屋敷の使用人だった女性です。当時の事件の詳細は知りませんが、ひと月前突然現れた火の玉に触れた彼女は焼き殺された。今回起こった事件とも、炭化した死体となって発見されたという部分は共通していますね?」
まるで空想のような、あまりに特異すぎる事象。
誰が見ても、関連性は明らかだろう。
「つまり、第三の犯行を防ぐためにも警察の到着を待たずして、我々は可能な限り真相を解明しなければなりません」
「ま、待ってください……!」
今まで黙っていた執事が突然声を出した。
この中で一番年齢は上だろう。五十代後半程度と推測される。髪の生え際が後退し広くなった額にたっぷりとかいた脂汗をハンカチで拭っている。
「た、探偵さん……お話は分かりますが、つまりそれは警察が来る前に私たちで独自に調査をして、犯人を捕まえるということでしょうか……? そ、それはいくらなんでも無茶な――」
「――あ、あの!!!」
女中のひとりが唐突に甲高い声をあげる。
先ほど、密室という言葉に反応した彼女。
黒のロングスカートに白いエプロンとシックな給仕服を着て、髪は後頭部でひとつの団子に結い上げていた。凛々しく見える服装であるが、低い身長のためか可愛らしいという表現の方が適切な印象だ。
「ま、ま、間違ってたら大ッ変申し訳ないんですけどぉ! 探偵さんってもしかして、小説家の、あの助透先生ではないですか!?」
素っ頓狂な叫びに誰もが呆けた顔をする。
話しかけられた私ですら、急激な話題の転換についていけずに困惑した。
叫んだ当人は幼さの残る顔を真っ赤に染めながら、上目遣いでこちらを見つめている。
「そ、その通りですが……何か?」
「探偵とか、小説家とか、急に何を言っているのかね茜空君……!」
執事の男性が興奮する女中の奇行を止めようとそばに寄った。
茜空と呼ばれた女中は感情を抑えられないといった調子でさらに捲し立てる。
「わたし、助先生の大ッファンなんですう! 単行本も雑誌の連載も全部読んでいて、い、一番好きな作品は『車輪円周率奇譚』なんですけどぉ! 嗚呼!
彼女の言葉に、つい数十分前の記憶が想起される。
確か、私のファンだと言っていた運転手の娘が、ここ奥本邸で女中として働いていると言っていたのだった。
つまり彼女はファンの娘。
いや、この熱量からすると、むしろ運転手がファンの父なのかもしれなかった。
「落ち着きたまえ茜空君! きみ普段はこんなじゃないだろう。ひとつずつ落ち着いて話しなさい。なんだねそのなんとか賞とかいうのは」
必死に宥めようとする執事のことがようやく目に入ったのか、茜空は謝罪をすると深呼吸をし、幾分声を落として説明を続けた。
「耄碌賞というのはですね、数ある新人ミステリ作家に与えられる賞の中でも、最も殺人のトリックの難解さに秀でた作品に与えられるものなんですよ!」
「そ、それはえらい賞なのかね……?」
「えらい賞ですッ!」
褒められているようで光栄である。
が、こうも直接的に褒められると気恥ずかしさの方が勝るものだ。
奇跡的に私は締切までに作品を書き上げることができ、その上たまたま審査員に私の作品を評価するような奇特な面子が揃っていただけである。
しかも、受賞したのはそれほどの賞ではない。トリックという部分に拘りすぎて、他の大部分が疎かになっているで賞とも、いくらでも悪く言える代物だ。
「つまり、助先生が来てくださったということは、事件は解決したも同然! 警察なんて、むしろ邪魔。わたし達は先生の推理の助けになるよう、有る事無い事すべて漏らさずお伝えするだけでいいんです!」
「ほ、本当ですか先生!?」
茜空と執事、二人分の期待に満ちた眼差しが注がれる。
「え……ええ。善処し――」
「もちろん解決しますわ。大層経験豊富なこの、助先生が、直ちに」
令嬢は素知らぬ顔で適当なことを言う。
