第2話 事件ですわ②


「もうおわかりでしょう」

 私は人差し指を立てる。

 柔らかな長毛の絨毯の上をゆったりと歩き、端から順に立ち並ぶ容疑者の顔をにらみつけた。

「革靴の紐。車のエンジン。円周率。この三つを用いたトリックで被害者の命を奪った人物は――」


 一度目を瞑ってからパッと目を見開き、人差し指でシルクハットの男を示す。

「――貴方だ」

 男は驚愕の表情を浮かべたが、すぐさまもとの余裕のある表情に戻る。

「ほう、面白い推理ですな」

 男は口元に生やした自慢の髭をさすっている。

「ですが、申し訳ございません。言ってはいませんでしたかな? 私にはその時間、丁度ディナーを食べていて、それを何人にも目撃されているのです」

 いやな汗が、首筋をつたった。

 つまり、と男はつなげる。

「そのトリックを使っても、私には犯行は不可能なわけです」

「そ、そんなはずは……!」

 動揺などしてはいけない場面なのに、勝手に言葉が口をついた。


 ――さい。

「いやはや、革靴の紐に車のエンジンに円周率。まったく関係性のないような三つの要素を見事につなげて、事件を実に面白く飾り立ててくださった。まるで本に読む名探偵だ……! 皆さんもそうは思いませんか?」

 男は笑いながら周りの容疑者たちに語りかける。

 どこからか、くすくすといった笑い声が聞こえた。

 ――なさい。

「助探偵、感動しましたよ。探偵などやめて小説家になってはいかがです?」



 ――起きなさい、助々!

「……ッ!」

 突如、外部からの刺激を受けて意識が覚醒する。

 目の前にはリターヌ嬢の膨れ面。

 辺りを見渡すとそこは駅前のベンチであった。つまり事務所の中ではない。

「ここは……」

 目の前にはロータリー。出迎えの車やタクシーやらが何台か停車している。

 微睡みが溶けだして、徐々に記憶がはっきりとしてきた。

「……嗚呼、依頼人の元へ行く途中だったかな?」

「その年でもう痴呆ですの? 依頼人の家の前に病院へ連れて行ってあげた方がよろしいかしら?」

 彼女は如何にも可哀想という目で私を見ながら、手に持ったソーサー付きのティーカップを傾ける。


「……ん」

 ふと、自分の顔から滴り落ちる水に気が付いた。

 そう言えば目が覚める瞬間、何か顔に当たったような。

「……なっ!?」

 顔に手をやると、びっしょりと濡れている。

 とてもではないが、寝汗で済ませられる量の水ではない。こんな量の水分が一度に顔から噴出したら脱水症状を起こして死んでしまうだろう。

「まさか、リターヌ嬢! アレ、、を使ったのか……!?」 

 水が首元を伝って段々と上半身を濡らしていくのを感じながら、彼女の方に目をやる。

 私の顔に水をかけたであろう犯人は知らん顔で、優雅に紅茶を飲んでいた。

「覚えていたまえ……」


 まだ濡れていない下半身から取り出したハンカチで顔と首元を拭う。

 最悪の寝覚めだ。

 どうしてか夢見まで最悪だった気がする。

 昔の嫌な思い出を再現したような、酷く気分の落ち込む内容だったような。

「助探偵、か……」

「何を湿ったらしく過去に浸っているんですの? 湿っているのは身体だけにしてくださいません? それに貴方は助探偵でしょう。今現在はリターヌ・ラ・カイゼリアの助手なのですから」

 リターヌ嬢は私の言うこと、為すことすべてに突っかかってくる。

「わかっているとも、リターヌ嬢。今は間違いなく君が事務所の主だ。……ところで、そんなことよりも重要なことがるだろう。さて、なぜ私は叩き起こされたのかな?」

 溜め息交じりに答えると、リターヌ嬢は無言で目の前に停車しているタクシーを指さす。

「あれはタクシーだが」

「知ってますわ」

「私たちが乗るために止めたんだろう?」

「そうですわ」

「なら早く乗るといい」

「……」

 少し不安そうな表情をしていたリターヌ嬢はキッと私を睨みつける。

「な、なんだね」

 彼女は急にしおらしくなり、もじもじと手を膝の上で忙しなく動かしていた。

「……の、乗り方」

「は?」

「だ、誰でもタクシーの乗り方がわかるなんて思い上がらないで頂きたいですわ!!」

 語彙を荒げて突き放すように言うと、リターヌ嬢はそっぽを向いてしまう。

 私としてもわけがわからず、しどろもどろに言葉を返すことになった。

「そ、それはそうだろう。私も日本国民すべての人がタクシーの乗り方がわかるとは思ってないさ。未だタクシーを見たことが無い人だって東京から遠く離れた田舎の方にはいるだろうし……」

 自分でわけのわからないことを言っていると思いながら、はたと気付く。

 非常に迂遠な言い方で即座に理解できなかったが、もしかすると。

 彼女は、タクシーの乗り方を知らない、、、、、、、、、、、、、のではないか?


