第4話 契約してませんよ?
「よしよし、これで契約完了や。【雇用主を玉座に導く】これがお前の仕事や。しっかり働きや」
「し、仕事? 玉座……?」
眼前に貼り付いていた紙を手で払おうとしたら、急に取り除かれて視界が広がる。黒煙が上る草原を背景に、はっとするような美しい女性が立っていた。雪のように白い肌に、切れ長の大きな瞳。邪魔をしていた髪が後方に流れて、やっと顔が見えた。
――これがカティア。
懐かしい温もりがする。震えて涙が出そうになる。僕の心が混乱していて弱くなっているのか。
カティアは、黄ばんだ紙を満足げに広げながら興奮した声をだした。
「そうや。これは私が作成した契約書や。お前の力を借りるには契約が必要やねん。今から私がお前の雇い主や。バリバリこき使うけど、報酬はたんまり払うから安心しいや」
「ん? け、契約に報酬? ちょ、ちょ~っと、ちょっと待って下さい。僕は、保証人だとか訳の分からない契約なんかは、絶対するなと教えられて、ここまで大きくなったんです。僕は契約なんかしませんし、貴女の下で働くつもりもありません!」
涙も渇く、咄嗟にでた清々しいまでの就労拒否。世界中の皆から後ろ指差されてしまう発言だが、こんなに、はっきりノーと言えたのは、僕のしょうもない人生で初めてかも知れない。
「働かん奴は、地獄に堕ちろ!」
間髪いれず、カティアが僕の生き様を否定した。すると、僕の周りの地面から、土を撒き散らしながら白い骨の手が虚空に向かって無数に生えた。
「どわああああ!! な、何これ! イタタタタッ、痛い!」
予想外の出来事に、心拍数は跳ね上がる。突如現れた模型のように綺麗な骨の手が、関節を見事に極めてくる。そのまま僕を組伏せようと引っ張って来た。その方向は下だ。変な体勢になりながら、お尻が地面に沈んでいく。
僕は働いた事が無い。しかも、不登校の引き籠りだ。故に、社会のルールについては疎い方だと思われる。だから勉強になった。今回一つ分かった事は、仕事の斡旋はやんわり断るべきだった。なぜなら酷い仕打ちだ!
カティアが顔面をつき出す。悪戯好きな子供のようだ。
「どうや? 降参か?」
「降参、降参! 早くこれどけて下さい!」
「素直に私の言うこと聞くか?」
「聞きます聞きます! はやく、早くして!」
「アハハハ! ええ子やわ!」
カティアは切れ長の目をへの字にして、心底愉快だといった感じで笑っている。僕は半狂乱だ。足首とお尻が完全に地中に埋まってしまい、気持ちの悪い骸骨の手が、執拗に身体を撫で回している。地獄? これから地獄に行くのか!
「地獄行きはキャンセルや! 手を離せ亡者ども!」
カティアがそう命じると、骸骨の手が動きを止めた。刹那、割れた花瓶のように粉々になる。下へ下へと、強力な重力を受けていた身体が解放された。埋まっていたお尻を取り出すと、助かったと僕は安堵した。
「言うたやろ。契約した以上、お前は私の言いなりや。いちいち手間かけさせんな。今度は天使を呼んで天国に送るからな? めっちゃ高い所を飛ぶ羽目になるで」
「ちょ、ちょっと待って下さい。訳が分からないんですけど。と、とにかく契約なんて本当にしてないじゃないですか。酷すぎますよ!」
「はあ? ちゃんと契約してるわ。ここを見ろ」
カティアが突き出したA4サイズの黄ばんだ紙には、文字のような物が整列している。小さくまとまってバランスが良く、書いた者の几帳面さが伝わってくる。契約が本当に成されたのなら、これが契約書になるのだろう。契約は内容を充分に理解してから行うものだ。読めない契約書に判を押す馬鹿はいない。
文字が途切れた下の方に、濡れたような跡がある。カティアがそこを指で差した。
「ここにお前の【でい、えぬ、えい~】が付いてるやろ」
「で、でい、えぬ、えい?」
「そうや、でい、えぬ、えいや」
得意気に反り返るカティア。でい、えぬ、えいとは何だろうか。嫌な予感しかしない。
「わからん奴やな。ここの濡れてる所は、お前の鼻の頭からとった皮脂や油、汗といった【でい、えぬ、えい】や」
「ん? ひょっとしてDNAと言いたいんですか? それだったら少し納得しますけど?」
「違うわ! なんやそのDNAちゅうやつは? 私が言うてんのは【でいえぬえいや】!」
「あああ、もういいです!」
余裕で訳の分からない、予測不能な状況に追い込まれている。だが、カティアからは、夢の中で会った時と同じような、柔らかなイメージが今もしている。僕が何とかパニックにならなくて済んでいる理由はこれだ。口は悪いけど、凄く話しやすい。実はいい人なのかも知れない。
――そんなわけ無かった。
「さあ! 戦車を引け! 最初の仕事や!」
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