第百六十九話 未熟者の槍
「どうすんだよ、おい。本当に突破しちまったよ」
「どうするって、来ちまったもんは仕方ねえだろ」
松、竹、梅を引き連れ、敵陣奥深くまで進んでしまった彼らの伍長。
本陣奥深くなれば、敵も手練れが揃い、危険が増す。
「だけど何処もかしこも敵だらけだぜ」
「こうなったら兄貴に敵将を討ってもらって、どさくさに紛れて逃げるしかねえだろうな」
「そうは言っても、そこまで行けんのかね。やっぱり兄貴に従ってたら命がいくつあっても足らねえよ」
「それは同感だ……って、兄貴行っちまったぞ! 急げ! ここに取り残されたら間違いなく死ぬ!」
春の字たちは自らの伍長が進む先を慌てて追いかける。
彼らの言の通り、敵地に取り残された兵の末路に希望はない。
もちろん、敵中の奥深くへ侵入する路にも、ほぼ希望は無いのだが。
それに頓着せず奥へ奥へと進む伍長。
彼には希望が見えているかのようだ。
「見つけたぜ! 大将首! いざ尋常に勝負!」
彼が見つけた希望。敵大将の存在。これを討ち取れば、敵中から脱することが出来るかもしれない。恨みを勝って総攻撃を受ける可能性も十分すぎるほどにある。
加えて言うなれば、相手が戦いに応じてくれた場合に限るという、何とも頼りない希望である。
「源平合戦でもあるまいに、大将が一騎打ちなどする訳なかろう。猪突猛進の先駆大将よ」
「先駆大将だぁ? 俺は幕府歩兵隊の伍長だぜ!」
「ゴチョウとは面妖な名だな。されど、もう会うこともあるまい。適当にあしらっておけ」
「ちょっと待てっての!」
そう言うや否や、腰に差し込んでいた棒手裏剣を馬へ放つ。それは馬の後腿を掠めていった。
印牧を乗せた馬は、突然の痛みに嘶き、竿立ちになった。しかし、印牧もさるもので馬から振り落とされるような武士ではなかった。首にしがみつくように堪え、落ち着かせようとする。
耐え切ったかのように見えたその時、そうはさせじと朱色の槍が襲いかかった。印牧にとって幸いだったのは身体に当たった部分が穂先ではなかったこと。ただ衝撃は受け流すことは能わず、槍に弾かれるように地面へと転がっていく。
近侍の侍は竿立ちになった主君へ意識を向けてしまっていたため反応できていなかった。突如割り込んできた闖入者は当たるを幸いに槍を振り回し、距離を広げる。
「よぉーし、これで一対一だな。
「兄貴が本気で槍を振り回したら、誰も近寄れませんて」
「後ろで見てますんで早めにお願いしやすよ」
「頼り甲斐のねえ奴らだな! 印牧殿、部下もあのように言ってるんで、さっさと終わらせましょうや」
「あんな口を聞いていてゴチョウ殿の部下なのか……。良かろう。部下すら統率出来ない未熟者なら容易いことよ。おい、儂の槍を寄越せ」
「それは言いっこ無しってやつで、よ!」
「ぐっ」
印牧が槍を構えたと見るや、朱槍を喉元へと突き出す。
かろうじて避けた印牧であるが、大袖に槍が掠め、千切れ飛んでいく。思いもよらぬ突きの威力に半歩後退る印牧。
それを見てとったゴチョウ殿は俄然と攻勢に転じた。
穂先は長く太い大身槍。朱色の柄も太く重厚感がある。それを竹槍かの如く操る様は未熟者とは言えなかった。
一突き、二突きと突きの数が増えるたびに、印牧の身体を捉えていく朱槍。
圧力に負けるように後退しながら受けるが、次第に劣勢となり……。
最後は印牧の喉へと突き刺さった。喉輪など無かったかのように深々と。
ゴチョウ殿は印牧に刺さった槍をするりと抜き、血振りをする。まるで槍と糸で繋がっていたかのように印牧は地に伏せた。
彼は槍を小脇に手挟むと、左手だけの片合掌で討ち取った
その様は、古より伝えられた礼法のように洗練された優雅な所作だった。
敵総大将との戦いの結末を見届けた春の字は、自分の大将が敵を屠ったことを喜びの声を上げた。しかし、それではいけないと渾身の大声で名を告げる。
「朝倉軍総大将
その声はさざめきのように敵味方問わず伝播していく。敵は疑うように小さな声で、味方は喧伝するかのように大きな声で。
次第に虚報ではないことが明らかになりその場を包む喧騒は恐慌へと変わる。それまでは、まだ組織的な退却戦となっていたが、総大将が討死となればそうもいかない。
我先にと逃げ帰るのみ。
殿の土田何某が踏ん張り、後方を蹂躙されることはなかったものの、逃げる敵の背を討つだけの状況では被害は少なくなかった。
それでも朝倉軍の足軽隊には極力被害を出さないようにという方針が徹底されていたので、逃げる足軽たちは生きて帰られた者が多かった。
不幸にも土田隊の足軽は組織的な抵抗をしていたため、若狭兵の槍の餌食となってしまったが。
平地では、若狭兵が追撃を仕掛け、その横合いからは幕府騎馬隊と歩兵隊が突撃していく。騎馬武者や徒武者のような武士には容赦ない攻撃が加えられ、足軽は見逃される。
峠道に入ると弓部隊が高所から矢を放っている。狙いは武者だが、こればかりは全て狙い通りとはいかず足軽も倒れていく。当然に武者もそれから逃れることはできない。
五千いた朝倉軍のうち、領地へと逃げ帰れたのは三千。損害だけなら軍勢が崩れてもおかしくない割合。真正面からぶつかり合ってそれだけ損害が出てしまえば、軍勢をまとめておくのは難しい。しかし内実は、総大将の討死から始まった壊走に近かった。
始まるまでは数か月と長い睨み合いとなったが、始まってしまえば、あっけない終わりとなった。傾いた戦況は覆るはずもなく、勢いを増して幕府軍へと傾倒していく。
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