第百八十七話 対応
永禄七年(1564年)
小牧山城
「お市様を嫁がせるとお聞きしましたが、真にございますか?!」
「ああ」
鬱陶しそうに返事を変えす信長に対し、詰め寄るように声を重ねる男。暑苦しさは蓄えられた髭のせいかもしれない。口の周りを鬱蒼と茂る髭は、うねる頭髪とも繋がっており、まるで髭達磨のようだ。
「それも成り上がりの浅井家というではないですか!? あそこなど国人領主に毛が生えた程度の家ではありませぬか!」
「…………」
今でこそ、尾張一国を統一しようかというまでに成長した織田弾正忠家。尾張半国の守護代の家柄だったことを鑑みれば、成り上がり者と謗られてもおかしくない。かつての自家と同程度の規模である浅井家を見下すということは、自家を
非難の言葉を受けた当主の信長は、言葉を発さず一睨みする。それに気が付いたのか、髭達磨の勢いは萎んだ。嫁ぎ先を否定するための言葉が、自家の批判になっていたと今になって思い至ったようだ。
先ほどとは打って変わって、もぞもぞと我が織田家は違うというようなことを口にしている。
信長の睨みを、そう理解した彼は幸せだっただろう。そこに気が付かなかったおかげで裏表なく織田家に仕えていられたのだから。信長の執念深さが自分にも向けられていると感じてしまえば、屈託なく彼に仕えることは出来なかったはずだ。彼の単純さは信長に物足らなさを感じさせるとともに、愛される性格でもあった。
性格だけでなく、彼の武勇も愛されるべき才能を有している。
進むとなれば我武者羅に進む。応変の才はないが、愚直に信長の指示を全うしようとする姿勢は、信長にとってかけがえのないものでもある。
分かりにくい態度ではあるものの、一睨みで切って捨てることはせず、説明を重ねることからも髭達磨について憎からず思っているのが良く分かる。
「良いか。浅井家は小さいながらも江北一帯を支配し、越前朝倉家との関係も深い。我ら織田家も越前からの流れ。手を組むには打って付けである。何より、美濃一色家は西にも注意を向ける必要が出てくる。西美濃衆と東美濃衆の連携を失わせる楔にもなろう。美濃一色家の力を削ぐという点で、これ以上ない手である」
普段は不要と感じている説明を嚙み砕いて口にする。
最終的には近江の海(琵琶湖)に対する水運を確保するための一手であるという経済的視点もあるのだが、今回は口にしない。
先ほどの説明でもすべて伝わるとは思っていないし、全てを理解して欲しいとも思っていないからだ。
「なるほど! 小牧に城を移してまで対決の姿勢を表した殿の戦略の一部なのですか。……いや、しかし何もお市様でなくとも。信長様の御実妹ではなく、重臣の娘で充分ではありませんか? 私にはおりませんが、林殿のご家中には年頃の娘がおったはず」
「ならん」
いつものように短い返答に戻ってしまう信長。
思い返したように言葉を重ねる。
「家柄や力関係ならば、重臣の娘でも縁組を受けるかもしれぬ。しかし、浅井家の治める地の重要度から鑑みるに、しっかりとこちらに抱き込んでおかねばならぬのだ。こちらは浅井家を重要視していると、しっかり伝えるためにも市でなければならぬ」
「確かに美濃一色家を掣肘するには浅井家は適任です。されど領地は湖に沿って細長く、広大とは言えませぬ。それほどまでに重要視する家でしょうか? あっ! もしや美濃一色家のみならず、六角家すら滅ぼして、南近江まで一挙に手に入れる算段では?!」
早合点とはこのこと。
美濃一色家を倒すために手を組んだと理解した髭達磨は、同じく浅井家と敵対している六角家を討伐するのにも役立つと思い至ったようだ。美濃一色家すら手を焼いている織田家にとって、その発想は飛躍しすぎているともいえる。
自家の戦略を定める信長にとっては、そのような見通しを立てているかもしれない。しかし、その配下の国人領主が思い付きで口にするには、大きすぎる話題だった。
案の定、希望的観測で緩んだ表情の間。捕らぬ狸の皮算用と言える具体性のない計画に成功を夢見る家臣たち。
同盟を組んだだけで名家の六角家を滅ぼせれば苦労はない。
同盟を組んだことによる優位を確固たるものにするためには、国人領主の切り崩し、進軍経路の策定。軍需物資の準備に同盟国との利益の調整。やるべきことは数限りなくある。
それをこなせる人間は織田家に多くはない。期待できる人材を集めてはいるが、格が足らない。織田家内だけであれば出自を気にせず重用できるが、他家と接するとなると、慣習に従わざるを得ない。即ち、相応の相手には、親族衆や譜代の重臣でなければ交渉の場にすら付けない。
問題は、その限られた身分の中で任せるに足る人物がいないこと。かつては
次に適性がありそうなのは家老の
なにより髭達磨ほど純粋無垢でないこともあり、信長は気を許していない。
貴重な文官肌の武将で家格もあるから、使っているに過ぎないのだ。使いたくないが使わざるを得ない。そういう状況だ。
腕っぷしだけでは成しえない高度な政務。それを任せられるのは気に食わない林秀貞。必然と彼の立場は重くなり、今では筆頭家老の立ち位置にいる。
「勝家。先のことは良い。今は美濃一色家のことよ。浅井家と盟約が成れば、西美濃衆は動揺しよう。そこを狙う」
「ははっ」
「沙汰は追って知らせる。まずは林秀貞。西美濃を攻めるための準備を整えよ。各所との調整を任せる。残る者どもは、いつ出陣となっても良いよう準備を進めておけ」
矢継ぎ早に指示を出す信長。指示を受ける家臣たちの反応を求めるようなことはしない。それでも視界に入ってしまうしたり顔。唯一、仕事を任された林秀貞は満足気なようだ。
その様子を見ないようにしているが筆頭家老として、当主のすぐ側に座っているため、どうしても視界に入る。髭達磨に応対していたような鬱陶しい表情ではなく、能面のような表情。感情を表さないように必死に抑えているのだろう。
彼の心情を察するには余りある。
気に食わないが使わざるを得ない家臣。目的と感情の狭間で彼の不満は積みあがってゆく。
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