【覇】読み筋

第九十九話 先を読む

永禄元年 文月(1558年7月)

山城国 東寺



 むせ返るほどの緑の香り。

 汗が伝う背。

 姦しい蝉の


 静寂で冷たい空間に落ち入るまで、いくらか時がかかるようになった。

 座禅を組み、己が世界へと入る習慣はいつからできたのであろうか。


 静かなる時。自分だけの世界。

 その世界に浸る喜び。

 そして望まぬ現実。



 六角家と対陣していようとも、京の政務が無くなる訳ではない。

 芥川山城が東寺に変わっただけである。


 六角家は実力のある守護大名。

 しかし、朝廷は押さえている。従って戦の終わり様は、何とでもなる。

 まあ、あの若造関白は三好を支援していると思い込んでおるがな。

 得られるものが同じであれば、どう思われていようと構わん。


 この戦、あまりに楽しく長引かせてしまいそうになるが、そればかりにいられん。

 戦は、兵は死ぬし、金がかかる。

 こちらは勝って当然。兵をぶつけても、根競べをしても勝てる。

 我が三好家の資金力は、六角家と比べようもなく、動員兵力も同様である。


 六角家ともなれば策もなく正面からぶつかってくるほど愚かではない。

 そのおかげで膠着状態が続き、六角家は身動きが取れない。

 逆に我らは畿内の兵だけで対処できている。


 六角義賢ろっかくよしかたよ。本国の阿波から兵を呼び寄せたらどうするつもりだ?

 早くせぬと負けが決まるぞ?


 退くのが身のためだと思うがな。

 後になって焦って動けば、こちらが手痛い一撃を馳走してくれようぞ。

 退くも良し、進むも良し。こちらとしては、どう転んでも問題ない。


 焦って小出しに兵を出してくれば上々。

 そのまま退いても可也。

 総掛かりは悪手であるが、こちらも痛い。


 さてさて、六角の子倅はどう出るか。あそこは老臣どもが力を持ち過ぎ、それぞれの関係が良くないと聞く。親父殿は優れた御方であったが、せっかく遺した家臣を使いこなせんとなると、早晩、三好家に伍することすら厳しくなるであろうな。


 視えるかの。そこまで将来さきが。

 ここで退いては、将来さきでの負けが確定するぞ。

 総掛かりは悪手であろうと、取らねばならん手段。兵数差が少ないうちに乾坤一擲の勝負に賭けるところなのだ。どれだけの被害を受けようとも、ここで勝ち切らねば、追々負ける。今、負けた場合を考えて躊躇していても結末は同じなのだ。


 であるならば、少なかろうと勝ち筋を掴むべく足掻くべきである。

 野戦となれば、儂とて負ける可能性すらある。大負けすれば逃げられずに首を取られるやもしれん。


 六角家が詰みかけた盤面をひっくり返すには、それしかない。



 こちらとしてはその懸念があるので、野戦は避けるべきである。おそらく六角家と直接ぶつかり合うことはないだろう。


 野戦の危険性は分かっている。分かっていても、将軍山城では兵をぶつけあってしまった。

 馬鹿正直に組み合ってやる必要はないのだが、思いのほか、将軍殿がな。

 気になってしまって仕方がなく、構ってやったのだ。


 あやつめ、思っていたより男であったわ。

 あちらの動きを探らせておる透波すっぱからの報告は儂を喜ばせる。


 曰く、軍議を取り仕切り反対派を後方に下げた。

 曰く、城の防備を強化、長期対陣に備えている。

 曰く、比叡山と接触を図っている。


 派手さはないが、存外しっかり考えておるようだ。

 幕臣どもに引っ張られ、一度下がるか、無謀にも攻め込んでくるか。

 どちらかだと思っておったのだがな。


 こちらはどちらでも構わなかったが、しっかりと地に足つけて先を見ているようだ。そうでなければつまらぬ。


 歯ごたえのある男になってきたではないか。だからこそ面白い。


 男が育つ。

 これが面白いと言わずに何と言おう。

 やっと将軍殿も戦国乱世の武将らしくなったわ。


 貴族のような将軍に用はない。いや、邪魔をせぬなら居ても良い。

 しかしそんな者は将軍などではない。

 武士の棟梁たる将軍。その矜持と責任を持たぬ男など不要である。


 それらの覚悟がある者のみが世を取り仕切るべきなのだ。

 ――将軍殿には、そこまでの覚悟がありしや。



 そこまで考えて息を吐く。

 いかん。また期待が高まりすぎておる。

 六角の子倅も期待に値せず、若造関白はもっての外。


 誰も彼も儂の期待に沿う者はおらん。

 思い返してみても、期待に沿えた者など、息子の慶興よしおき(後の義興)と松永久秀まつながひさひでくらいであろうか。


 どちらも味方であったのが良かったのか悪かったのか。

 そのせいでつまらぬ世を生きることになった。

 こんな世なら、さっさと隠居してしまいたいものだ。


 そう考えをまとめると、床下より透波すっぱの頭の声がした。


「殿、和泉国あたりで噂が広がっておりまする」

「内容は?」


「本願寺 参戦の動きあり」

「ふっ。やりよる」


「おそらく六角家の仕業かと」

「六角家にそのように気が利く者はおるまい。あの男の仕業よ」


「あの男とは?」

「良い。下がれ」


 落ちていた気がたかぶる。こうでなくてはな。

 たった五年であの若造がここまで来るか。

 何がそうさせたのか気になるな。……女に尻を叩かれでもしたか。


 下らぬ自分の考えに笑ってしまう。

 あの気位ばかり高い男が女の尻に敷かれるというのもな。

 面白いが考えられん。

 いや、案外そういう男ほど、閨では女に身を任しているのやもしれんな。


 どんな理由にせよ、面白くなるのは歓迎だ。

 さあ、力を見せてみよ。そして、儂を楽しませてくれよ。

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