後始末は自分の領分でないから、と。
私は奥歯を噛み締めながら探偵に戻る。
「……そのためには皆さんの協力が必要不可欠です。……まずは、そうですね。この場にいる皆さんの事件当時の状況について伺っておきたいと思います。俗にアリバイと言いますが、ひとりひとり何をしていたか教えてください」
こほんとわざとらしく咳払いをして、多少強引に情報収集へと話を変えた。
リターヌ嬢に命じられた以上、探偵役でも使えない助手役でも、なんであろうと演じ切らなければならない。
そうでないと、彼女に何をされるかわかったものではないのだ。
本日既に二回も経験した彼女の横暴さを思い出しながら、もうすっかり乾いている服をさすった。
「では最初に……ああ、コックさん。あなたから伺いましょう。他意はありません」
指摘された若いコックはびくりと身体を震わせる。
コックは日本人の平均身長よりも明らかに高身長で、その身を清潔そうな厨房服で包んでいた。
緩くパーマのかかった黒髪。その間から覗いた鋭い一重まぶたの瞳を左右に動かしながら、彼はたどたどしく口を開く。
「ええっと、そうですね。アリバイと言われても何を説明すればいいのやら……。あ、事件の起きた時にどこで何をしていたかということなら話せますよ」
「それで構いません」
私はにっこりと微笑んだ。
上手くできていたはずだ。
「悲鳴が聞こえる直前、俺は厨房にいました。今日はお客さんが来て、いつもより食材の量も品目も豪勢なものにするように聞いていましたから。そのコトについて執事の山岡さんと相談していたんです。そんな時、突然旦那様の部屋から悲鳴が聞こえて、俺は山岡さんと一緒に部屋へ向かいました」
「執事さん、これは事実ですか?」
身体の向きはそのまま、首だけ回して執事を見る。
彼は怯えた表情でおもむろに肯首した。
「ふむ」
顎に手をあて悩む仕草を取った後、振り向いて背後にいたリターヌ嬢に小声で話しかける。
「……これはどういうことかな? コックが犯人という話だったと思うが、完全にアリバイが成立しているように見える」
「短足」
「リターヌ嬢、豊富な語彙がないなら無理に罵倒しなくても良いのだけれど」
「罵倒ではなく事実を言ったまでですわ。後ろから見ると、貴方の胴の長さに対する足の長さの比率が著しく小さいことがよくわかります」
顎に手を当てたまま目を閉じ、怒りの感情を押し殺す。
はたから見れば名探偵らしく深い思考の海に沈んでいるように見えるだろう。
「事情はよくわからないがともかく私が悪かったよ。反省かつ謝罪するから説明をしていただきたいなあ」
「……ふぅ」
リターヌ嬢はやれやれといった表情で溜め息をつき、どこからか取り出した紅茶を飲み始めた。
「魔法は対象を視認していなくても使えますわ。遠隔起動式、時限起動式、いずれも可能です。分かりやすい例を挙げるならばエアコンですわね」
「……その『えあこん』というのはよくわからないが、つまりアリバイの有無は関係ないと」
「そういうことです。この場合、魔法の発動位置に魔法陣が必要になります」
こんなふうな、と言って彼女は手元のソーサーを裏返して、底面をこちらに見せる。
陶器製のソーサーの底面には幾何学的なような、はたまた有機的なような不気味な紋様が刻み込まれえていた。
「これを事前に用意しておけば、労する事なく遠隔で火の玉を発現させることが可能でしょう。問題は魔法使いとしての技量ですが、あのコック、魔力の量だけなら並以上ですから、恐らくこの程度のことは難なくこなせるはずですわ」
「ふうん」
相変わらずリターヌ嬢の言っていることはほとんど理解はできなかったが、大事なのはアリバイの有無が関係ないということだけなはずである。
「あのぉ……俺、何か変なコト言っちゃいましたかね?」