 考えてみれば、彼女がタクシーにもとい車に乗っているところなど見たことが無い。そもそも彼女の生活範囲は事務所近辺の土地だけで、町の外に出たのも今回が初めての可能性すらある。

 未来やら魔法やら全知全能だか(たぶん言っていた)を嘯きながらも、まさかこんな一般的なことを知らないとは。


「へへ」

 リターヌ嬢の弱点、見たり。

 未来人だの魔女だの恐れられる彼女も、こうなればかたなしである。

「何を気味の悪い鳴き声をあげているんですの……?」

「なんでもないとも! いや、悪かったね! さて、それでは貴君のためにエスコートしようじゃないか、ほら立って」

「……バグった猿のおもちゃみたいに突然元気になって不気味ですわね」

「バグ……なんだって? 虫のことはよくわからないが、まあすべて私に任せなさい。こう見えても、タクシーは慣れたものでね。まずは、きみ、リターヌ嬢、靴を脱ぎたまえよ」

「は? 靴?」

「そうとも、それは最低限、、、のマナーだよ」

「助々、貴方は?」

「私はきみを乗せた後に脱ぐとも」

 タクシーに近付くと、自動で後部座席の扉が開いた。

 リターヌ嬢はその挙動にびくりを肩を震わせる。

 普段見ない緊張した面持ちの彼女を眺めていると、どうしても口元が緩んでいくことを抑えられない。


「失礼しますわ」

 私の言葉に従うがままのリターヌ嬢が脱いだ靴を抱えたまま、座席に乗り込んだ。

「おや、金髪のおねえさん。靴は脱がんでもいいんですよ」

 タクシーの運転手がバックミラーを覗きながら、そう呟く。

 リターヌ嬢のきょとんとした顔。

 その瞬間、私はどうしようもなく吹き出してしまった。

 笑いは数秒間止まらず、タクシーの扉に寄りかかりながら立っているのがやっとなほどだった。

 まさか、こんな早く『彼女が水を掛けてきたこと』に対する報復を行えるとは!

「んふふ! んはっはっは! ふふ……くっ……! はは……ご、ゴホッ!! かはッ……! ゴホッ! ゴホッ!!」


 笑い過ぎて気管に口内の水分が入った。

 そう思っていた。

「……ゴホッ! ゴホッ!!」

 喉の違和感は一向に収まる気配が無い。

 それどころか、秒単位で、膨れ上がるように違和感が増大していく。

「まさ……か、ゴホッ!!」

 強く咳き込むと、口の中から透明な水が湯呑みを溢した時のように溢れる。

 水の量は明らかに普通ではない。

 その上、水の動きや増減が意志を持って動いているかのような感覚があった。

 この超常的な現象には当然、心当たりがある。

 

 呼吸も満足にできないような状態ながらも、なんとかタクシー内のリターヌ嬢に視線を向ける。

 彼女は口を一文字に結んだまま、据わった目でこちらも見ていた。

「ゴホッ!! り、リターヌ、止めた……まえ!!」

「あら、喋れるのでしたら、まず言うべきことがあるのではなくて?」

 彼女がそう告げると、喉の奥から湧き出す水が一層勢いを増す。

 すでに息を吸うことはできなかった。

 肺に残った空気で決死の思いで望まれているであろう言葉を吐き出す。

「バベぼ、びび……ガハッ……!! わ、わ、ゴボッ…すまな、かった……!」

「よくできました」


 ぴたり、と。

 壊れた蛇口のごとく私の口から溢れ出ていた水が停止する。

 すっきりとした喉で思い切り息を吸った。

「……っはぁ!」

「猛省なさい」

 リターヌ嬢はすでに視線をタクシーの進行方向へ戻し、車内だというのに優雅に紅茶を飲んでいた。

「……っぐ、はぁ、はぁ。……リターヌ嬢、私の記憶が正しければ、よっぽどのことでもない限り、魔法、、は使わないのでは無かったかね?」

 未来人。魔女。

 彼女の特性としてあげられるこれらは、日常生活では滅多に発現することは無い。やれタイムパラドックスやら、魔法の神秘性が失われるだのと言葉を重ねて、普段は秘するべき事柄らしいのだった。

