🔳6話

 今日、俺はいつもと違い高校の開門に合わせて登校した。

 朝練のある部活連中以外なら一番早いだろう。朝練組は出払っているので教室には誰もいない。それを確認してから俺は都子の机の中に一切れのメモ用紙を入れた。

 これで朝のミッションはクリアだ。

 それからしばらく時間を潰していると続々とクラスメイトたちが登校してくる。教室がいつもの賑わいを見せる中、朝のショートホームルームが始まる十分前くらいに都子は姿を現した。欠席の可能性も考えていたのだがそうはならなくてとりあえず一安心だ。

 俺は寝たふりで机に突っ伏しながら都子の後ろ姿を窺っていた。

 席に着いた都子が机の中のメモに気付く。

「……」

 開いて内容を確認している様子だったが、すぐに元へと戻して何事もなかったかのように文庫本を開いた。

 差出人の名前があるんだからちょっとは俺の方を気にしてもいいのにな。

 少しそう思ったが俺と都子の関係だ、まあ無理もない。

 とりあえずあとは放課後を待つだけだ。

 

 ……。

 …………。

 ………………。

 あっという間に時間が過ぎて放課後になった。

 教室には昨日と同じように誰もいない。残っているのは俺だけだった。

 三十分くらい経っただろうか。

 壁時計が指定した時間を指したとき――。

 教室の前側のドアががらりと開いた。

 来た……っ。

 入ってきたのは俺が呼び出した相手、都子だった。

 都子は教室に数歩だけ踏み入れ、立ち止まった。

 窓側から数えて二列目にある自分の席に座っていた俺とは十メートルくらい離れているだろうか。

 これが今の俺たちの距離だ。

 なんだか実際の間隔より遠く見えた。

 都子は相変わらず俺をきつく睨みつけていた。これはあいつの気持ちを考えれば当然のこと。俺が受け入れるべき罪と罰だ。

 ただ、昨日は気圧されて何もできなかったが今日はそういうわけにはいかない。

 俺は自分を落ち着かせるため、大きく息をついてから話しかけた。

「約束通り来てくれたんだね、ありがとう。実はすっぽかされるんじゃないかってひやひやしてた」

「……別に来たくて来たわけじゃないわ。ただ貴方に逃げたと思われるのが我慢できなかっただけ」

「いやそんな、逃げたなんて――」

「要件はなに?」

 言葉を遮られる。

 おそらく下手に話を伸ばそうとしたらこのまま回れ右で帰られるだけだ。

 俺は早速本題を切り出すことにした。

「えーっと、みや――じゃなくて柊さん。なんか小学校の頃とずいぶん印象変わったよね」

「……」

 沈黙。

 どうやら必要最低限しか俺と会話をしたくないらしい。

「引っ越し先で何かあったりした?」

「……」

「それとも――……」

 昨日から何度も脳内でシミュレーションしていたけれどいざ本番となったらどうしても迷いが生じてしまう。

 もしこの続きを言ってしまったら退路は完全に塞がれる。

 向き合うことしかできなくなる。

 なに弱気になってんだ、俺っ。

 今日はそのために来たんだろっ。

 逃げ出したい気持ちを無理やりねじ伏せる。

 そして、意を決して続けた。


「柊さんが変わったのって俺との絶交が原因だったりする?」


 ――言った。

 言ってしまった。

 ついに核心に踏み込んだという奮い立つ思いとこれで後戻りはできないという後悔が俺の中でごちゃごちゃに入り混じり、心臓を激しくポンプした。

 都子の瞳が驚いたように数回瞬いた。形の良い眉がわずかに動く。薄く小さな唇から小さく息が漏れる。

 俺はあいつの小さな所作のひとつひとつに全神経を集中した。

 すると――。


「だったら何?」


 都子の口から出た言葉、それは俺の予想を肯定するものだった。

 ………………やっぱり、か。

 覚悟なんてものがいかに脆いのか思い知らされた。

 ――『今日でお前とは絶交だ』

 昔、俺が告げた言葉だ。

 一方的で、残酷で――そして都子を決定的に傷つけてしまった言葉。

 幼い都子が泣きじゃくっていた姿がフラッシュバックする。

 都子を変えてしまったのは俺だ。

 いや、ここまで追い詰めてしまったのは俺だった。

「……あの時は……ごめん」

 自分でも情けなるくらいか細い声しか出なかった。謝ることしかできない自分がその気持ちに拍車を掛ける。

 もう一度話しかけようと決めたとき「俺に何かできるのか」は考えた。だけど、一晩中頭を捻っても何も出てこなかった。

 誰か知っているなら教えてほしい。

 人を酷く傷つけてしまったときの償い方を。

「“ごめん”……ですって……」

 都子が天井を仰ぐようにする。

 教室の空気が震えたような気がした。

「ふざけないで……っ」

 視線で射抜くように睨みつけてくる。

 その瞳には激しい怒りの色が宿っていた。

 都子は席と席の間を荒々しく縫うようにして俺に詰め寄ってくる。

「“ごめん”って何!? 今さら謝られると余計腹が立つ! なんで謝るの!? 何がしたいの!? そんな一言で済むと思ってるの!? 貴方本当になんなのよ!」

 悲鳴にも似た言葉とともにグーに握った手を俺の胸に打ちつける。

「私は変わろうとずっと努力してきた! 何でもひとりでできるように努力してきた! それが何故だかわかる!?」

 女の子の力だ、痛くはない。

 死ぬほど痛かったら良かったのにと思った。

「私がどれだけの思いをしたか……わかりもしないくせに――……」

 振り上げた右手を力なく下ろしてから都子は顔を伏せた。

 泣いているのだろうか。

 小さな肩が震えていた。

 もう何も言えなかった。

 都子の言う通りだったから。

 こうやって謝ることすら都子にとっては軽率だったのだ。

 手を伸ばせばすぐ届く距離で都子が傷付いている。だけど俺にできることなんて何もなかった。

 俺は――……あまりにも無力だ。

「……もういい」

 都子がぽつりと漏らすように言った。

 制服の袖で目元を拭うようにしてから顔を上げる。

「どんなに謝られたって私が貴方を許すことなんてない。だからもう関わらないで。どうせ許されないんだからその方が貴方も気が楽でしょう?」

「そんな……」


「私はもう誰も信じない。ひとりでいい」


 都子がそう言い残して立ち去ろうとした。

 ひとりで……いい……?