後ろから不安げな声がするので振り返ると、コックが指を交差させながらこちらを眺めていた。
「あ、いえいえ。彼女に今あなたが仰ったことを説明していたのですよ。彼女、本国に来て日が浅くてね。わかったかね、リターヌ嬢。『アリバイ』とは『不在証明』という意味だよ」
リターヌ嬢に睨まれた気がするが、今は気にしない。
何はともあれ情報は手に入ったのだ。
こうして少しずつ情報を集めていけば、それら小さな証拠を組み上げて最もらしく、『コックによる現実的な殺人事件』という形にまとめ上げることができるだろう。
決して魔法を使った超常的な殺人などではなく。
納得できれば、それは小説のように奇なるストーリーでも良いのだ。
アリバイのある人物による遠隔トリック。なるほど、ならば以前から新作執筆のために温めておいた
「さて、コックさん、ありがとうございます。では次に……」
「いい加減にしろ! 茶番はうんざりだ!」
会話に加わらずに部屋の端にいた高級そうなスーツの男性が声を荒げる。
苛立たしげに目を細める顔は五十代後半といった風貌ながら、どことなく奥本青年に似た面影があった。
「探偵だか小説家だか知らないが、勝手に場を仕切って警察の真似事なんかをしやがって! そもそもお前たちだって怪しいもんだろ、兄貴が殺されたと思ったら突然現れて……!」
男性はつばを撒き散らしながら捲し立てる。
わかりやすい嫌悪の言葉の数々の中に、一つだけ気になるものがあった。
兄貴。
なるほど、このスーツの男性は殺された奥本氏の弟ということらしい。
つまり奥本青年の叔父となるわけだ。
「今のところは現場を荒らしてなかったみたいだが、調査とかいうままごとにかこつけて、警察が来る前に何しでかすかわからん」
「ええ、それもごもっともな意見です。ですが、犯人を特定しなければあなたの身にも危険が――」
「それを言うなら犯人なんかと一緒にいる方がよっぽど危険だ! 他の人間など全員信じられん! 俺は部屋に戻らせてもらう!」
翻して、足早にリビングから立ち去ろうとする。
「ま、待ってください!」
それはいけない。
典型的なまずいパターンだ。
昨今のミステリ小説にも、ここまであからさまな行動をする登場人物は出てこない。
奥本叔父は取りつく島もなく、ひとりずんずんと離れていってしまう。私の必死の呼びかけは彼の耳に届いていないようだった。
「愚かですわね」
そこに、風のように澄んだ声による罵倒が響いた。
「……何だと?」
私の言葉は意にも介さなかった奥本叔父が、リターヌ嬢の声に足を止めて振り向く。
「愚かと言ったのです。まさに低俗で無知蒙昧な成金のテンプレート。仕立ての良い服を着ているようですが、それは洋服が高級なだけ。貴方に価値があるわけではありません。そこを勘違いなさっていませんこと? いくら大枚を叩いて外面を取り繕うと、内側から滲み出る愚かさは抑えようが無いですわね」
豚に真珠。
と言い切ると、リターヌ嬢は紅茶をひと口飲んだ。
「だ、黙って聞いておけば好き勝手言いやがって……!」
男は額に青筋を立て、今にもはち切れんばかりに顔を朱に染めている。
「黙って聞いて、とはひと言も言ってませんわ」
売り言葉に買い言葉。
令嬢は空気を読まず人の神経を力いっぱい逆撫でする。
ついに何かが決壊した奥本叔父は、顔から蒸気ガスを噴出させながらこちらへ迫ってきた。
「まあまあ! 落ち着いてください!」
奥本叔父とリターヌ嬢の間に割って入って、接触を全力で押し留める。
一方は握り拳を、一方は(恐らく)秘術の力を、今にも放たんと構えている。
触れ合った瞬間どんな被害が起こるか想像もつかないデーモン・コアのような危険物だ。
「……貴方たちは本当に人の話を聞きませんわね。これがこの屋敷のしきたりですの?」