 その魔法を使ったのだ。この短期間で二度も。


「私が軽んじられた、、、、、、のですわ。これは人類滅亡に匹敵する一大事でしょう」

「……」

 恐ろしく自分勝手な物言いである。

 つまり、この超能力を使うかどうかは彼女の気分次第ということだ。

「こら、助々。何を間の抜けた顔で突っ立ていらっしゃるの? 早くタクシーに乗りなさい。この私にご高説を垂れたほどなのだから、当然乗り方はわかるのでしょう?」



$$$$$



 車は街並みを抜け、段々と人気の無さそうな山道へと突き進んでいく。

 その人気の無さは道路にも反映されており、ここに来て路面の状態も酷くなっていた。

 かれこれ三時間近く。手持ち無沙汰な私はがたがたと揺れる車内から、濃くなっていく雑木林を眺めていた。

「……リターヌ嬢、ひとつ質問いいかね?」

「……」

 令嬢はむすりとして、口を開く気配がない。

「先ほどのことはすまなかったと謝ったろう」

「私、嘘を吐く人間が嫌いですの」

「……」

 私も突然顔面に水をかけてくる人間が嫌いだ。

 しかも、こんな真冬に。

「そして、貴方は嘘を吐いた。このことから導き出される論理的帰結は何かわかります?」

「きみは私のことが嫌い」

「良くできました。流石名探偵の『助手』ですわね」

「お褒めの言葉を預かり光栄だよ」

 これ以上言葉を重ねても質問には答えてもらえないばかりか、罵詈雑言ばかりが返ってきそうだったため、話しかけるのはやめにした。

 道も平坦な箇所に差し掛かり、しばらくは水を打ったように静かだったが、彼女が唐突に失礼な口を開いた。


「……匂いますわね」

「私じゃないぞ」

「助々、貴方の頭蓋には本当に脳みそが詰まっているんですの? ここまで来て、私がそんなことを話すとお思い?」

「……じゃあ、何が匂うんだね」

 面倒な事態になることを避けるため、過剰な罵倒は気にせずに会話を続ける。


「魔力の匂いですわ」

 唐突に意味不明なことを言い出す。

 もちろん、いつものことではある。

「私には一切感じられないが」

「凡人の貴方には百年かかっても認識することなどできませんでしょうが、目的地に近づくに従って、魔力の気配は強くなっていますわ」

 車内だというのに、相変わらずティーカップの紅茶を飲みながら、やけに落ち着いた口調でそう告げた。


 魔力だか魔法だか、よくわからない未知の存在に近づいているというのに、リターヌ嬢の態度は変わらない。

 思えば、あの宙に浮かぶ火の玉、、、を見た時ですら彼女はほとんど平静を崩さなかった。ともすれば、彼女にとっては魔法は自然なものなのかもしれない。本来であれば、電車やタクシーなどよりもずっと。


「ところでリターヌ嬢、あの火の玉についてだが」

「……」

 目線も合わせずに紅茶を啜る。

「……あれもきみの言う、そのぉ、魔法ということで解釈していいのだろうね?」」

「足りない脳みそでよくできました。その通りでしてよ」

「なるほど。ではきみが水を操るように、誰か君以外の人物も同じように魔法を使ってあの火の玉を操っている、という理解で話を進めるよ」

「大筋に異論はありませんわ」

「となると、気になってくるのは火の玉を操っている理由だが――」

 顎に手を当てて、依頼内容を振り返る。

 奥本青年が火の玉と共に語った内容を思い返そうとした。


「お二人さん。まさか、奥本家の火の玉事件を調べに来たんですかい?」

 見知らぬ声がして、意識が現実に戻る。

 タクシーの運転手である男性が、バックミラー越しに目線を送りながら話しかけてきていた。

「……えぇ、えぇ。実はそうなんですよ。奥本家のご子息に依頼を受けましてね。なんでも火の玉が人を襲うことの原因を解決してほしい、と。あ、その『火の玉事件』とはこの辺りではかなり知られている話なんですか?」

