第百六十二話 使番
敦賀郡の各所から黒煙が上がっている。
それは狼煙のように若狭国側からも見て取れた。
実際に狼煙のように目立たせるべく忍び火薬を改良したものが使われていたのだが。
そして関峠の麓、朝倉領に入ったすぐのところでも簡易的な狼煙台が木で組まれ煙を上げていた。用意周到である。
自分たちの領地で何か異変が起きている。攻め寄せた朝倉軍がそう思うのにさほど時間はかからなかった。
そこへ伝令役である朝倉家の使番が本陣へと駆け込んできた。そこでは正に軍議の最中であった。
「注進! 御注進!」
「何だ! 早く申せ!」
折しも先ほどから見える黒煙のせいで不安が広がっていたためか、応対した幕下の武士の態度が荒い。
「関峠を騎馬の一団が押し通り朝倉領へと雪崩れ込んでおります! その数五百から六百」
その報告を聞き、「何と……」と驚きの言葉を吐き出す者もいれば、「やはり……」としたり顔の者もいる。反応は様々であるが共通するのは視線を総大将の
その表情を見た印牧は諸将の思惑を察する。そして彼らの願い通りの答えを告げた。
「ここは退き所と心得る。刈田・刈畠は既に済み、一定の目的は達成している。これ以上、長期対陣を続ければ、徒に兵糧を消費するだけだろう。皆々様方には静かに退却の準備を」
「印牧殿がそう申されるのならば仕方ない。我らも総大将のご判断に従いまする」
希望通りの宣言にこれ幸いと同調し始める諸将。朝倉軍の本陣では安堵の空気が漂う。
その雰囲気を苦々しそうに眺めながらも無言を貫く
彼らの気持ちを無視できたが、そうなると自分の領地は安全だからだ言えるのだと不和を招きかねない。ここで朝倉家一門が総大将でないことが裏目に出た。
朝倉家一門がいれば、朝倉家の将来を考え判断するだろう。印牧も総大将を任されるほどだ。その視点で物を考える。
しかし、国人領主たちは違う。己の生活をより良くするために命を対価に戦うのだ。敵地で難なく食料を手に入れた。暦は冬に差し掛かり年の瀬に迫っている。
もう帰ってもと考えてしまっても仕方のないこと。
この立場の違いがある中で、朝倉家のためと押し切れるほど印牧に重みが足りなかった。もともと無理攻めする予定でなかったのもあるだろう。
こうして朝倉軍は退却することに決まった。幸いにして幕府軍は大部分が城に籠っている。関峠の麓まで戻れれば、追撃も限定的になる。悪い判断とも言えなかった。
そこへ更なる報告がもたらされた。
「御注進! 敵勢、突破した関峠を放置。部隊を複数に分け侵攻中。通りかかる村々を放火して回っております!」
そう聞けば被害者となる当事者は多くなる。静かに退却準備をと指示されていたのに、がなり立てながら退却の準備を命じる国人領主たち。上が慌てれば下も慌てる。
本陣から離れた朝倉軍の動揺は、佐柿城からでも見抜かれた。
関峠には、使番として本陣に入り込んだ忍者営業部が戻ってきている。情報が伝わるのは、言わずもがなである。
極め付けに最後の使番が駆け込めば、朝倉軍本陣は騒然となる。
「御注進! 敵勢、砦を避けながら少数に分かれて我が領を移動中。すでに奥深くまで侵攻しております」
「憎たらしいことよ! しかし砦が無事なら、やつらは袋の鼠。分散しているのも都合が良いわ!」
青くなったり赤くなったり。彼らの顔色は忙しい。
しかし、自領を荒らされた復讐が叶うと分かると早く自陣へと戻りたそうにしている。
止めようのない空気感に印牧は退却の陣容を告げる。
「土田殿には
最後の言葉を聞いたか聞かないか。せっかちなものは席を離れていった。
殿を託された土田何某は、比較的落ち着いていた。
「土田殿、貧乏くじを引かせて申し訳ない。領地が南条郡にほど近い貴殿でないと
「致し方ありませんな。しかし、朝倉の殿へ我らの働きをしかとお伝えくだされよ」
「それは必ず。幸いなことに幕府軍の戦意は低い。我が領に侵入してきた兵たちが精兵なのだろう。追撃はそこまで激しいものにならんとは思う」
「そうだと願いたいですな」
「そうだな。では土田殿も退却の準備を」
順当な選択によって退却の手配が進む。
そして、その通りに朝倉軍の退却が始まった。
こうまで幕府軍に都合が良い情報が流れたのは、幕府軍の忍びの腕が卓越していること。そして朝倉家の使番は関峠を越えられなかったことも起因する。
時を同じくして、幕府騎馬隊は関峠を下り、若狭国へと入った。
退却してくる朝倉家に対して、効果的に打撃を与えるべく、戦いにくい細い峠道ではなく機動力を活かせる平野部へと移動したのだった。
こうして若狭戦線は佳境を迎える。
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