とびおり前には一声かけて

権俵権助(ごんだわら ごんすけ)

(1)

「バカなことはやめて降りてきなさぁーい! 君はまだ若いんだからあ!」


 拡声器を持った警察官が、校舎の屋上に立つ女の子に呼びかけた。柵に手をかけて、今にも落ちそうだ。「友人から飛び下り自殺の予告メールが送られてきた」と通報があり、急いでパトカーでかけつけた時には、既に大勢の野次馬たちが彼女にスマホを向けていた。だが、地上からは遠すぎて彼女の表情は伺い知れない。


「さくらちゃーん! 男なんて他にいくらでもいるよぉ! だから考え直してぇー!」


 メールを受け取った友人も叫ぶ。しかし屋上の彼女は退こうとしない。この膠着状態がもう一時間近く続いている。警察官はマズい状況だと感じていた。一見、何も進展がないように見えるが、過ぎた時間は彼女が決断するまでの猶予時間を削りとったものだ。これ以上長引かせるとまずい。


「すっ、すみません! うちの生徒はどこですか!?」


 息を切らせてやってきたのは眼鏡をかけた若い男性……彼女の担任教師だった。


「あそこです。先生からも声をかけてやってください。……ただし、なるべく優しく。厳しい言葉を使って刺激しないようにお願いします」


「わ、わかりました……」


 拡声器を受け取り、先生が叫ぶ。


「木崎ぃ! 聞こえるかあ! 確かにこの間のテストの点はあまり良くなかった! しかし、お前にはまだまだ伸びしろがある! 先生が保証するぞぉー!」


 だが彼女は動かない。そこへ。


「巡査部長! お連れしました!」


 警察官のひとりが連れてきたのは彼女の母親だった。


「さ、さくらは!?」


 巡査部長が上を指差す。


「さっ、さくら! お母さんが悪かったわ! 勝手に部屋に入って、なんか……なんかペラペラの薄い漫画本を見つけたのを怒ってるのよね!? それから、お父さんにも下着を一緒に洗濯機に入れないように言っておくから! だから……だから早く降りてきてえ!」


 そんな母の必死の叫びにも、彼女はまだ動きを見せなかった。


※ ※ ※


 屋上。


 冷たい風が頬を撫でる。


 眼下に集まった人々を眺めて彼女は呟いた。


「だ……誰だあいつら……? 全然知らん……」


 彼女の名前は梅澤ハル。さっきから地上の人々が呼びかけているのはまったく赤の他人である。


「と、飛ぶに飛べん」


 もし、こんな状況で飛び下りたら、連中は「なあんだ、別人じゃん」とホッとするに違いない。


(死んでホッとされるなんて、あまりにも自殺のし甲斐が無い!)


 動くに動けぬまま、はや一時間。知らない友人に知らない教師に知らない母親まで出てきて、だんだん大事になってきてしまった。一体どうしたものか……。


「あ、あの……」


 突然背後から、か細い声がハルに呼びかけた。振り返ると、同じ制服、同じ長い黒髪の女の子が申し訳無さそうに立っていた。


「…………」


「…………」


 見つめ合うこと十秒。ハルの方から声をかけた。


「……失恋中で赤点とって薄い本を発掘された木崎さくら?」


 彼女は苦笑いを浮かべて小さく頷いた。


「いや、どういうことよこれ」


「あの……友達に飛び下りるってメール送ってから屋上に来てみたら……先客が……」


 しばしの沈黙。


 風の音だけが響いた。


 そしてハルは、大きな大きなため息をついて言った。


「しょうもない」


「え?」


「そんなしょうもない理由で飛び下りなんかするな! つってんの!」


「しょっ、しょうもなくなんかないですっ! 私にとっては人生を揺るがす大事件なんですぅ!」


「いーや、しょうもないね! もっと勉強しろ! 洗濯も自分でやれ! 本の管理と男は……いや、どーでもいいわそんなもん!」


「どっ、どうでもって……!」


「ちょっとは自分で現状を変える努力をしたのかよ! 何もしないで勝手に世の中すべてに絶望してんじゃ……!」


 ハルの口はそこで止まった。発した言葉がそのまま自分の心に返ってきたからだ。すべてに絶望する前に、自分にはまだもう少しやれることがあるんじゃないかと。


「…………やめた」


「え?」


「飛び下りるのやーめた。今飛んだらバカだと思われる」


「わ、私バカじゃないですぅ!」


「いやバカでしょ。バカがバカな理由で飛び下りるバカの飛び降りショー。ほら、交代してあげるから勝手に飛びなよ、バカ」


「も〜! バカバカ言うな! バカって言う人がバカって先生言ってたもん!」


「だったらその先生の言うこと聞いてちゃんと勉強しな。ちょっとは人生マシになるかもよ。少なくともバカのまま死ぬことは無くなる」


「ううっ…………」


「……あのさ。あんなに心配してくれる人がいるのって、幸せだよ」


 地上を見下ろすと、大勢の人々がこちらを見上げていた。ハルが柵から離れると、ワアッと大きな歓声が上がった。


「そういうの、私にはいないからさ」


 戻ってきたハルはさくらとすれ違いざまにぽつりと呟いた。その去りゆく手を、さくらはしっかと掴んだ。


「ちょっと!」


「な……なに?」


「教えてくださいよ、連絡先!」


「……はあ?」


「だって今度飛び下りる時、またあなたがいたら困るでしょう! だから連絡先! いいですか? これからは飛び下り前にはお互い必ず連絡すること! わかりましたか?」


 ハルはポカンと口を開けて……それから思わず吹き出した。


「あ……あんたやっぱりバカだわ! あっはっは!」


「ま、またバカって言った! バカ〜!」


 少なくとも、これからは飛び下りる前に一人は自分のことを知ってくれるらしい。そう思うと、ハルはなんだかもう少し生きてやってもいい気がした。

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