第五十八話 科学的な知見はありません
「承知仕った! では、これより師弟関係となる。師弟関係に身分の差は考慮せん。儂のことは師匠と呼べ! 良いな?」
「はい。師匠、ご指導宜しくお願い致します」
「うむうむ。では――」
朝までの幸せムードはどこへ行ったんだろうか。そして俺は何故走っているのだろうか。
師弟関係となって最初の指示は師匠と呼ぶこと。そして、その次の指示は、身動きしやすい格好に着替えてそこらを走っておけとのことだった。
いつまで? と問うてみたが、「終わって良いと言うまでじゃ」という無慈悲な回答が得られたのみ。
そもそも、屋敷の周辺を走らないと終わりの声がかからないのではと疑問に思う。
屋敷の側を通る時には、ペースを落として庭の方をチラチラと見てみるのだが、師匠は他のお弟子さんたちと白湯らしきものを飲みながら談笑してる。絶対こっちを見てないと断言できる。
卜伝師匠と師弟関係を結んだことを後悔し始めていると門弟の中でも年嵩で経験豊富そうなお弟子さんが二人駆け寄ってきた。
これはきっと終わりの合図だと思い、俺は足を止めた。
「師からの伝言です。ウロウロされると目障りだから、もっと遠くまで走ってこいとのことです。私たちが村の端に立って、折り返し地点の目印となりますので、そこまで行って帰ってきてください」
無情なる宣告である。屋敷の前を通れる回数は激減するだろう。
一体いつ終わるのやら。
ゼェ、ゼェ。
ししょ~、呼吸の音がおかしくなり始めてますよ~。
この時代、熱中症や運動中には適宜水分を取るって習慣ないよね? それってあまり体に良くないらしいですよ?
カヒュ……カヒュ……。
や、やばい。もう走っているのか歩いているのかわからんくらいにヘロヘロになってきた。なのに足だけは止まることもせず、フラフラと走っている。ここまで来ると止まる力もなくて惰性で走っているような気もする。
今なら、馬小屋の水桶でも顔を突っ込んで、がぶ飲みしたい。猪小屋の水は……さすがにちょっと無理かな。ああ、まだ選り好みできるくらいにはまだ余裕があるのか。
次第に良く分からない思考の世界に入り込んでいく。
「そろそろ終わりにしましょう。あっ、止まってください!」
折り返し地点に辿り着いた俺に待ち望んだ声がする。しかし俺の足は走ることを止めない。というか意識とは別に体が勝手に動いている。
止まれ、止まれと念じるようにして、やっと足が止まった。
「よくぞここまで。失礼ながら途中で音を上げられるかと思っておりました。さあ、いきなり立ち止まらず、ゆっくり歩きながら戻りましょう」
無口そうな兄弟子さんがとても優しい。兄弟子さんの言葉に頷くことすら出来ず、屋敷へと足を動かす。座り込みたいが足を曲げて座りこむ力も出ない。多分、出来るとすれば、前に倒れるか、後ろに倒れるかくらいだろう。
まるで犯人を護送するかのように寄り添われて屋敷へ戻った。
屋敷に戻ると縁側で茶碗を片手に談笑している師匠。
「おう。戻ったか。良い具合に身体が整ったようだな」
どうみても良い具合は通り過ぎているようにしか思えないのですが……。口答えする元気もなくゾンビのように立ち尽くす俺。ちゃんと立っているだけでも偉いと褒めてもらいたい。
「口も利けんか。良し。では次は木刀で素振り。数は……良いと言うまでで良いじゃろ。さあさあ、手を抜かず敵を叩き斬るつもりで全力でやるように」
渡された木刀は修学旅行の土産物屋にあるようなシャープなものではなく、ほとんど削っていないように思える無骨さ。これは木刀というより棍棒である。そもそも形が刀になってない。
いや、君が無骨でいるのも悪くないよ。でもね、もっと細身にシェイプアップするのも良いと思うよ? ほら俺ってスリムな子が好きじゃん? それに最初は軽いのから始めるのが体にも良いらしいしさ。
木刀と会話しながら素振りを繰り返すが、振り終わりに木刀をピシッと止める力はなくて、だらしなく地面を叩きながら振り上げるという動作を繰り返していた。
そうなると当然、師匠からの叱責が飛んでくる。
「なんだ、それは! そんなのでは修行にならぬぞ!」
「もっと腹に力を入れろ! 命のやり取りで楽な時などあるか! しんどい時ほど剣を振れ! 出来なければ自分が死ぬぞ!」
「たわけ! 地面を撃つではない! 刀が可哀そうじゃろ! そんな事しておっては、最後に刀に裏切られるぞ!」
という修行初日でした。
初日の修行はいつ終わったか記憶が定かではない。
気が付いたら、布団の中にいた。おそらく日を跨いでしまったと思われる。
その証拠に、激しい筋肉痛。これは筋肉痛という生易しいものではない。筋断裂と診断されるであろう痛みである。現代であれば全治二週間、自宅安静という、ありがたいお墨付きを得られるであろう。……現代ならば。
何とか這い出してきた俺の様子を見た師匠は、不憫に思ったのか素振りは免除してくれた。……素振りは。
だから俺は走る。俺の体は痛みを訴えかけ、走らない方が良いよ? と激しく、それは激しく伝えてくれているが走っているのである。師匠が「今日は走るだけで良いなんて、何と優しい師匠なんじゃろうか」と言ったから走るのである。
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