 少し逡巡して、私は事情をすっかり打ち明けることにした。

 話したからと言って、どうとなるわけでもない。

「そうですなあ。奥本の家はここらじゃ有名ですから。良い噂も悪い噂も立ち所に広まっちまうんですわ」


 運転手は堰を切ったように言葉をつづけた。

「数年前ふらっと引っ越してきたと思ったら、大層な大金持ちだっていうのにこんな田舎に立派な邸宅をこさえてなあ。その上、家人は不気味なくらい滅多に家から出てこない。根性比べとかで近寄った子どもの話じゃ、中からお経のような呪文のような怪しげな歌が聞こえてきただとか。町のみんなは魔女信仰だの悪魔崇拝だのさぞ怖がっております」

「ほう」

 顎を摩りながら、男の話を咀嚼する。

 隣のリターヌ嬢は相変わらず聞いているのか聞いていないのか良くわからない。

「どうだね、リターヌ嬢? 私は今の話を大変興味深いと思ったのだけど。実は私も似たような嫌われ者の奇人に心当たりがあって――ネェ!!!」

 最後まで言い切る前に、彼女の踵に思い切り足を踏まれる。

 悶絶している私を尻目に、運転手の男は独白のように、奥本家に起こった出来事を告げた。


「ついひと月前くらいですかねえ。ある日の晩、邸宅の庭先にぼうっと火の玉が浮かび上がったそうなんですな。それも一つや二つじゃなく、二〇は超えていたそうです。

 ひとつひとつがまるで意志を持った生き物みたいにゆらゆら揺らめいて、庭から家に向かって飛んでくる。けど、近づいてくるのもなめくじみたいにゆっくりだし、丸々と紅く輝いていて、印象としては不思議と怖いとかではなくて、むしろ愛嬌を感じたみたいですな」


「だからかは知らんのですけど、女中のひとりがその火の玉にそっと手を触れたらしいんです。すると火の玉は本性を表すわけです。途端に炎が全身に燃え広がって、女の身体を包み込んでしまった。熱かったろうなあ。痛みに叫び声を上げながら燃え続けて、しばらくしたらその女中は炭みたいに真っ黒焦げになってしまったんだと」


「そんで恐ろしくなって、それを見ていた人はみんな散り散りになって火の玉から逃げた。幸い遅いから、その後は誰も追いつかれて燃えるようなことはなかったけど、なにぶん数が数なんで庭の木や縁側の置物だかは全部燃えちまったらしいです」


「はぁ、なるほど」

 我ながらきの無い返事をする。

 運転手が語った話は、依頼の折に奥本青年から聞かされた内容とほぼ合致していた。

 異なる部分は一点。

 奥本青年が納屋から金属容器を持ってきて、蛮勇にもその火の玉を捕獲したという点だけだ。

 なめくじの如くゆっくりとは言え、目の前で人間がひとり焼け死んでいるのを見た上でそんな行動が取れるとは。

 直感的に奥本青年は自信なさげで気弱な人格であると感じていたが、人は見かけによらない。


「それにしても貴方、お詳しいですわね」

 突然隣から声が聞こえて驚く。

 誰かと思ったら、当然リターヌ嬢であったわけだが、彼女が他人に対して自ら話しかけることなんか滅多に無い。

「まるで目の前でその様子を見ていたかのようですわ」

「はは、鋭い。実は私の娘がその屋敷に奉公に出ていましてな。まさに目の前で見ていたのですわ。もちろん、焼け死んでしまった女中では無いですよ。私の娘は生きてます。あれ以来屋敷で働くのを怖がって、顔を合わせるたび辞めたい辞めたいって、少し可哀想ではあるんですがね」

「……」

 相槌も打たずにリターヌ嬢はソーサーの上からカップを持ち上げ、紅茶を飲む。

 もう興味は無いという意思表示のようだった。


「ちなみに運転手さん、あなたは奥本家に火の玉が現れた理由はなんだと思いますか?」

 運転手は少し唸った後、そうですなあと独りごちた。

「村の噂では金銭関係の脅しだって聞いてますがね。でも火の玉が金の徴収に来るなんて馬鹿げてますわな。死んで化けて出てきた火の玉に、札束なんて無用でしょうに」

 ああ、薪の代わりにはなるかもしれませんな、と言って運転手はひとり笑う。


「おっと、危ない危ない。通り過ぎるところだった」

 ブレーキを踏んだことで急激に速度が減少して、私は少し前のめりになる。期待してリターヌ嬢の手元に視線を送ったが、驚異のバランス感覚で紅茶は一滴もこぼれていなかった。

