(2)
"もうだめ 飛び降りる"
その通知がスマホに届いたのは、終業のチャイムが鳴り、ハルが鞄を持って立ち上がった時だった。
「……またか」
ため息をつきながら返信する。
"場所は?"
"いつものとこ"
教室を出たハルは、帰宅するクラスメートたちを横目に見ながらひとり階段を昇った。屋上への扉を開くと、湿度を纏った夏の風が彼女の制服をなびかせた。
「………………」
屋上のへりに、ぽつんと寂しげに背中を丸めて座るさくらがいた。ハルが隣に座って顔を覗き込むと、さくらはぐずぐずと鼻水をすすり、涙で目を真っ赤にしていた。
「で、今日の死因は?」
「ごれぇ……」
さくらは指紋のべったりついたスマホを見せた。ゴシップ記事だらけの芸能ニュースサイトが、男性アイドルの女性絡みのスキャンダルを報じていた。
「信じでだのにぃ……」
さくらは顔をくしゃくしゃにして訴えかけたが、ハルの感情は1ミリも動かない。
「あんた、こないだも同じこと言ってたけど」
「あれはべづのひどぉ……」
「はぁ。しょーもな」
「あーっ! またしょうもなって言っだあ!」
「いいから鼻水拭けって」
さくらは差し出されたティッシュを受け取ると、派手に洟をかんだ。
「あのねえ、いちいちそんなことで死んでたら命いくつあっても足らんから」
「うう……ハルの人でなし、冷血人間、心の痛みのわからないロボットぉ……」
人なのかロボなのか。雑な悪口にハルは呆れた。
「手、出して」
「……?」
さくらが言われるまま右腕を差し出すと、その柔らかい肌をハルが優しく撫でた。
「え、えっ!? なんですか!?」
慌てるさくらとは対称的に、ハルは冷静に照準を合わせ終わると、まっすぐ揃えて固めた人差し指と中指をその腕に勢いよく叩きつけた。
「いったあっ!!」
全力のしっぺがさくらの白い肌を赤く染め上げた。
「な、なにするんですかあっ!」
「どう? 痛い?」
「そう言ってますっ!」
「あっそ。ここから飛び降りたらもっと痛いよ」
「うっ……」
「心の痛みがわからない人でなし冷血ロボット人間でも体の痛みはわかるからね。……ほら、想像してみな。ここから遥か眼下に見える硬いコンクリートの地面に、時速数十キロで落下して激突するんだ。頭蓋骨はぐしゃぐしゃに砕け散り、中から脳漿が飛び出し、顔面はズタズタに切り裂かれる。もし当たりどころが悪ければ、先に腕が千切れて飛んでいくかもしれないし、折れた何本もの肋骨は心臓や肺に突き刺さり……」
「ぬわあ〜っ! こわいこわい聞きたくない聞きたくない〜っ!」
「どう、怖い?」
「そう言ってますっ!」
「言っとくけどその怖さ、一瞬じゃないからね。人間、死ぬ時に走馬灯を見るって言うけど、あれ本当だから」
「……ど、どういうことですか?」
文字通りの怖いもの見たさでさくらが尋ねた。
「いくら心が死にたいと思っていても、恐怖を覚えた体は本能的に生を求める。だから死ぬとわかった瞬間、それまでの人生の記憶の中から生き残る方法を探して頭をフル回転させる……それが走馬灯なんだって。すると、命懸けで集中力を発揮することで見える世界がスローモーションになる。……それがどういうことかわかる?」
「き、聞きたくないです」
「つまり、落下の体感時間が引き伸ばされるってこと。わずか数秒の恐怖のはずが、まるで時間が止まったかのように長く感じられ……」
「わーっ! わーっ! 聞きたくないって言ってますぅ〜っ!!」
さくらが目と耳を塞いで防御姿勢をとると、ハルは無防備になった彼女の頭にポンと手を乗せた。
「だったら、気軽に飛び降りるなんて言わないことだね」
「うぅ……」
確かに、そんなに痛くて怖い目に遭うくらいなら飛び降りない方がいいかもしれないとさくらは思った。
「その痛みに比べたら、怒られたって、失恋したって、大したことないよ」
「そうかなあ」
「……いや、実際は大したことかもしれないよ? でも、そう考えれば怖くなくなって、また次に進めるじゃない」
「それは…………そうかも」
「そうだよ。だから痛みなんて怖がらずに、やりたいことなんでもやればいいんだよ」
ああ、そういう考え方もあるのか……と気付くと同時に、さくらの頭に一つの疑問が浮かんだ。
「それじゃあ……ハルはあの時、どうして飛び降りようと思ったんですか?」
「そんなの決まってる」
ハルはあっけらかんと答えた。
「心の方が痛いから」
その言葉に内包されていた、ある種の諦念。その意味をさくらが知ったのは、一週間後の放課後だった。
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