心底呆れているという表情で、彼女はリビングにいる全員を見下す。
「私は言ったはずです。この助先生が、事件を
直ちにとは誇張ではありませんわ、と令嬢は続けた。
「おいおい! リターヌ嬢待ちたまえ! 確かに解決させるとは言ったが――」
「さあ殺人現場に向かいましょう。その場で即座に密室のトリックを解明し、犯人を当ててみせますわ。この助先生が」
私の言葉はよく遮られる。
それも主に、重要で、心からやめて欲しいと願ったタイミングで。
今日はこれで四回目だった。
$$$$$
殺人現場、つまり奥本氏の書斎は未だに焦げ臭い香りが残っていた。
それも当然である。
現場保存の観点から、彼の遺体は事件当時のまま部屋の中心にある椅子に座らされている状態なのだから。
焼け焦げて、真っ黒な炭のようになっている成人男性の肉体。顔も判別できないほどに損壊しているそれは、この部屋の中で格別大きな存在感を放っていた。
部屋に入ったところで、私の後ろについてきている面々を振り返る。
その中のひとり、最も不安そうで青白い顔をした人物に焦点を合わせた。
「奥本青年。……きみは、部屋に入らないことをお勧めする」
奥本青年も既に遺体は確認しているが、いくら見ても人間の焼死体など見慣れるものではない。
特に、彼にとってこの死体は父親の死体なのだ。
無理に書斎に足を踏み入れる必要は無いと思った。
「……いえ、僕も。僕も入ります」
そう言って入室したものの、部屋の中心にある惨劇をひと目見た瞬間、奥本青年は口元を強く抑えた。反対の壁の方を向いて、何度も嗚咽を漏らす。
続々と書斎に入室し、書斎に六人全員が集う。
リビングほどではないにしろ書斎もかなりの広さで、全員が余裕を持って立ち並ぶことができた。
ほぼ長方形の構造をした部屋の長辺の一つが巨大な書棚になっており、本の大きさ別に隙間なく埋めつくされている。
ドアがあるのは長方形短辺で、反対側には嵌め殺しの窓。
残った最後の面は、英国風な暖炉が設置されていた。
当然既に暖炉の火は消されているため、書斎は灯油ストーブのあったリビングに比べてひんやりとしていた。
「探偵さん、あんたの言った通り殺人現場に来た。ほら
奥本叔父が湿度の高い声をあげる。
彼は奥本青年と違って、兄の焼死体を見ても思うところが無いのか平然としていた。
飛び入りのため奥本家の事情は知らないが、少なくとも当主である奥本氏と奥本叔父の仲は良くはなかったようだ。
「ええ、そうですね。ところで、『直ちに』とは具体的には何分でしょうか? 私の感覚だと三十分ほどなのですが」
「俺の感覚では五分だ」
我々は随分と奥本叔父の機嫌を損ねてしまったようだ。
五分。
怒れる奥本叔父を見ると、腕時計を凝視しながら苛立たしげに足で床を鳴らしている。この時間を超過しようものならば、殴りかかってきそうな雰囲気だ。
できるわけがない。
周囲に聞こえないように口の中だけで呟く。
つまり五分の間に現場を調査し、そこからコックによる犯行であるという立証を行わなければならないということである。
でっちあげるとはいえ、いい加減な推理を披露していいわけではない。短時間で、少なくともこの場にいる全員が納得できる論理を組み立てなければならないのだ。
小説を一作書き上げるのにすら膨大な時間を費やす私に、できるわけがない。
「そんな助々に二つ、良いことを教えてあげましょう」
音もなく私の背後に立っていたリターヌ嬢が、耳元で囁く。
視野の限界二百度ぎりぎりの位置を横目で見ると、彼女の髪が私の肩に掛かっていた。リターヌ嬢は気にせずさらに距離を詰める。
顔が熱くなるのを感じた。
この女、見目だけは麗しいのだ。
「……リターヌ嬢。きみ、今日は嫌に協力的じゃないか」
「今回は特別ですわ。この事件の解決の先には、私としても得る物が多そうですから」
