【覇】尾張の竜

第百八十六話 思った通りにはならぬ

 とある男は上質な紙を握りしめて、呪詛のように呟いていた。

 その部屋は灯りも無く、人の気配も無い。

 透かしの家紋は既にその形を失っている。


「やはり来た……。あの御方の言う通りであった。何故、何故今になって……」


 何度も繰り返す言葉は、疑念と恐れを含んでいるように思える。


 不思議なものだ。

 彼の握る紙には、時候の挨拶と興福寺との交渉について橋渡しをお願いするという程度。

 それに恐れる必要も無ければ、疑う必要もない。興福寺の塔頭 一条院門跡として話を通すだけだ。ただそれだけであるのに。


 いったい彼は何に恐れているのだろうか……。



 ※



「市よ、近江へ往け」

「近江とは南でしょうか? 北でしょうか?」


 かつて義輝と対峙した尾張半国守護代の男。

 あれから五年。彼は尾張国をほぼ掌握しつつあり、美濃国の一色家に対しても優位に立っている。戦況としては押しきれていないが、かの男が打つ手が少しずつ効果を見せてきている。


 一昔前、今川家からの圧迫に四苦八苦していた頃とは、別人のようだ。

 体格は変わらず細身であるが、人を圧する力が増している。

 だが、それは家臣などの他人に対してのみ。


 言葉少なの態度とは裏腹に、向かい合う女性には優しげな微笑みをたたえている。


「北じゃ。浅井よ」

「かしこまりました。兄上の仰せのままに」


 その答えに満足気に頷く信長だが、表情には幾分曇りが生まれる。


「何か言うことは無いのか?」

「いえ。兄上のご下命ならばどこへでも」


 部下から発されたならば喜ぶであろう言葉。

 彼の性格、才覚から作り上げられている最中の織田弾正忠だんじょうのちゅう家。上位下達が徹底され、トップである信長が生み出した戦略を実行できる有能な部下が揃う。


 当主信長の発案に否定的な意見を述べる者はいるにはいる。

 その場では意見として受ける。頭ごなしに否定することはないが、彼の中での気持ちは違う。その人物の評価が下げられる。いや、見限られると言った方が近いかもしれない。気に食わなくとも、その場で感情をあらわにすることはないのは間違いない。それは反対意見をのたまう家臣を排除出来るほど織田家は強くないことが原因である。しかし、いつか力をつけたら、それは変わっていくのかもしれない……。


 話は戻るが、優秀な手足になり得る部下たちと優れた頭脳を持つ当主。それは翻って、彼の理解者が少ないことの証左ともいえる。

 同じ目線で先を眺めることが出来るものは未だいない。

 だからこそ、信長の戦略に異議を唱えるべきではないという雰囲気が漂いだしている。そんな空気感を感じていないとでもいうように反対意見を述べられるのは、譜代の家臣の家柄の人間のみ。古くから続く習慣は慣習となり、彼らの常識として正当化される。


 今までの事実過去が将来にも起こるという錯覚。

 それこそが戦国時代の考えであり、一般的な考え。

 ただ、当主の信長とは違う考え。


 その辺りの微妙な温度感の違いに気が付く若い武将は、己の態度を改め、気が付けないのか、気が付いても変えられない武将は今まで通りの態度を改めない。


 それでも、少しずつその割合は変わっている。身分を問わず、能力を優先として抜擢する信長の行動が要因である。

 それにより、かつては足元にも及ばなかった美濃一色家に対しても優位にする目られるようになってきたという成果が出てきていることもあり、信長の意向に従うべきというう風潮が強くなり始めていた。


 思った通りに動く組織に変わりつつあり、手応えとともに充足感を感じていた。

 そうは言っても、それは武家 織田信長としての感覚。

 一個人としての織田信長からすると、家族にまでそのような態度を取られることを望んでいないように見受けられる。


「市よ。家族に遠慮は要らぬ。何なりと申せ」

女性にしょうに難しいまつりごとのことは分かりませぬ。兄上が必要と判断されるのならば、従うのみにございます」


 どの部下よりも服従の姿勢を表す実妹。評定の間で家臣がこのような態度であれば、満足したであろう。


 しかし、信長は言葉を繋ぐことが出来ず、苦笑いを浮かべるのみだった。彼が求めるものは未だその手に入らないらしい。

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