第5話 領地境界線を越えられた

「まずは西や。第十書記のマールをぶち殺すで! 休んでへんと、ほら、走れ!」

「は、はいぃ!」


 カティアの声が後ろから聞こえると、疲労困憊ひろうこんぱいで、一ミリも動けなくなっていた身体にまた力が湧いてくる。

 段々と理解が出来てきた。これは恐らく契約の力だ。カティアの言った事が本当になる。つまり戦車など引ける状態ではないのに、引けるようにされてしまった・・・・・・・

 ――ま、また、走るのか!

 僕達四人は、黒煙が立ち込める中、懸命に青銅の戦車を引っ張る。赴くままに進んでいるように思えるが、カティアが西と言ったなら、自然と身体が向いたこの方角が西なのだ。

 ――はぁはぁ、はぁはぁ。ママは、僕が部屋に居ないから心配してるだろうな。まさか、引き籠っていた息子が、見知らぬ土地で戦車を引っ張ってるなんて想像もつかないだろうな。何とかして知らせないと――。だけど隙がない。真後ろにいるから、怪しい動きをすると、すぐに見つかる。くそっ、だ、誰か助けて~。

 と願いを込めてもレスキューは来ない。

 やがて戦車は、金色を散りばめた小麦畑を、縫うように蛇行する道に出た。地面は固く、車輪が食い込まなくなったので多少は軽くなるが、それでもまだまだ重い。

 前列後列に、それぞれ二名という隊列を組んで戦車を引っ張っている。僕は、前列の右側が担当。ティシャツに半パンで、しかも裸足。とても力仕事をするような格好ではないが、他の人も同じ様な境遇だと思われた。

 後列の二人は、スーツ姿のサラリーマンと、金髪で制服のブレザーを着た目付きの悪い男。顔も服も汚れていたが、さすがに靴は履いていた。その事に不満を募らせていると、僕の左側にいる女の人が、顔を近づけてきた。


「君、大丈夫?」

「え、いや、とっくに限界です。僕だけ裸足だし……」


 歳は三十前後だろう。濃い化粧が嫌味ではなくよく似合っている。明るく長い髪はボサボサで、結婚式の二次会にお呼ばれしたようなベージュのドレスを着ているが、悲しいかな泥まみれだ。僕の足元を見た後、憐れみの表情をお姉さんは浮かべた。


「私もヒールで、超~走りにくいわよ。いっそ、裸足のほうがいいくらい。学生さん? 名前は?」

一応・・、高校二年です。僕の名前は……」

「わからない?」

「えっ、嘘だろ……分からない。自分の名前が分からない」

 

 ――あれ? 僕は誰だ?

 一瞬で目の前が暗くなる。僕は戦車を引く力を弱めてしまった。


「ちょ、ちょっと手は緩めないで、アイツが見てるでしょ!」

「あ、はい!」


 心底怯えた様子でお姉さんが言う。僕が慌てて力を込めたのと、地面の凹凸のせいもあって、戦車が一度大きく揺れた。

 ――嘘だろ、僕は誰だ?

 ついさっきまで、覚えていたような気もする。喉につっかえてるとかじゃなく、すっぽりと抜け落ちてしまったような感じがする。

 だけど薄暗い子供部屋。

 自分がそこに閉じ籠って、昼夜が反転したような生活を送っていたのは知っている。

 気持ちが悪くて、吐きそうになってきた。


「大丈夫よ。皆似たようなもんだから……私も自分の名前が思い出せない」

「そうなんですか? 後ろの二人も?」

「うん。少ししか話してないけど多分」


 僕はちらりと振り向いた。荷台にいるカティアと目が合いそうになって前を向く。お姉さんは小さな声で愚痴を言った。


「職場の風景や、仕事の内容は覚えてるんだけどね。今日も出勤だったのに、もう無理ね。無断欠勤したらペナルティが厳しいのよ、うちの職場。ボーイの野崎が店長にチクるから誤魔化せないし、はぁ、嫌になるわ」


 夜の飲食関係なのだろう。お姉さんが着ているドレスの理由が分かった。僕が返事をしようとすると、代わりにカティアの大きな声がした。それは停止の号令だった。


 号令が響くと急に力がぬけた。肺が大袈裟に酸素を求めだし、両手両足の筋肉が硬直して悲鳴を上げだした。心臓に重労働を課していたシステムのスイッチがオフになったように、それまで感じていなかった疲労が押し寄せて、僕達は、その場に膝をついた。

 ――ぜっ、ぜえ、ぜえ……。こ、こんなに走ったのは初めてだよ。

 走り出してから、もう一時間以上が経っていた。そこへ威厳に満ちた僕達の雇い主、カティアの声が降り注ぐ。


「休憩もかねて、状況の説明と今後の作戦について伝えておくで。我々は現在、東の第五書記トリアの進攻によって、領地境界線を塗り替えられている最中や」

「…………んっ???」 (疲労困憊な僕達四人の頭の中)

「トリアが契約しとるのは、三十万のゴブリンの大群や。まともにやり合ったらしんどい。トリアの軍勢から、逃げるような動きを見せて油断させつつ、まずは西のマールを潰して戦力を増大させるで」

「…………んんっ?」 (引き続き四人の頭の中)

「さあ、頑張ろうやないか! 喪失武器ロストウェポンの諸君。お前らの圧倒的な破滅の力を使って、戦いは量より質やと、他の書記様に教えてやるんや! お前らの出番はもうすぐやで!」

 

 カティアは両腕を右へ左へ振り回し、ガッツポーズを決めてから、拳を空に突き出した。僕達を鼓舞しているつもりだろうが、誰一人返事をしない。カティアは鬼の形相で、僕達を睨み付けた。


「こらぁ! お前ら返事は!!」

「はいぃ!!」 (四人同時に美しく)


 僕の喉が勝手に発声してしまう。他の三人も同じ様だ。僕達は黒煙が立ち込める草原から逃げて来たのか。その第五書記のトリアという人から。

 今から西に攻めると言っているが、もしかして僕達は、戦争でもしているのか?

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