第39話 先駆者の言葉
氷瀬に振られた次の日。今は5時間目の授業中。
昼休みにふらりと屋上に来た俺は、教室に戻る気にもなれなくてそのまま屋上に居座った。
サボりはいつ振りだろうな。なんだかんだ2年生になってからはサボってなかった。これも一重に騒がしい連中と氷瀬攻略のために色々していたからだろう。
湿ったぬるい風を感じながら、昨日のことを回顧する。
「好きがわからない、か」
氷瀬に言われた言葉、それがずっと頭から離れない。
好きって言葉の意味を説明するのは難しい。辞書で調べれば、心が惹かれるとか、気に入るとかある。幅が相当広い。
氷瀬の言う好きってのは、きっと恋愛方面の好きだ。
でもそれがどんなものなのかわからない。俺は好きって感情を知っている。氷瀬への滾る愛情は今でも枯れることを知らない。
だから、これからどうすればいいのか道に迷ってしまった。
氷瀬が見せた感情のない目。あれが本来の彼女の姿なんだろうか。
学校で見せてきた、俺の前で見せてきた氷瀬の姿は、偽物だったんだろうか。
「知ったつもりで、何も知らなかったわけだ」
氷瀬と仲良くなったつもりだった。友達と認めてくれて、近い存在になれていると自惚れていた。
そうじゃなかった。俺はまだ、彼女に何も知らなかったのかもしれない。
――ガチャリ。
不意に屋上の入口で音がして、俺は慌てて振り返った。
今は授業中。生徒がこんな屋上まで来るとは思えない。だから来るなら教師だけ。
まずい。バレたら俺の憩いの場所が封印されてしまう。どうごまかすか?
「サボりとは感心しないな。不良は教育しちまうぞ?」
現れたのは黒いズボンにポロシャツを着た夏を感じさせる男。我らがクラスの担任、やっちーだった。
言葉ほどの威圧感を感じない。
「そう警戒するなよ。俺はお前をどうこうするつもりはねぇよ」
やっちーはゆっくりとした足取りで俺に近づいてくる。
「本当ですか?」
「信用ないなぁ。俺は結構お前らとの信頼関係を大事にしてるんだぜ?」
やがてやっちーは俺の隣に立って、街並みを見下ろした。
「今はお前がそれを持ってるんだな」
「今は?」
その言葉、まるで以前の持ち主を知っているような口ぶり。
疑問の目をやっちーに向ければ、彼はニッと笑った。
「以前の持ち主にカギをあげたの、俺だからさ」
「え?」
おいおい。先輩俺に嘘つきやがったな。なにが拾っただよ。普通に貰ってんじゃねぇか。
まあ、鵜呑みにした俺も悪いか。正直、カギをどう手に入れたとかは興味ないしな。
「去年、どうにかしてやりたい奴がいてさ。そいつのためにちょっとばかし悪いことしたんだよ」
「それが屋上のカギ?」
「ああ、あいつにカギをあげて、そのあと教頭にカギ失くしたって言って合鍵を作ってもらった」
「めっちゃ怒られそう」
教頭は中々頭が固そうだからな。カギ失くしたとか言ったら死ぬほど怒りそう。
ストレスかなんか知らんけど、その結果が頭皮にも現れている。
「めっちゃ怒られたぞ。あそこまで怒られたのは教師をやってきて初めてだな」
怒られたのに、やっちーはどこか楽しそうに語る。
「それなのになんで渡したんですか? 自分が困るってわかってて」
「生徒のためならそれくらい大したことねぇよ。俺が怒られるだけで一人の生徒が救われるかもしれないなら、俺は迷わずその選択をする。それが教師なんだよ」
やっちーはそう言ってズボンのポケットから煙草の包みのようなものを取り出す。
きっと、やっちーが生徒に人気なのはこういうところだ。自分の身を顧みず、生徒のためを想って行動する。その姿勢がみんなの心を掴んでいるんだろう。本当に生徒のためを想って行動してくれる人は、みんな感覚的に理解する。時には口で綺麗事だけ言う人もいるだろう。だけどやっちーはそうじゃないって、みんな理解しているんだ。
