この想いが届くとき
青山海里
彼のために、できること
第1話
病院のエスカレーターはデパートのそれとかと比べてゆっくり動く。病気やけがをした人たちが安全に乗れるように。
エスカレーターからはいろんな人が見える。大きな声で受付と揉めるおじいさん、母親が会計を済ませる横で座り込む小さな男の子、父親の腕に大切そうに抱かれた、まだ首も座っていないような赤ちゃん。
市民病院にいる時点で、この人たちはきっとどこかが悪い。普通の病院では、手に負えないくらい。
友達のお見舞いで病院を訪れた女性が、余命半年と宣告された初恋の人と再会する。実は両想いだったことが発覚し、二人の距離は自然と縮まっていく。彼の死期が近づき、女性は涙を流す。あなたのぶんまで私が生きるわ、と。
昨日そんな話をテレビで見たばかりだということもあり、市民病院にいるというだけで私は、自分も悲劇のヒロインになったかのような感傷に浸っていた。
学校に遅刻していこうとしているという事実が特別感を倍増させている。
受付の人に示された通りの椅子に腰かけ、診察室に呼ばれるのを待つ。病院内でスマホをいじるのはなんとなくはばかられ、特にすることもないまま私は目を閉じた。
自動的に、妄想の世界が動き出す。
私は現在、不治の病に侵されている。症状は外側には一切現れないもので、家族と先生以外誰もこのことは知らない。たくさんの薬によってなんとか命を繋ぎ止めながら、日々楽しい生活を装って過ごしていた。
そんな私にある日、転機が訪れる。私が病院から出てくるところをクラスの男子に見られたのだ。
彼とは席が近くよく話す仲だったが、そこまで親しい訳でもなかった。ただ私は、いつもクラスの中心にいる明るい彼に片想いしていた。
二人だけの秘密。それは、二人を引き寄せていつしか二人は付き合うようになるも、幸せな日々の裏側で私の余命はどんどん短くなっていく。
「私のことは忘れて、他の誰かと幸せになって」
むりやり作った笑顔で彼に告げた私に、彼は初めて涙を見せながら言うのだ。
「忘れられるわけないだろ!俺がお前を、絶対に死なせない。ずっとそばにいるから。俺が幸せなときに俺の横にいるのは、お前じゃなきゃだめなんだよ!」
その言葉を聞いた私は一筋の涙を流しー。
「六二二番の方、六二二番の方。診察室二九一にお入りください」
私を呼ぶアナウンスが聞こえ、一気に現実に引き戻された。
呼ばれた通り診察室に入る。
「はじめまして。黒川さんの担当医になります、斎藤です。よろしくね」
扉を開けた先で椅子に腰かけていたのは、座っていてもわかる、背が高くてキリっとした、五十代前半くらいの男性だった。彫りの深い目元、スッと通った鼻筋、年相応のしわは刻まれているもののそれでさえもどこかハッとしてしまうほど魅力的に見える。その整った顔は優しい笑みをたたえていた。
「よろしくお願いします」
案内にしたがって椅子に腰かける。
「早速だけど見せてもらおうかな、ちょっと写真撮らせてくださいね」
先生はそう言うとすぐに手にしていた小型のカメラで私の左耳の写真を撮った。
目の前のモニターに私の耳が映し出される。
画面の隅のほうに映った自分の目が顔に埋まっているみたいで驚いた。先生はそんな私を気に留める様子もない。
「ここ、見てください」
ポインターを使って先生が示した私の耳の上の付け根部分は、化膿していて腫れていた。そのすぐ近くには小さな穴がある。
「先天性耳瘻孔という言葉は知っているかな?」
「はい」
先天性耳瘻孔。その言葉には馴染みがある。それは完全に遺伝性のもので、私の家族は父親以外みんなある。
減数分裂の過程で何かが起こり、本来塞がるべき穴がそのままで生まれてくる。特に害はなく、穴があっても普通に一生を終える人のほうが多いが、私の場合、穴から細菌が入ってしまったのかその周辺部分が膿んでしまっていた。
「手術したほうがいいかもしれませんね」
そう言うと、医師は近くにあった紙の裏に何かを描き始めた。「こんな感じかな」と言いながら、紙に描いていたものを見せてくる。
「黒川さんの耳の近くには穴があります。黒川さんも知っている通り、これは耳瘻孔という名前なんですけど」
先生が見せてきた紙には、一本の横線の下にトンネルのようなまっすぐな穴が続いているものと、横線の下に穴がモグラの住処のようにうにょうにょと続いているものが描かれていた。
