第百三十二話 越後の龍
永禄二年 皐月(1559年5月)
山城国 二条法華堂
その人は線の細い人だった。体形は楓さんに似ているかもしれない。
色白の人が日に焼けたような薄い小麦肌。節くれだっていない指。手首も細い。
艶やかな黒髪は女性より美しい。
見た目は、信長さんと同じのように女性的な雰囲気だったが、強く圧してくるプレッシャーを感じることはなかった。むしろ入江の海のように穏やかで清らかな印象を受ける。
女性のような中性的な雰囲気を持つ彼だが、その第一声で男だと認識させられた。
「京へのご帰還、誠におめでとうございまする。臣、
透き通るような奇麗な声で流麗な挨拶をする。しかし、それは女性の声ではなかった。
「遠路はるばる、よう来てくれた。それより兵を千五百も引き連れて来たというではないか。領地は大丈夫なのか?」
多くの兵を連れて来ただけでなく、京で軍隊を維持できるほどの財力が凄いことなんだが。遠征軍で大軍を維持するには相当お金がかかる。特に今回は得られる土地などもない。純粋に赤字である。
「そのような些末なことはどうでも良いのです。将軍たる上様が京におわすことこそ、肝要。我が兵を用いて三好家を追い払ってみせましょう」
「その忠勤、ありがたく思うが、三好長慶は畿内の平穏を作り出しておる。儂はその点、あの者に見習うつもりである。それに長尾殿の領地も心配だ。領地の民も不安に思うだろう」
「敵でありながらも見習うと申されますか」
「ああ、優れた者は敵であろうと見習うことはあると思っておる」
「以前、上様に停戦の仲介をしていただいた武田晴信に対しても同じように思っておりまする。あの者も許せない男ながら、その戦略眼は侮れませぬ。戦となれば負けることはありませぬが、最終的に負けている。そう思わずにはいられぬ男に御座いまする」
軍神 上杉謙信をして、そこまで言わしめる男。確か二人はライバル関係だったような。もう少し仲良くできれば、長尾さんも自由に動けるだろう。
そうしたら幕府の強い味方になってくれそうだ。
それにしても、その武田さんに対して負けることはないと言い切れる自信が凄い。
長尾さんは、なぜそこまで戦に自信が持てるのだろうか。
「そこまでの男か。武田晴信は。そしてその男に戦で負けぬと言い放つ長尾殿は頼もしいことだ。教えてほしいのだが、貴殿はどうしてそこまで強いのだ?」
「私には鷹の眼があるのです」
「鷹の目とな?」
「もちろん。私は戦場にいると上から俯瞰しているように見えるのですよ。敵も味方も。手に取るように」
「それは凄いな。軍神と言われるだけはある」
「僭越ながら、軍神と称されるには面映いものがあります。他人は私が軍勢を手足の如く扱うと言っておりますが、実際は勝手に動く地侍に合わせて敵を崩しているに過ぎません。結果として私が差配してように見えるだけなのですよ」
「軍神の策に従わず勝手に動く者がおるとは驚きだな」
「珍しくありませぬ。人の業とは、他者が支配できるものではありませぬので。先駆けと称した抜け駆け。功名狙いで大将首を狙う。醜い人の欲を抑えることは出来ないのです」
「その代わり貴殿は、欲を抑え込んでいるのだろう?」
「せめて自分だけでも清くありたいと願っておりまして。その点、上様の御高潔な意思とお優しさには憧れを抱いておりました」
「それほどのものかな。自分では分からんが」
「上様の御差配により、越後では米の心配が要らなくなりました。冷夏でも米がある。それだけで民は安心するのです。そして青苧を適切な値で買い上げてくださっております。付随して他国の物産も手に入るようになり、民は豊かになりました。上様のおかげに御座います」
「そう言ってもらえると嬉しいな。儂も世のために役立っておるか」
「間違いなく。すべて上様のおかげに御座いまする。そのお礼と我が意思をお伝えするために、本日参りました次第」
長尾さんは改めて今日の訪いの理由を口にすると居住まいを正した。
「貴殿の意思とな?」
「越後国守護 長尾景虎。戦ばかりしか能の無い男なれども、心は上様と同じ。民を慈しみ、世の安寧を望んでおりまする。我が才、我が軍略、私の持つ全てを上様に捧げます。上様の刃となりて、仇なす敵を打ち払ってみせましょう」
俺の刃か。
忍者営業部を組織して資金集めに奔走していたが、その結果、軍神とも義将とも呼ばれる上杉謙信さんがここまで言ってくれるとは。人生分からないものだな。自分のためにやっていることが、他の人の助けになっていて、それが回り回って自分の助けになるんだから。
経緯を知っている俺からすると過分な言葉だが、感謝の気持ちはありがたく受け取ろう。
「貴殿の気持ちはありがたい。儂を守るために兵を引き連れて来てくれたが、先の通り、三好家と事を構えるつもりはない。それより報告が上がっているが国許で兵が必要になるのだろう? 関東管領職を引き継ぎ、関東の秩序を取り戻して欲しいと」
「はい。関東管領 上杉憲政様からはそのように願われておりますが、身に余るお話。関東管領にならずとも、上様の御為、関東に平穏を齎しまする」
「いや、儂は役職の世襲制度に思うところがある。実力と高い志を持つ者が役職を継ぐべきだ。その点、貴殿ほど適任な男はいないだろう。関東管領 上杉家の家督を継ぐことを許可する。その他、関東に討ち入るのに役立つものがあれば便宜を図ろう。細川藤孝と相談するが良い」
ここまでの話を聞いていれば、藤孝くんは
後は俺から何を返すか。元々、考えていたことがあった。俺の考えに賛同して、平和な世を作る手伝いをしてくれる人に授けたい物。本当は信長さんにもあげたかったんだけどな。
――いつか渡せる日が来るのだろうか。
それよりも今は長尾さんだ。
箪笥の肥やしとなっていた将軍家所蔵の刀。
後生大事に抱え込むよりも、感謝の気持ちを伝えるために彼に贈る。
「足利家に伝わる名刀がある。儂の信頼の証として受け取ってくれ。元々、名刀を家臣に授けることを考えていた。この戦国乱世を切り拓き、平和な世を作るための象徴となるように。そして儂は殺伐とした戦国の世を終わらせ、道徳を重んじる世になって欲しいと願っている。だから今回は特別な刀を贈る。授ける刀に儒教にある五常、つまり人が常に守るべき五つの
「そ、そのような過分な褒美……感謝の念に堪えません」
肩を振るわせつつ、平伏する。予想以上の喜びように驚き半分、安心半分だった。
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