だからみんなやっちーを頼る。そしてやっちーはそれに応える。
理想の教師。やっちーは自分が思う理想の姿であろうと頑張っているのかもしれない。こうして陰で怒られたりするのを笑えるくらいに覚悟が決まっている。
自分の生きたいように生きている大人。だけど俺にはまねできない生き方をしている大人。
格好いい。素直にそう思った俺がいた。
「屋上でたばこですか? やっちーも結構不良教師なんですね」
そんな気持ちを悟らせないように、わざと軽口っぽく言ってみる。
「バカ言え。そんなことするわけねぇだろ。よく見ろよ」
改めてたばこの包みを凝視れば、それはたばこの包みじゃなくて、たばこのようなあの駄菓子だった。
「シガレットって……紛らわしいなぁ」
「たまにタバコ吸ってる感覚を味わいたくなってな。そんなとき、屋上は丁度いいからこうして遊びに行くんだよ。先客がいるとは思わなかったけど」
お前も吸うか? と言って、やっちーは俺に1本渡してきた。言い方よ。食うかでいいだろそこは。
遠目から見られたら絶対勘違いされるやつ。だけどここには俺とやっちーしかいないから問題ない。
受け取って、煙草を吸うみたいに人差し指と中指で挟んで咥えてみた。
「お、意外と様になってるじゃん」
「やっちーは似合わないな」
「それ前にあいつにも言われたなぁ」
「あいつって奥さんのことですか?」
「そうだよ。ちょっと格好つけてみたら大笑いされた」
「仲いいんですね」
「まあな。俺たちは色々あったから。その分絆も強いんだよ」
昔を懐かしむように目を細めて、やっちーは遠くを眺める。その眼は、とても優し気だった。
「なあやっちー。好きがわからないって、どういうことかわかる?」
昨日氷瀬に言われたことを訊いてみた。
自分ではわからないこと。だけど人生の先輩であるやっちーなら何か答えに繋がりそうなヒントをくれるかもしれない。
「また哲学的なことを……高校生の悩みかそれ?」
「告白したらそう言われたんですよ。俺には全くわからないから大人の力を使おうかと」
「告白……お前意外と青春してんのな」
「どういうことですか?」
やっちーは答えてくれなかった。
え、なに? 俺が青春してるの意外だった? こう見えても俺健全な男子高校生なんですわ。そりゃ青春もしますって。真っ盛りですって。
「それにしても、好きがわかならない、か……俺にもわかんねぇな!」
ちょっと悩む素振りを見せてから、やっちーはカラッと笑って言い切った。
「俺はずっと一人の女を愛していたから、好きがわからないことがわからねぇ」
「俺と一緒じゃん」
「わかんねぇもんはわかんねぇんだよ。でもな野中、お前はそこから先へ踏み込んだのか?」
「は?」
「好きがわからない。お前はそれで終わりにしたのか? どうして好きがわからないのか、相手にちゃんと訊いたのか?」
「まだ訊いてないですけど……」
昨日は氷瀬から、好きがわからない。だから野中君とは付き合えない。と言われてそこで終わった。
一緒に帰っても気まずくなるだけだよね。そう言った氷瀬の言葉に従って、その場で俺たちは別れた。
深く訊くなんてしていない。好きがわからない。氷瀬がそう言ったならもうそこまでの話なんだ。
「野中……人を理解したいなら、心と心でぶつかれ。その先にしか本当の答えはない」
「どうしたんですか急に」
「人生の先輩からのアドバイス」
どこまでも優しい瞳で、やっちーは俺を見た。
「でも、お前少し変わったよな」
「そうですか? 全然そんな感じしないけど」
「ちょっと前のお前だったら、俺にそんなこと訊いてこなかったろうよ。お前は一人でなんでも解決しようとするタイプだからな」