 そんな――……。

 踵を返して背中を向ける。

 俺はそんな都子の右腕――その華奢な手首を掴んでいた。

「……どういうつもり?」

「――駄目だ」

「え?」

 ずっと嫌われてもよかった。

 もう関わらないようにするのだって構わなかった。

 でも、最後の一言だけは了承できない。

――『今日、おれはみやこに嫌われるんだ――……』

――『こうして会うのも最後だからさ。言いたいこと言っとこうと思って』

――『嫌だっ。ホントはこんなこと言いたくない……っ』

――『みやこが引っ越すって聞いておれすげーうれしかったんだよ。ひとりでなにもできないお前がずっと嫌いだったからさ』

――『頑張れ……っ。おれなんかに負けるな……っ』

――『あ。手紙とか送ってこなくていいからな。どうせ返さないし』

――『お前はおれがいなくたってぜったいに大丈夫だっ』

――『今日でお前とは絶交だ』

 五年前の絶交がリフレインし、心の中を搔き乱す。

呼吸が浅くなる。


「俺はそんなつもりであのとき絶交したわけじゃないっ」


 つい語気が強くなってしまう。

 そんな俺を都子は肩越しに冷静な表情でじっと見ていた。

 もう一度俺に向き直る。

「……痛いわ。離して」

「あっ――。ごめんっ」

 俺が慌てて離すと、都子は手首をさすりながら尋ねてくる。

「……今のはどういう意味?」

「あ、いや……」

 言ってしまった後で「しまった」と思った。

「話して」

 しかし、俺の気持ちを見透かしたかのように都子が念を押してくる。

 こんなことは絶交を突き付けた相手に言うべきじゃない。

 ……が、言い逃れはできそうになかった。

 俺は少し逡巡してから話し始める。

「あの絶交は……これから遠くに引っ越す柊さんに少しでも強くなってもらいたくてのことだったんだ。あのときの君が俺を頼ろうとしないよう、わざと突き放した」

「……本心じゃなかったって言いたいの?」

「ほんとガキだったよ、あんなことしか考えつかないなんて。それに馬鹿なことしたと思うよ、こんなことになるなんて」

「……それを鵜呑みにしろと?」

「ち、違うっ。信じてもらいたいから言ったわけじゃない。俺のことはずっと嫌いなままでいい。そこは柊さんが百パーセント正しい。でも、『ひとりでいい』だなんて言わないでほしい」

 都子が小さく息を吐いた。

「……勝手な言い分ね」

 呆れられてしまったのかもしれない。自分で原因を作っておいてその結果は嫌だとか言っているんだから。誰だってそう感じるだろう。

 教室に沈黙が落ちる。

 ただ、先ほどまでと違って都子に話途中で帰ってしまおうとする素振りはなかった。

 絶交の理由なんて都子に話すつもりなんてなかった。しかし、ここまで話してしまったことで俺の頭にひとつの考えが思い浮かんだ。

 本当に俺は昔から何も変わってない。

 我ながら短絡的で馬鹿な考えだ。

 また都子を怒らせるかもしれない。

 傷つけるかもしれない。

 それでも――。

 それでも“今の都子”に対して何もしないで見ているだけよりはマシだ……っ。

 意を決して切り出してみる。

「柊さん、俺に最後のチャンスをくれないか」

「……どういうことかしら」

 都子が訝しげに眉をひそめる。

 俺は大きく深呼吸をしてから、


「俺はもう一度、柊さんの幼馴染になってみせる」


 そう言ってみせた。

 俺の突拍子もない宣言に都子が目をわずかに見開く。

「もう一度幼馴染? 意味がわからないのだけれど」

「あ、いや、幼馴染っていうのは言葉のあやというか――昔のような。関係になってみせるってことで、その……とにかく、君をひとりになんてしない」

「……そんなこと無理じゃないかしら。私は貴方のことが許せないって思っているのよ」

「一か月――。一か月だけ俺が君に話しかけることを許してほしい。もし君の気持ちが変わらないようだったら俺はもう君に二度と関わらない。約束する」

「……一か月、ね」

 都子が右手を頬に当てて考えるようにしている。

 俺はその様子を祈るように眺めていた。

 駄目で元々と提案したことだったのだが、

「……いいわ」

 少し時間を置いてから都子は頷いた。

「ほ、ほんと?」

「ええ。またこうやって呼び出されるのも面倒だしその条件受けてあげる。ただし、きっかり一か月だけ」

「柊さん……ありがとうっ」

 感極まっている俺とは対照的に、都子が冷ややかに肩を竦めた。

「私、変わらないと思うわよ」

「でもできるだけのことはやってみるよ」

「……そう。勝手にしたら。じゃあ約束は明日からってことでいいわよね」

 そう言って都子は教室から出て行ってしまった。

 ひとりだけになった教室で俺は拳をぐっと握りしめる。

 よしっ。やってやる、やってやるぞっ。

 この一か月で俺はまた都子と幼馴染になってみせる……っ。

 こうして、俺が都子の奇妙な一か月が始まるのであった。

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