「耳瘻孔は多くの場合、こんな感じで下に向かってまっすぐ穴があることが多いんです。でも、こんなふうに穴がウニョウニョ広がっていることもあって」
トントン、と先生がペン先でうにょうにょの方の図を示した。それってつまり―。
「私は、黒川さんはおそらくこっちの方ではないかと思います。切り開いてみないと実際どうかっていうのはわかりませんが」
どうやら私の耳の付近にある小さな穴の下には、うにょうにょとした袋のようなものが広がってしまっているらしい。その袋の部分が、何らかの減員によって化膿してしまっているのではないかということだった。
それから私は手術についての具体的な説明を受けた。
耳だけだというのに麻酔は全身麻酔。入院は前日入院で二泊三日。大した手術でもないのに重病人みたいだと思った。
「今すぐには具体的な日程まで決められないので、また二週間後に来てください」
「わかりました。ありがとうございました」
医師にお礼をいい、診察室をあとにする。受付に書類を提出すると、再び待っているように言われた。
なんだか細かい説明が多くて疲れてしまった。近くにあったベンチに腰をおろし、目を閉じる。
さっきの妄想の世界が再び動き出した。
ふと、もっと具体性がほしいと思った。
私の物語の世界を彩るクラスメイトの男子は誰にしよう。推しの誰かにしようかと思ったがやめた。アイドルだと、現実味がなさすぎる。もっと身近でかっこいい人。
うちのクラスで言えば例えば―京平とか。
斎藤京平。一回思いつくと、私のさっきの妄想に結構マッチしている気がする。色白で背が高くて、クラスのムードメーカーで人気者で。でもそれを気取ったりはせず、私みたいな地味な女子にも話しかけてくれる。私とは反対側の世界にいる人。
それに、憧れとまでは言わないが、私は京平のことが少しだけ気になっていた。京平は、話してて楽しい。あの人は、いるだけでみんなの心を明るくすることができる。もし私が不治の病で京平に告白されるんなら、それはそれで結構幸せな気もする。
正直ここまで妄想をふくらませる自分は気持ち悪いと言われても仕方がないが、誰にも迷惑をかけてないのだからいいだろう。
京平と私の恋物語。どんな感じかちょっと想像してみる。
それは、よく晴れた日の午後のことだった。
―いや、そんな天気と私の暗い気分は釣り合わない。
どしゃ降りの日のこと。―としてしまうと、きっと京平は傘で私の存在になんて気がつかないだろう。
曇りが案外一番いいのかもしれない。
どんよりとした今にも泣きだしそうな空の日、私は絶望とともに病院から出てくる。ガン。余命半年。
自分に向かって使われた言葉の重みに押しつぶされそうになっている私に、なにも知らない京平が気がついて駆け寄ってくるのだ。
「黒川さんじゃん、どうしたの?」
心配そうに私を見てくる彼に私は上目遣いで、目にいっぱい涙をためて言うのだ。
「私、死んじゃうの」
「六二二番の方ー、六二二番の方ー、四番のカウンターへどうぞ」
再び私は受付に呼び出された。簡単な説明を聞き書類を受け取ると、一階の精算機で会計を済ませるように言われた。
そんなことまでセルフになっていることに驚きながらも、私は下りのエスカレーターに乗った。
私の言葉を聞いた京平はなんて言うだろう。
「黒川さんのことは、俺が絶対に死なせない」と、抱きしめてくれるだろうか。
そこまで考えてふと、我に返った。
流石にそこまで妄想をふくらませるのは気持ちが悪すぎる。私はただのクラスメイトでしかない彼に何を期待してしまっているのだ。
いやでも実際、彼は私にどんな言葉をかけるだろうか。
もしかしたらと思い、エスカレーターから京平の姿を探した。
京平は先月、頭と足に包帯を巻いて学校に来た。詳しいことは知らないけど、家の階段から落ちたらしい。もしそのときにここに運び込まれていたら―。
―当然といえば当然だが、私がエスカレーターに乗っている間に京平の姿を見つけることはできなかった。
そんなことにまで考えを巡らせてしまう自分がかなり恥ずかしくなる。
エスカレーターを降りて左側にある精算機で会計を済ませると、忘れ物がないかを確認し、出口に向かって歩き出した。
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