「着きましたよ。奥本さんの邸宅です」

 後部座席の扉が開かれる。

 外に出ると暖かかった車内とは反対に、肌を刺すような厳しい寒さが襲った。

 前金として奥本青年から受け取っていた潤沢な資金からタクシー代を支払い、運転席の男に礼を言う。


「ん? お客さん、あれ、もしかして」

 急に運転手の表情が曇った。

「え、な、なんでしょう?」

 おかしな言動をしてしまったかと不安になる。

 挙動不審気味にきょろきょろと頭を回していると、リターヌ嬢は知らん顔で奥本邸へと歩き始めていた。

「……ああ! ああ、やっぱりそうだ! 思い出した。お客さん、助透すけとおる先生でしょう!! あの、探偵小説家の」

 う。

「あ、はい。そうですが……」

「雑誌で見たことがありますよ! なんだかえらい賞を取っただとか。娘が大層なふぁん、、、なんです! ぜひサイン貰えませんかね」

「ああ、まあ、そういうことなら……」

 運転手からくしゃくしゃの手帳を受け取って、サインペンでなんとなく達筆に見える行書体のような雰囲気の乱れた字を書く。これでいいだろうか。

 手帳を返すときになって、ページの左上に小さく描かれた情けない筆跡に恥ずかしくなった。

 助透。

 もう少し大きく書けば良かった。


「助々! 何をしているんです。早く来なさい」

 振り向くと、彼女は既に奥本邸の玄関へと繋がる庭先を歩いていた。

 手にはティーカップとソーサー。他には何も持っていない。

 滑稽にも見える異様な出立だった。

「すぐ行くとも」

 大きい声を出すのは憚れたため、口の中でもごもごと答えた。

「となると助先生、今回の奥本邸への来訪はもしかして新作の取材ですかね」

「え、ええ。まあそんなところです。では、先を急ぎますので」

 会話を打ち切って、足早に玄関へと向かう。

 自分の作品を褒める人間に直接会うのは珍しいことだ。

 出来ればもう少し悦に浸っていたかったが、調子に乗り過ぎると後から思い出したとき自分の行いに悶絶する可能性もある。このくらいさっぱりしたファンとの交流で丁度良かったのかもしれない。


