第五十六話 至福の時

 和田さんたちに追い立てられるように執務室を後にした俺は、自室へと足を向けた。


 その部屋には、会いたかった女性がいるわけなんだけども、気恥ずかしくて遠回りしたい気も起きてくるわけで。


 中々、入る勇気が出なくて廊下を行ったり来たりしていると……


「ウロウロされてないで早く入ってきてください!」


 帰着の出迎えの雰囲気はどこへやら。お叱りスタートとなってしまった。


「はい。ただいまです」


 何だか朝帰りした旦那さんみたいな感じだな。実際、朝帰りみたいなもんなんだけどさ。

 おかしいなぁ。さっきは甘々な雰囲気だったのに。


「お帰りなさいませ。もう! こんな時まで怒らせないでくださいね!」

「ごめんなさい」


 いや、朝帰りの旦那じゃなくて夜遊びしてきた子供みたいな感じだ。


「本当に心配したんですから。こんな時くらいシャンとしてくださいな。さぁ、戦塵を落としましょう。ついでにおぐしも洗いましょうか」

「じゃあ、お願いします」


 京の御所なら風呂があるそうのだが、朽木谷には無いので、盥に湯を張ってもらって身体を拭う。今日は髪を洗うので、もとどりを切りザンバラ髪である。


 この長い髪を米のとぎ汁で洗い椿油で梳く。現代にいた頃の俺には考えられないくらいの髪の長さだ。女の人っていつもこんな長さの髪を洗うなんて大変だなって思ってしまう。

 でもまあ、人に髪を洗ってもらうのも、櫛で梳いてもらうのも気持ち良くて、ついウトウトしてしまった。


 身体を清めた後は、やっと自室でゆっくり。


「さあ、義輝様。こちらにどうぞ」


 このように楓さんが言うのだが、正座のように座って膝をポンポンしているのです。

 これはあれで正解ですよね? 頭を乗せちゃっていいんですよね?


「えーと、それはあの……良いの?」

「私のような薄っぺらい足がお嫌でしたら別に構いませんけど」


 いえ! 大好物です! と反応するのは不正解であると、この数年で学んだ。

 そのため、素直かつほんのり嬉しそうにするのが正解なのだ。前者の対応では、楓さんが恥ずかしがってやめてしまうからな。


「ありがとう。それじゃあお願いするよ」


 どうだこの対応。周りにいるイケメンたちから学んだ大人感。人間素直が一番です。


 うーむ。恐悦至極なり。

 昨日はみんなと地べたに寝転んでいたのと雲泥の差である。


「では耳のお掃除もしますね」


 動かぬようにと頭に手を置かれ、耳元で楓さんが囁く。

 耳を掃除されるのは、くすぐったい感じと気持ち良さが混ざった感じ。時折、耳を引っ張られる刺激がアクセントです。


 そして反対の顔には、温かくて柔らかな膝の感触。この魅力に抗える人はいないと思う。

 きっと膝枕さえあれば戦国の世も平和になる気がするよ。


「気持ち良くて、このまま寝ちゃいそうだよ」

「お休みになられても構いませんよ」


 素晴らしい提案に激しく同意なのだが、至福の時間を手放してしまうのも惜しい。


「すごく魅力的な提案だけど、この時間を失うのは惜しいからさ。もう少し起きていたいな」

「お疲れなのですから、お休みになられても。また、やって差し上げますから」


「明日でも?」

「明日でも明後日でも構いませんよ」


 なんてこった! 毎日耳掃除券を手に入れたぞ! アリーナ最前列以上のプラチナチケットですよ!


「それは明日以降の活力になりそうだ。実は意識を保つのも精一杯でね。これなら戦に赴く前でも、ぐっすり眠れそうだよ。この前もやってもらえば良かったな」

「それはよろしゅうございました。私としては戦に赴かず、いつものように穏やかに暮らせる日々が嬉しいのですけれど……。お休みなさいませ、義輝様」


 俺は意識を失いかけながら、楓さんの声を聞いた。いつの間にやら耳掃除は終わっていて、優しく頭を撫でられていた。



 翌朝、楓さんの膝枕で寝付いたはずの俺は、いつもの寝床にいた。

 あの体勢からどうやってここまで来たのだろうか?

 もしや、楓さんのお姫様抱っこ? いやいや、女性の身でそれはいくら何でも……でも忍者だし、出来るのかもしれない。

 そもそも立場が逆だろうって話だな。


「おはようございます。朝の準備に取り掛からせていただきます」


 クールな感じに戻ってしまった楓さんが、いつも通りの朝の挨拶をしてきた。

 確変ボーナスタイムは、昨晩で終わってしまったようだ。返す返すも寝落ちしてしまった昨夜の自分が恨めしい。


「おはよう。昨日はありがとう。それとごめんね。重かったでしょ」

「いえ。大丈夫です。さあ、お召し物を変えて歯を磨いてください」


「うん、でもその前にまた膝枕じゃなかった。耳掃除してくれない? ほら、昨日は片耳だけしか出来なかったし」

「あ、朝からですか?!」


 動揺して赤くなる楓さん可愛い。

 最近、楓さんのクールな仮面を打ち破るのが密かな楽しみなのです。


「いつでもって言ってくれたじゃん?」

「いつでもとは言ってません! 明日でも明後日でも、と言ったのです! 仕方ないですね。か、片耳だけですからね!」


 ため息混じりで仕方なさそうな感じの言葉とは裏腹に、いそいそと準備をしてくれる楓さん。

 なんでこんなに可愛いのだろう。


 そして、改めて実感する。

 このプラチナチケットは有効なようだ、と。


 楓さんの準備が整ったようで、再び至福の時間を味わおうかと思ったところで、部屋の外から声が掛かる。


「上様、お目覚めになられましたか? 実は朝早くからお客様が参られておりまして、お待たせしているのです。準備が整いましたら、お越しいただきたく」

「…………わかった。すぐ行く」


 なんと間の悪い! 

 後ろ髪をもの凄く引かれる思いで朝の準備を終える。

 廊下に控えていた藤孝くんの先導で執務室へと向かった。


 寝起きなんだし、もっと遅くに来てくれればと、少し八つ当たりをしながら歩いていたのだが、やたら外が明るい。

 どうやら、すでに昼を過ぎていたらしい。

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