うち一つは、異邦人であるコックから得られる情報。
さらに一つは、奥本青年からの成果報酬だと思う。
が、こんな事態になってしまった上で報酬金は貰えるのだろうか。
無理ではないだろうか。
そんなぼんやりとした思考の直後、耳にかかる吐息のせいか、それとも以前の犯人ばらしの経験からか、ぞわりとした悪寒が走り全身に鳥肌が立った。
「一つ。貴方が時間を浪費している間に椅子を調べましたわ。私の予想通り、あの椅子の座面の裏に魔法陣の痕跡がありました」
直感した。
後者だ。
「つまり事件の真相は『椅子の下から出現した火の玉に焼かれて死亡』。ですわ」
「……」
そんな真相のミステリがあって堪るか。
顔も知らぬノックス大先生が塵となって消えていくのが見えた。
「椅子の大部分も焼け焦げていたせいで
「ふうん。まあ、その情報はどうでもいいかな。『りもこん』だか何だかよくわからないが、わかったところで私の論理的で現実的な推理の役に立つとは思えない」
かのシャーロック・ホームズ氏に憧れ、純粋論理の帰結を事件解決の糸口としたい私にとって、この状況は嘆かわしい限りだ。
魔力とかいう不可思議なエネルギィも魔法陣も、ミステリにあってはならない。
けれど一方で、リターヌ嬢の異常な能力がなければ、魔法を使う殺人犯など司法の手から簡単に逃げおおせてしまうことも事実。
警察が事件現場を調べ、被害者の座っていた椅子から不思議な紋様が見つかったとしても、単純に珍しい意匠と判断されて終わりだからだ。
「二つ目。あのコックから再び魔力の匂いが強くなってきましたわ。……助々、貴方があからさまにコックばかり疑うからでしょう。場合によっては、魔法を行使されて事件の目撃者全員焼殺なんて事態も起こり得ますわね」
「そ、それは穏やかでは無いな」
無意識にコックへと視線がいきそうになるのを理性で抑えた。
「まあ、その時は私がなんとかしますわ。ひとまず――」
――貴方は探偵役を演じ切ってみせなさい。
そう言って彼女は、私の足をつま先で小突いた。
「くっ……」
他人事だと思って気楽な。
リターヌ嬢へ向かってこれ見よがしに舌打ちをしようと思ったが、その時間が惜しかった。
すでに残されている時間は三分と無いだろう。
私はすぐさま転身して、現場検分に移る。
まずは遺体周辺。
黒焦げの遺体。
魔法で殺害されているということ以外、異様な点は無い(実際、そこが何よりも異様ではあるのだが)。
生きたまま焼かれるという地獄の拷問に等しい所業を受けたのだ。座りながら手を前後左右に伸ばし、必死に生きようと苦しみ藻掻いた姿勢ではあるが、椅子含め目立った外傷も簡単には見つからなかった。
それよりも目に付いたのは、椅子のそばに倒れているサイドテーブルである。
恐らく奥本氏が絶命する際、腕を伸ばした際に触れて倒れたのだろう。
テーブルの上に載っていたであろうティーポットとティーカップが、粉々になって同じく椅子のそばに散乱している。
「執事さん、このティーセットは?」
焦っているせいか言葉少なに、幾分早口で語ってしまったことに気付いた。
「このティーセットは習慣的に使っているものですか? 誰が用意しています?」
矢継ぎ早に尋ねて、答えを聞く前に遺体から離れる。
次に暖炉を調査することにした。
「え、ええ、毎日必ず、食後に紅茶をお出ししています。紅茶を作るのは厨房で料理人が、書斎に運ぶのは常に私が担当しています」
「その役割分担はいつからですか?」
「え、ええっと……」
質問に質問を重ねる私に対して、執事は困ったように口ごもる。
あ、と奥本青年が声をあげて助け船を出した。
「だいたい半年くらい前ですね。叔父さんが連れてきた今のコックを雇うことになったのが夏頃なので。それより前は山岡さんが紅茶も作っていたんです」
