第12話 雛森夕陽はときめかない

「は?」


「正直に言いますね。結構やばいです」


 瞬間、世界が止まる音が聞こえた。気がした。


「冗談だよな?」


「こんなはしたない冗談は言いませんよ?」


「冗談であってほしかった……」


 え? トイレ? ないよここには? 見りゃわかるもんな。


 雛森はもじもじと太ももを擦りつけている。いや、勘弁しろよマジで……。


 なんかエッチだなぁ、とかそんな感情が出てくるかと思ったけど全然そんなことなかった。


 この後起こるであろう最悪の景色を想像して、表情が歪むだけだった。


「先輩、マジでやばいです! 助けてください!?」


 雛森は立ち上がり、俺の体を掴んでブンブンと揺らす。


「無茶言うな! 簡単に出られたらこんなことになってないんだよ!」


「そんな! こんなとこで粗相するとか死んでも嫌ですよ!?」


「俺も女子が粗相した空間で一夜過ごしたくないんだけど!?」


「助けてください先輩! もういっそ口で受け止めてくださいよ!?」


「お前マジでふざけんなよ!? 俺がそんな性癖もってるわけねぇだろ!?」


「じゃあどうすればいいんですか!? そろそろやばいですよ!?」


「せめて考えうる一番端っこでバケツでも探して催してくれ……俺は見なかったことにするから……」


「諦めないでくださいよ! 目を逸らさないでください!」


「もとはと言えばお前のせいだろ! 自分を恨めよ!」


「ひどい! ひどいですよ先輩!?」


「じゃあ俺は端っこで見ないようにするから――」


 立ち上がった瞬間、ずっと座っていたせいか足がしびれてうまく動けない。


 だけど雛森は変わらず俺を揺すり続ける。そうするとどうなるか。


「ちょ――」


「わ――」


 答えは転倒。俺は雛森を押し倒すように地面に倒れる。


 だけど、雛森を潰さないように、俺は地面に手を着いてギリギリのところで踏みとどまった。


「いたた……地面固すぎで――」


 目と目が合う。一人は下から見上げ、一人は上から見下ろして。


 物差し一個分もない距離に、雛森の顔がある。幼いながらも可愛さを合わせ持った顔。


 彼女の吐息が俺の顔に当たるような、そのくらいの距離感。


 倒れ込んだとき、俺は予想外のことで心臓が跳ねて、今もその胸は高鳴っている。


 そしてその視線の先には、微妙に顔を赤らめている雛森の顔。


 吊り橋効果。ドキドキする状況にいることで、そのドキドキを相手への好意や恋愛感情だと思い込んでしまう現象。 


「先輩、私今ドキドキしています。先輩は?」


「正直ドキドキしてる」


「それはどっちのドキドキですか?」


 どっち? 今このドキドキは、はたしてどちらのドキドキだろうか。


「ちなみに私のドキドキは、ちょっと漏らしてしまったかもしれない恐怖のドキドキです」


「…………」


 一気に冷めた。ってことはこれは不意に倒れ込んだドキドキだわ。


 危ない。本当に錯覚するところだった。


 その時、体育倉庫の入口がガチャリと音を立てる。続いて、油の差されてない扉が、高い唸り声をあげながらゆっくりと開く。眩しさに目を細める。


「「え……?」」


 声がシンクロした。俺と雛森の声ではない。ひとつは俺で正しい。だけどもうひとつは扉を開けた先にいた人だった。


 夕焼けに染まる空が銀髪の美しさをより彩る。氷瀬玲奈その人だった。


「ひ、氷瀬……なんで?」


 なんで体育倉庫の扉を氷瀬が開けてんの?


「氷瀬、中に人はいたか? なにしてんだ野中?」


 氷瀬の奥から出てきたのはわれらが担任やっちーだった。その手には雛森がさっき見せた様なカギを持っていた。


 きっと贋作ではなく、本物のカギ。


 やっちーは怪訝そうな瞳で俺を見下ろす。


「なにしてんだって……はっ――」


 そこでハッとしたのは、今俺が置かれている状況を完全に理解したから。


 不慮の事故とは言え、俺はいま雛森の上に覆いかぶさっている状況。はたから見たら、人気のない密室で俺が雛森を押し倒している状況に見える。いや、それにしか見えない。


「あの……体育倉庫が閉まってるのに騒がしいって話が聞こえたからもしかしたらって先生に声をかけたんだけど……」


 氷瀬の顔がみるみるうちに赤くなっていく。


 まずい、間違いなくこれは誤解されているやつだ。


「ひ、氷瀬――」


「お、お邪魔しました!」


 俺が弁明する前に、氷瀬は顔を真っ赤にして全力で視界から消えた。


 それを見て、俺は飛び跳ねるように起き上がって体育倉庫を出る。そして小さくなっていく氷瀬の背中に向かって全力で叫んだ。


「氷瀬! 違うんだ氷瀬! これは違うんだああああああああああ!」


 叫んでも、彼女は振りかえらなかった。


「どう違うのか、ちゃんと説明してくれるよな? 学校の中で不順異性交遊はやめてくれよ?」


 呆れたように言うやっちー。違う、違うんだよ。


 懇切丁寧に事情を説明したら、やっちーは今回だけだぞと笑いながら許してくれた。その辺の頭は柔らかいから助かる。他の先生だったら一発KOだったかも。


 それでも、氷瀬には誤解されたまま。


 ちなみに、雛森はギリギリ最悪の事態は免れたようだった。


 結局俺だけが酷い目にあってんじゃん。泣きそう。ぴえん。

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