「おお……」

 正面から見た奥本邸は圧巻の大きさだった。

 木造二階建てでバンガローのようにも見える意匠だ。巨大さのせいか遠近感覚が狂って奥行きはわからないが、恐らく私の事務所が十個は収納できるだろう。


 建物の雄大さに耽っていると突然、胸の内に奇妙な感覚が湧き起こる。

 豪奢で巨大な邸宅と、貧相で矮小な自分。

 つまり自分の存在が場違いに思えてどうしようもなく不安になってきていた。

 服を触る。

 なんでもない普通のコート。中に着ているのはシャツとセータで、下にはシンプルなデザインのスラックス。

 特にセータはいくつかある中でも、最も毛玉の少ないものを選んできたが、はたから見てみすぼらしく見えはしないだろうか。

 ふと考えれば、奥本青年しかこの家の住人のことを知らないのだ。

 この屋敷に暮らす金持ち家族だ。

 彼は若者らしい簡単な服装をしていたが、もし中に入った途端如何にも成金という風貌の高級スーツの油ぎった男が出てきたら、どうすればよいだろう。


 ふらふらと危うい足取りで、玄関までたどり着く。

 すると玄関前には如何にも成金でございという煌びやかな洋装ドレスを着た金髪碧眼の令嬢が立っていたため、あらゆる不安は吹き飛んだ。

「助々、臭いですわ」

「……魔力の匂いと言うやつだろう? さらに強くなったと言うことかな」

 もう騙されない。

「ええ、事前に聞いていた火の玉の話から、火属性魔力の残り香がするとは予想していましたが、これは予想以上ですわね」

「予想以上?」

「屋敷に近付くにつれて、明らかに強くなっています。今まさに魔法を行使せんとするほどの強さですわ」


「ふうん」

 リターヌ嬢の言っていることが理解できないのはいつものことである。

「じゃあ、まさにこれから無数の火の玉が宙を舞う、と」

 玄関前に二人並び立つ。

 扉のわきにある呼び鈴を鳴らした。

「そんな摩訶不思議なことが本当に起こるとは思えないがね」

 それが事実なら大事件である。

 運転手の語った話の通りのことが起きるのなら、火の玉が湧き、人を襲って燃やす。

 また人が死ぬ。


「あ……」

 出し抜けにリターヌ嬢が声を漏らす。

「なんだね、間の抜けた声を出し――」


 耳を劈く断末魔。

 聞き苦しいほどに、苦痛の色を含んだ濁った声。

 屋敷の中からである。

 玄関の扉を通してなお、確実にそれが聞こえた。


「助々!!」

 リターヌ嬢が叫ぶ。

「ああ! わかっているとも!!」

 心の中で、御免と唱えて強引にドアを押す。

 幸いにも鍵はかかっていなかった。


「失礼、誰かいませんか!!」

 玄関を抜けるとそこはリビングと呼べる空間だった。

 革張りのソファや曲線的なデザインの家具が整然と並べられている。

 そのソファのそばに、奥本青年が呆然と立ち尽くしていた。

「あ……探偵さん……」

 こちらに気が付き、か細い声で呟く。

 心ここにあらずといった様子で、ふらふらと立つのもやっとなほどだった。

「おい! 奥本青年、さっきの声は……!?」

「え……えっと……」

 青年の肩を掴んでゆすってみたが、彼の意識はまだ遠いところにあるようだ。


「助々、あちらですわ」

 リターヌ嬢が奥の通路を指差す。

 なぜか通路の前には人だかりができていた。人々の服装は様々である。

 執事のような燕尾服。

 コックのような厨房服。

 女中と思わしきメイド服。

 高級そうなスーツの男性。


「失礼」

 その人だかりに割って入りながら、通路の奥にある部屋の前に立つ。

 誰も言葉では何も言わないが、疑念と好奇心の混ざった視線を私とリターヌ嬢に向けていた。

「先ほどの悲鳴はこの部屋からしたのですね?」

「そ、そうですがあなた方は?」

 執事(のような男性)が突然の闖入者に対してこわごわ声をかける。

「五月蠅い。まずは開けなさい」

 リターヌ嬢が質問をぴしゃりと跳ね除け、逆に執事に対して命令をした。

 こういう時、話が通じない性格は非常に有用である。


「貴方もあの声を聞いたのでしょう? 常日頃から悲鳴の飛び交う家庭というなら、最悪の家庭ですが、まあそれまででしょう。しかし、この人だかりに奥本青年の放心状態。つまり異常事態ですわね?」

 執事の顔は青ざめ、手足は震えている。

 他の面々も様子は似たり寄ったり。

 原因が玄関前で聞いた悲鳴にあることは明白だ。

「ならば何はともあれ、疾く現状把握の必要があります」

 開けなさい。と、リターヌ嬢は重ねて命じた。


「し、しかし旦那様の部屋には鍵が……」

「私の言葉が理解できませんか? 先ほどから『開けなさい』と言っているでしょう」

「は、はい……!」

 執事は気圧されるままに、震える手で鍵束を取り出し、その中からひとつを選び取る。

 だが震える指先では、鍵の先は一向に鍵穴に収まらない。

 数秒でしびれを切らしたリターヌ嬢が鍵束ごと奪い取り、自分で鍵穴に差し込んでがちゃりと鍵を回した。


 開いた扉。

 まず最初に飛び込んできたのは、視覚情報ではなく嗅覚へと強烈に訴えかけてくる異臭だった。

 何かが焼けたような、焦げ臭い匂い。

 部屋の中の様子が確認でき、その異臭が当然であることがわかった。

 書斎らしき空間の中央には、椅子に座ったまま黒く炭化した人型の塊。

 つまり、焼死体。

 素人目にも、部屋の主の生存は絶望的だった。


「……助々」

 誰もが呆然として静まり返る中、隣にいたリターヌ嬢はこちらに擦り寄り、囁きかけてくる。

「な、なんだね?」

 いつになくしおらしい態度。

 なんだか酷く嫌な予感がした。

「まず最初に言っておかなければならないことがひとつ、、、あります」

 近くにいる他の人間には聞こえないように、これでもかというほど近くに寄ってそのうえ片手で口元を覆うようにしている。

 こんな状況であるのに、リターヌ嬢の香りと体温が伝わってきてそわそわとしてしまう。


「なんだ、かしこまって……」

 心臓がどきりと高鳴る。

 しかしそれは興奮による高鳴りではなく、不安と恐怖による動悸だった。

 すべてを台無しにしてしまいそうな予感。

「私の眼が魔力の出処を捉えましたわ」

 予想は的中し、不安感は限界を突破した。

「魔力の出処?」

 駄目だ。それは駄目だ。

 規則に反する。

 やめてくれ。

「ま、待ちたまえ、リターヌ嬢!!!」


「犯人はあのコックですわ」

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