第44話 このよき日に。先生と飯田さん

「ここにいたのか」


 先生は怒ったように言った。飯田さんは、少し前から、舗装された坂道を登ってくる先生に気がついていた。


「ごめんなさい。心配かけちゃった?」

「もちろんだよ。急にいなくなったら、誰だって心配する」


 ――理由はある。

 今日はよく晴れている。卒業式に相応しい。そのよき日に、飯田さんはこの高台から町を、もう一度眺めたかったのだ。――育った町を、先生と二人で。

 ガードレールに手をついて見渡せば、体育館の青い屋根が見下ろせる。校庭には誰も出ていない。更に下っていけば、町の人々が暮らす家々の屋根があり、遠くには海がある。春夏秋冬と、ここから移り変わる景色を眺めてきた。気軽に来れた場所なのに、もう来ることもない。この一瞬は、きっと再び訪れない。

 先生は、飯田さんの横顔を覗き込んで声を上げた。


「なんだ、もう泣いているのか? もしかして寂しくなったのかい?」

「ううん、違う」


 飯田さんは、手の甲で目蓋まぶたを拭う。


「先生が、見つけてくれた・・・・・・・から嬉しくて。待ってて良かった。来てくれないかと思っちゃった」

「そんな大袈裟な。私は行方不明の生徒を探しに来ただけだよ」

「……あれ? それって、私じゃなくて、他の生徒でも探しに来たってことですか?」

「ああ、そうだよ」


 先生が当たり前だという顔をすると、飯田さんは口を尖らせて拗ねた。泣いたりヘソを曲げたりと目まぐるしい。先生は少し笑って、飯田さんと同じようにガードレールに手をついた。


「気を悪くしないで。私は教師なんだから、当然だろ? まあでも、君の行き先に見当がつくのは私ぐらいだろうね。だってほら、こんなに急な坂道は年寄りにはきつい。他の教師なら、探そうとも思わない」

「あははは。じゃあ、やっぱり、先生が来るのを待ってて正解だったんだね」


 飯田さんの機嫌が持ち直す。先生は内心ほっとした。


「そうだね。君の計画通りだ。もし私が来なければ、君はずっと一人きりだっ――た……?」


 三月にしては暖かい風が優しく吹いた。その風に吹かれた時、先生の記憶にかかっていたもやが綺麗に晴れて、唐突に全てを理解した。

 ――ああ、そうなのか……嘘だ……、いや、そうだった――。

 呼吸を忘れてしまいそうになる。

 

「……先生? そろそろ式に戻りますか?」


 飯田さんは、様子の変わった先生を不安げに見詰める。早く戻らないと怒られるのかも知れない。

 先生は大きく息を吸った。


「……いや、式はまだ始まったばかりだ。それよりも、随分と待たせてしまったね。寒くなかったかい?」


 急に優しくなる先生に、飯田さんは警戒を強める。先生はいつもそうだ。優しい言葉の後に、厳しい注文をしてくる。アメとムチというやつだ。


「そうだね。少し寒いかな」


 飯田さんが肩をすぼめると、先生は大胆に身体を寄せてきた。周りに人影はないが、飯田さんは驚く。


「ちょ、ちょっと、先生どうしたの? 誰かに見られ――」


 飯田さんの言葉は途中で途切れた。先生の胸に抱き締められたからだ。顔が埋まってしまう。「先生っ!」と怒るように言って、飯田さんは腕を突っ張った。それでも先生は離さなかった。


「先生、落ち着いて。一体どうしたの?」


 先生は首を曲げた。飯田さんの白い頬が、熱を帯びて火照っていた。


「……全部思い出した。どうして忘れていたんだろう。……私は君に、ずっと謝りたかった」

「あやまる?」

「ああ、ごめんよ。守ってあげられなくて……。私は愚かな役立たずだ。本当に本当に、ごめん」

「どうしたのいきなり? そんなことないよ。いつも励ましてくれたじゃない。私、嬉しかったよ」


 飯田さんが必死になって告げると、先生は首を振った。


「そんなんじゃ駄目なんだ。好奇の眼に晒された君を、傷だらけなのに、君を――どうして、なんで私はわからない!」


 先生の腕に力がこもって、飯田さんは潰されてしまいそうになる。――だけど、分かった。先生が何を言いたいのかを――。


「……先生?」


 可愛い声に呼ばれたので、先生は我に返る。


「あああ、ごめん」

「もう、謝ってばかりだね」


 先生の胸から解放されて、飯田さんは笑った。


「……謝らないといけないのは、こっちの方なのに、先生って、ほんと真面目だよね」

「いや違うだろ、君は何も悪くない」

「……ううん。やっぱり私が悪いよ」


 飯田さんは、先生を見上げて言った。


「先生を独りにして、悲しい気持ちにさせてしまった。今日この日まで、約束したのに待てなかった。だから――」


 飯田さんの目に再び涙が溢れる。


「やっぱり私が悪いよぉ……。グスッ……。ごめんね先生。でも、もう大丈夫だから」

「くっ……」

「……一人ぼっちだった私に、声をかけてくれてありがとう。沢山の友達や後輩を作ってくれてありがとう。ああ、そうだ。身体の弱かった私も、部活のおかげで随分元気になれました――。今日は、会いに来てくれてありがとう。大好きです先生。私は今、とっても幸せだよ」

「……私もだ。年甲斐もないけど、私も大好きだ。君と過ごした毎日で、いつも頭の中が一杯なんだ。それが私の真実だ――私の光なんだ」


 本当に? もう一度言って、と飯田さんが頼んだ。もう言わないと言って、先生は飯田さんをまた抱きしめた。ケチ――。


 …………。

 ……。



 はっ、として僕は、短い草を掴んで起き上がる。近くにはオハナさんと六股君が立っていた。

 第九書記ニーチェの姿を咄嗟に探したが、どこにも見当たらなかった。だが、広い草原の真ん中に、血まみれの先生を膝に抱いて、カティアが座っていた。うっすらと白い光に包まれて、子を心配する母のように、先生を覗き込んでいる。

 僕は近くにいる二人に確かめた。


「カティアの顔が、僕には飯田さんに見えるんだ……。皆にも、そう見えてる?」

「ええ……私にもそう見える……はっきりと見える。先生は飯田さんにやっと会えたのね……」


 涙声で、オハナさんが返事をした。六股君がうんうん、と頷いた。

 カティアに飯田さんがのりうつった様だった。外見も声もカティアのそれではなくなっていた。

 そのカティアが話しかけても、飯田さんの声でいくら呼んでも、先生はぴくりとも動かない。もしかして、先生の魂はもう――。


「第十三書記カティアの名によって証明する。これは時空間を捻じ曲げて、実際に起きた事象であり、置き換え不可能な現象である。ゆえに報酬は支払われた。喪失武器ロストウェポンよ。貴方の世界に帰れ――行きつく先が、底の無い記憶の沼だったとしても、手足を休めずに泳ぐのだ。……もう一度、会いたい人に会いに行け――」


 その声は飯田さんの声だったが、はっきりとカティアの意識が感じられた。するとカティアと先生を包む光が強くなる。まともに見つめていられない程の光量を保つと、やがて限界をむかえて立ち昇り、暗い空に吸い込まれた。

 光が消えた後、草原にはカティアだけになった。先生の姿は跡形もなく消えていて、カティアに重なっていた飯田さんの面影も無くなっていた。


「さよならや先生。また会えたらいいなぁ……。もう、離したらあかんで」


 草原を吹き抜けた風に乗って、今度ははっきりと、カティアの声がした。

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