第6話 アリス耐える

 昔のことを思い出して、その心の痛みにとらわれていたところ体を揺さぶられ我にかえった。

 気が付くと日が陰ってきており屋敷に戻ってから随分と時間がたっていたことが分かった。

(これは・・お兄さまか)


 9歳くらいに見える兄のクリストフがベッドわきに座り心配そうに顔を覗き込んでいた。その後ろには母が心配そうな目で見つめている。

「アリス、お医者様にきてもらおう?ぼんやりして・・・話しかけても反応なくて怖かったよ。」

 記憶の中でたったいま、自分の髪をつかんで引き倒し、おなかや背中を蹴り飛ばした当人が、幼い姿で具合を心配して声をかけてくる。

(これは・・・何の茶番なの)


 この不思議な体験にイラつきと混乱を感じながら、二人をみた。

 見下ろされると、また暴力を振るわれるという身体に刻み込まれた恐怖心もよみがえってくる。

 一人になりたかった。ゆっくり考える時間を得るためにも。

 アリスは大きくゆっくり深呼吸をすると身振りでペンを求めた。

「・・・言葉が出ないのか?」

 話しかけられても目を合わす事ができなかった。

「アリス!!」

 心配のあまり大声を出す兄に、びくりと体が震え硬直する。

(う~怖いっ。前のこと体に染みついてるっ)

「クリストフ、アリスがおびえているわ。お医者様を呼ぶから今は責めないであげて頂戴。アリス・・・心配いらないわ。すぐにお医者様に来てもらいますからね。クリストフ、それまでついてあげて。」

 母が涙をこらえながら部屋を出ていこうとしたが、アリスはぶんぶんと首を横に振り兄を指さして一緒に出ていくように伝えた。

 様子のおかしい子供のアリスを一人にはできないと二人は了承しなかった。アリスはシーツを頭の上までかぶると、没交渉を決め込んだ。

(・・・失敗したかも)

 話せないことにしておけば余計な会話や交流をしなくて済むだろうという計算もあったのだがやや裏目に出て医者を呼ばれることになった。

(まあ・・・娘が急におかしくなったらお医者様呼ぶわね。)


 ベッドの中の唯一の安全地帯で考え込む。安全でも何でもないが。

 すぐそばにいる兄は医者が来るまで静かに見守ることに決めたようだ。

 今の兄には申し訳ないことをしていると十分わかっている。この男が自分を虐待したわけでも裏切ったわけでもないのだから。ただ、未来でそうするというだけ・・・でも魂が、身体が拒否をする。

 今の家族も使用人も受け入れられない、この場所自体も。

(もう少し大きければよかったのに。これじゃあ逃げることも難しい・・どうやったら逃げられるかなあ)

 どう考えても、成長するまではどうしようもない。それまで力をつけるしかないと気持ちを奮い立たせた。


 医者が来たときには素直に診察を受けた。馬車で怖い夢を見て、現実と分からなくなっておかしな態度をとってしまったとわびた。

 ただしなぜかわからないが話せなくなったとだけ紙に記した。

 医者も少し脈が早いくらいでどこにも異常が見られないと診断し、何かよほどのストレスがあったのではないかと母に説明していた。

 父が帰宅し、話を聞いて部屋に飛んできて抱きしめようとしたが、全力で拒否をさせてもらった。

(あなたが一番容赦なかったんだよ・・・)

 父の顔を見て心臓がぎりぎりと痛んだ。怖いのか、つらいのか、憎いのか何の感情かもわからない。ただ決して思い出したくないあの日のことが力づくで脳裏に呼び出されてしまう。


 アリスにも5つ年上の婚約者がいた。12歳の時に親に決められた婚約であったが、公爵家次男でおっとりとしたノアは公爵令嬢にしては明るく活発なアリスとは仲がよかった。お互い想いあって幸せな未来が待っているはずだった。

 婚約者のノアは最後までアリスを信じ、事実を解明しようと奔走してくれた。そんなノアをアリスの目の前で殺したのがこの父だ。

 私に自白を強要するために目の前でノアを傷つけ、最後に大きく剣を横に払いノアの首をはねた。


 思い出した瞬間、アリスはベッドに嘔吐した。胃が空になってもずっと吐き続けた。父は慌てふためき再度医者が呼ばれたが、診断結果は同じ。様子を見るしかないと。

(うう~この家で暮らせるかな?ちょっと無理かも・・・)

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