【他】魅入られた者たち

第百二十四話 魔性

 阿波国のとある寺。


 長い間住む者がいない僧房。

 住人はおらずとも、室内は掃き清められている。

 貴人が据わるべき畳が置かれ、人の出入りがあることを示している。


 着飾った女と陰のある男。

 部屋を占拠する二人以外に人影はない。不自然なほどに人のいない境内。

 住職は、この客が来ると本堂に籠ってしまい近寄らない。熱心な仏教徒という訳ではない。持ち込まれた酒を楽しんでいるだけだ。


「殿の御様子は?」

「最近つれない態度だと寂しがっておりますよ」


 貴人と思える女は陰のある男に枝垂しだれかかっている。

 冬の寒さから人肌求めて近寄っているようには見えない。何より、二人の熱気で部屋は蒸れているように思えるのだから。


 身形からして明確に身分差があるにも拘らず、この距離感。大抵の者は、男女の関係になっていると断定するだろう。

 それくらいに、あけすけな態度だった。


「悪いお人だ。殿との間ですら二人も子を産んだとて衰えぬ容色。我慢させるのは酷であろう」

「そういう女にした貴方が言うのですか。意外と繊細なお方なのは間違いありませんね。千鶴丸(三好長治)が守護様の御種か自分の御種か、今でも悩んでおりますくらいに」


 衰えぬ容色とは、この女を評するに適している。

 女は守護様という男との間にも子を産んでおり、三児の母である。

 しかしながら、男の胸をなぞる指は細く美しく、くすみ一つない。少女のような肌の張りを有する手の甲には、過ごしてきた時の流れを感じさせない。


 溢れる色香を除けば少女と言われても納得するだろう。少女と呼ぶには男に慣れ過ぎているのだが、それに気が付ける男であれば、この女には近寄らないだろう。


「儂がした訳ではないだろう。元々そういう女なのだよ。お前さんは。それに千鶴丸は儂の子ということもあるぞ。まったく。悩むくらいなら守護様の女に手を出さねば良いものを。そこまでしておいて、守護様を殺すに殺せず、自害させて茶を濁すとは情けない」

「それも貴方のせいですよ。知らぬとは言わせません」


「知らんなぁ。お前さんのような美姫がいれば、儂がとやかく言わんでも殿の目に留まっておったさ。まさに男を悲劇に引き込む魔性の女だな」

「その魔性の女を好き勝手にできる貴方は何なのです?」


「さあてな。口では説明できん。お望み通り好き勝手させてもらおう」

「駄目です。まだ陽が高いというのに――」


 拒否する言葉と嬌声。

 人の来ない鄙びた寺内には、物の怪たちの組み合う音だけが鳴り響く。




 身だしなみを整える男。


 女は起き上がれず、虚ろになった目が、その様子を眺めている。

 その視線は、別れを惜しんでいるようにも見えるし、早く去って欲しいようにも見える。


 男が着替えている間、女の裸身に掛けられた襦袢が上下している。

 しっとりと湿気を吸った襦袢は、女の体を張り付き艶めかしい。

 誰も彼もが振り返るほどの容色を持つ女。その女があられもない姿で自分を眺めている。そんな様子に何の反応も見せずに準備を終えると僧房を出る。


 別れの言葉すら告げない。

 日が傾きかける頃には、女を置いて男だけが寺を去っていった。



 ※ ※ ※



 近江国

 坂本 本誓寺



 ここには、室町幕府の管領がいる。

 いや、正確には管領だったという気概と矜持だけを有する男だ。


 管領を任命権を有する将軍義輝は、政所執事の職に就く者を免ずるとともに管領の職に就く者も免じた。正確には、彼が任じた者を免じた。従って現在は空位である。


 しかしながら、醜い身内争いに明け暮れ、管領職を奪い取った男からすれば、管領とは、将軍に任じられるものではなく、自分そのものであった。そもそも、その争いは将軍など蚊帳の外だったのだから、そのような誤った勘違いは致し方ないのかもしれない。


 そういう訳で、風の噂で罷免の話が聞こえてこようとも、男は、それを認めず書状の署名には管領と記している。


 彼の者。将軍が和睦するという決定に従わず、配下を連れて坂本まで落ち延びていた。この地は和睦を仲介した六角義賢の勢力圏である。

 それでもこの地に留まり続けられているということは、六角家も和睦に不満があるという証左である。不満を持ちつつも単独では打開できない。そういう後ろ向きな関係で繋がっている。


 かつて管領だった男は、地図を広げ、三好家を追い落とすべく陰謀を巡らせていた。その地図は国境を簡易的に記した日ノ本全土の地図である。


 朱を含んだ筆で三好長慶、足利義輝、武田義統と書き記す。すでに彼らの領地は朱で囲まれている。


 その朱で囲われた領地は、日ノ本を分断するように広がっていた。

 阿波国、摂津国、山城国、若狭国。西と東に分断する勢力圏は侮れない。

 彼もそう思っているようで、持ち替えようとした筆を手に取ることはない。


 どれだけ悩んでいただろうか。

 おもむろに墨を含んだ筆を持つと、国を囲み、名を記した。

 己のいる近江国を起点にぐるりと。


 近江国 六角義賢・六角義治

 越前国 朝倉義景あさくらよしかげ

 丹後国 一色義幸・一色義道

 丹波国 荻野直正(赤井直正)

 伊予国 河野通宣かわのみちのぶ

 河内国 畠山高政


 幾ばくかの思案の後に一度止めていた手を動かした。動いた先は、河内国の畠山高政。その名の横には、力強く、黒々とした文字が書き加えられた。


 ――――根来と。

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