第8話 1歩前進?

 委員会決めから数日経った放課後。俺は図書室で返却された本の整理を行っていた。


 背表紙に振られた管理番号を頼りに、元々あった場所へ本を返していく。


 図書室特有の紙の香りが鼻をくすぐる。自習スペースでは、静かに勉強している人が何人かいた。偉い! 俺は図書室で勉強とか一切してこなかった人間だから。


 本を読んでいる人もいる。だけど、その全員が声を発しない。本当に人がいるのかわからないくらい静かな空間。紙を捲る音でさえ聞こえてきそうだ。


 そんな中、本を戻しながらも俺の視線は、受付で静かに読書を嗜んでいる銀色の女神へ吸い寄せられていた。


 今日は俺と氷瀬で図書委員の仕事。女子では高い所に手が届かないだろうと本の整理は俺が率先して引き受けた。


 氷瀬は受付で待機して、たまに本を借りたい生徒の相手をしている。それ以外の時は今みたいに自分の本を読んでいる。


 静かに本を読む氷瀬の姿は、まるで絵画を切り出したような神聖さを感じた。


 っといけない。仕事仕事。この仕事が終われば俺も受付で時間になるまで待機だからな。


 近接の要因。それを実践するためにも、早く仕事を終わらせないと。そして、やっと話すことができそうだ。


 さすがの十波も委員会の仕事までは邪魔しに来ないらしい。よかったよかった。


 仕事を終わらせて、俺は氷瀬の隣に腰かけた。隣って言っても人二人分の距離はある。


 氷瀬は一瞬だけ俺に目配せしたけど、すぐに自分の世界に戻って行った。


「なあ、氷瀬――」


 話しかけようとしたら、氷瀬が無言で人差し指を口に当てたので、俺は慌てて口を噤んだ。


 人がいるから静かに。ジェスチャーで全て伝わってきた。


 そうだな。人がいるのに図書委員が話しかけるのはマナー違反だよな。


 俺も無言で両手を合わせて頭を下げると、氷瀬はわずかに微笑んで本の世界に帰ってた。


 か、可愛すぎる。いいんですか? あの微笑みをこんな近くで見て? 幸せ。


 幸せを感じつつ、それでも人が来なければ手持無沙汰なので、俺はスマホをいじって時間を潰した。


 隣で静かに本を読む氷瀬がいる。それだけで、俺の胸は温かい気持ちでいっぱいになって、心臓の鼓動は早くなる。


 氷瀬が好き。この心は間違いない。この時間がずっと続いてくれたっていいと思えた。


 でも時間は流れて、下校時間の鐘が鳴り、部活をしていない生徒は帰宅の時間になる。


 図書室にいる人達に声掛けをして、一応図書室の中を点検してから解散になる。


「お疲れさま」


「……お、おう」


 最後、二人きりになったタイミングで氷瀬が話しかけてきてくれた。


 まさか氷瀬から話しかけられるとは思ってなくて、反応が気持ち悪くなった。


 いやさ、ゴミカスに女神が話しかけてくるとは思わないじゃん。焦るわ普通に。


 でも、これは僥倖だ。ケルベロスがいないうちに、ちゃんと言わないと。


「その……氷瀬、ごめん!」


 俺は思いっきり頭を下げた。


「あの日は、お前の気持ちを全然考えてない俺の独りよがりなものだった。ごめん! 普通に考えたらあんな場所で人目を集めるのは嫌だよな。あの時の俺はそんな簡単なことにも気づかないで、自分の気持ちだけ優先させた。だからごめん! あとべつにあいつは彼女でもなんでもないから!」


 頭を下げたまま、俺はずっと氷瀬に謝りたかったことをまくし立てた。


 恋は心眼とか言ったけど、しっかり盲目だった俺の恋。


 彼女の気持ちを何も考えない俺の独りよがりな想い。それは間違っていた。


 謝ったって起きてしまったことは変えられないけど、ゴミカスのままでも、謝りたかった。


「大丈夫だよ」


 その声に顔を上げれば、氷瀬は静かに微笑んでいた。


「…………」


 氷瀬はそれ以上なにも言わなかった。だけど、その言葉が聞けただけで俺としては満足だった。


 大丈夫。氷瀬はやっぱり優しい。罵倒してくれたって笑顔で受け止める自信あるぜ?


 また、静かな時間が流れる。


「カギ、任せていいかな?」


「あ、ああ」


 その沈黙を破ったのは氷瀬だった。


 ぺこりと丁寧に頭を下げた後、ゆっくりと図書室を去って行った。


「ま、そうよな」


 普通ならあんな告白してきた奴とは口だって利きたくないだろう。それでも、俺と会話をしてくれた。十分だ。


 もしかしてこれが近接の要因の恩恵なのか? だとしたらためになるな恋愛心理学。ちょっと半信半疑だったけど、もう少し真面目に信じてみるか。


 図書室のカギを職員室に返しに行ったら、やっち―にニヤニヤしていることを突っ込まれた。お返しにやっちーも奥様の話してるときニヤニヤしてますよって言ってやったら、頭を小突かれた。暴力反対。


 次の日の教室。


「あんたも懲りないわね!」


 日課の氷瀬への挨拶を行おうとすると十波に邪魔をされる。


 慣れって凄いよな。もう最近では十波の邪魔も一種の挨拶みたいに感じるようになっていた。


 だから無視して俺は氷瀬に話しかけた。


「氷瀬、おはよう!」


 笑顔で挨拶。単純接触の原理は繰り返しが重要。


「ちょ! 無視すんなや!」


 面倒くさいなお前。相手にするだけ時間の無駄って俺は学習したんだよ。


「おはよう」


「……え?」


 幻聴じゃない。今確かに氷瀬の口から聞こえた。


 顔は俺に向けてくれないけど、それでも確かに挨拶をしてくれた。


「チッ……」


 おい。舌打ちすんなよ十波。


 ま、今最高に気分いいから聞き流してやるよ。氷瀬に感謝しろよ?


 この作戦、意外と成果出てるじゃん。


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