「なるほど」
耳では話を聞き、意識は既に別の場所に向かっていた。
特筆すべきところのない暖炉。
壁に埋め込む形で設置されており、薪の燃える炉の部分には金属製の柵が立っている。柵の目は狭く、人はおろか猫など小型の動物も侵入は不可能だろう。
目についたのは暖炉と高低差無く続くタイル張りの床だった。
滑らかな石材で作られており、この書斎全域を余すことなく覆っている。
この屋敷は日本には珍しく靴を履いたまま住居の中を移動する形式であるため気にならないが、カーペットのないこの床をもし素足で歩く場合、冬場は相当な冷えに苦しむことになるはずだ。
「あと一分」
奥本叔父の声が部屋に反響する。
視線を送る気にもならないが、彼はきっと自身の高級腕時計を見ながら憮然とした態度で残り時間を読み上げているだろうと確信していた。
そこはかとなく感情がささくれ立つのを感じてきた。
こんな状況でなければ皮肉のひとつでも飛ばしたいところである。
「執事さん、主人の奥本氏は毎日この部屋で何をなさっていたんですか? この書棚の本で読書ですか? それとも紅茶を飲みながら思索に耽っていたのですか? その時、鍵は施錠していましたか?」
情報収集のため、さらに質問を連射。
流石に慣れたのか執事からすぐさま回答が返ってきた。
「鍵は、私が紅茶を運び終わって出て行った後すぐ、内側から……。勝比古様は食後、この部屋で紅茶を飲みながらラジオを聴くのを気に入っておいででした」
彼が言葉と共に入口近くの機械を指差す。
そこにあったのは、木目の美しい真空管ラジオだった。
突如、私の頭の中に電流が走った。
もちろん比喩である。
「時間切れだ、探偵さん」
奥本叔父が相変わらずねっとりとした口調で告げる。
姿を見ると、面白いくらい予想通りに高級時計をまじまじと見つめていた。
「計時役ありがとうございます、奥本さん。貴方にしかできない仕事でしたね」
「……ふん、こんだけ待ってやったんだ。とっとと事件を解決してみせろよ。それともあんだけ大口叩いておきながら今更無理とか言わないよな」
「ええ、言いません。謎はすべて解けました。犯人も判明しています」
ぽかんとした奥本叔父の顔。
滑稽である。
あまりにも簡単な謎の解明と犯人特定宣言に、誰もが声を失っている。
この顔を見ることが出来ただけでも、限られた時間の中必死に捜査した価値があると言えるかもしれない。
「ふん」
リターヌ嬢が鼻を鳴らす。
「では、少々古典的ではありますが、伝統に則りこの事件の解体といきましょう」
ゆったりとした口調で話し、これから説明するトリックの整合性を整える。
これを怠ってはいけない。
通常の事件ならば、起こったことをそのまま説明するだけで確実に整合性は保たれている。整合性がなければ現実的に起こることはないのだから、当然だ。
だが、これから私が説明する事件の全貌はすべて虚偽であり、創作である。
なぜなら、奥本氏の死の真相は『椅子の下から出現した火の玉に焼かれて死亡』だからだ。
犯人はそこのコックである。
しかしそれではこの場にいる誰も納得しない。魔法による殺害などという非現実的な真相は誰も求めていない。
「今回の事件は、非常に技巧に凝らされた、しかしある意味非常に地に足のついたトリックでした」
部屋の中央。
奥本氏の遺体のそばに立つ。
「確かに一部、専門的な知識がなければわかりづらい箇所もあるかもしれませんが、基本はすべて科学的で論理的。実証可能な事実に基づいて構成された殺人事件です」
「――では、始めましょう」
私は精一杯仰々しく、茶番の開始を告げた。
そして今から、江戸川乱歩もコナン・ドイルも卒倒するような推理をする。
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