ある日誰かが言っていた。やっちーは本当に生徒のことをよく見ていると。
へぇ、そうなんだ程度で聞き流していたこと。
「お前は強い。俺が教えてきた生徒の中でも、相当強い部類に入る人間だ」
「腕っぷしは全然強くないですよ?」
「そういうんじゃないってわかってんだろ?」
おどけて口笛でも吹いてやろうかと思ったけど、音が出なかった。普段からの練習不足。
やっちーはため息混じりに笑みをこぼした。
「心の話だよ。お前くらいの歳で、そこまで自分を持っているやつは少ない。だからお前とウマが合う奴はそうそう現れないんだよ」
「べつにいなくたって俺は困らないですよ」
「お前にとってはそうかもな。でもな、だからこそもったいないと俺は思ってたんだよ」
ポキっという乾いた音が屋上に響く。
やっちーが咥えていたシガレットをかみ砕いた音。既に4本目。ヘビースモーカー。
「お前みたいに強い人間が、もっと周りに興味を持つようになれば最強なのになってさ。まあ何があったか知らねぇけど、良い方向に成長してるみたいだな。安心安心」
「成長?」
「他人に何かを託すようになった。俺に意見を求めたみたいにな。ちょっと前のお前だったら、きっと俺に相談はしてねぇよ」
「そうですか?」
「そうだよ。俺はそれが嬉しい」
やっちーの言ってることはなんとなくわかる。
俺は基本的に自分を信じているし、自分のことは自分で決めていた。
他人に何かを委ねるなんて基本しない。他人は他人。俺は俺だ。
俺が変わったって言うなら、それこそ氷瀬に告白未遂をして、そんで雛森に出会ってからだ。
自分の行いを反省して、そんで他人の親子げんかに介入したり、なんか自己犠牲みたいなことしたり。普段の俺ならやらないことをやった。
それでも、十波の件以外は不思議と嫌ではなかったけどな。十波のあれはマジで無理。早く解放してほしい。
そうだな。今は人に歩み寄る姿勢も悪くないって思ってる。十波以外は。
「その調子でもっと他人と深く関われ。それはきっとお前の糧になる」
講義は以上だ。そう言って、やっちーは食べ終えたシガレットの箱をくしゃりと潰してポケットに突っ込んだ。
「屋上のカギ、どうして先輩に渡したんですか?」
去って行くやっちーの背中に語りかける。
「そうだな……屋上は本来解放されるべきだって思ってたのもあるけど、でもまあ、あいつに渡したのは俺がただそうした方がいいと思っただけだな。必要なやつに受け継がれていく魔法の鍵。そういう遊びがあった方が面白いとは思わないか?」
振り返ったやっちーはなぜか嬉しそうだった。
「なんで喜んでるんですか?」
「あいつがお前に鍵を渡したから」
「答えになってないですよ――」
ちょっと小馬鹿にするように、俺はやっちーの本名を呼んでみた。
普段呼んでないせいか違和感がエグい。
「本名なのにその呼ばれ方慣れねぇな。俺も、なんだかんだやっちーを受け入れてるってことか」
「じゃあやっぱりやっちーだな」
「だからせめて先生はつけろって」
やっちーはガシガシと自分の頭を掻いた。
「この調子で、お前がもっと他人と関わってくれるようになると俺は嬉しいよ。人は一人じゃ生きられないんだからさ」
その言葉を置いて、やっちーはそのまま屋上から姿を消した。
残された俺の右手には五体満足のシガレット。
たばこみたいに咥えて、今度はちゃんと齧った。
「ココア味か」
その味を堪能しながら、俺は6時間目の授業もサボった。
「生徒に人気な理由がわかったよ、やっちー先生」
閉まっている屋上の扉に向かって、ぽつり呟いた。
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