第6話 その名は恋愛心理学③
いいですか伊織先輩、好感度を上げるうえでまず大事なのは笑顔です。といったのはあの日の雛森。
仏頂面でいるよりも、笑顔でいる方が人からの好感度は上がりやすいらしい。恋愛心理学に則らなくても、それはなんとなくわかる。笑ってるやつと真顔のやつ。話かけたいのはどっちだ、といったら多数は笑顔の奴を選ぶだろう。
しかしそうして感覚的にわかることでも、心理学でしっかり実証されているようだ。名前も知らない心理学者の実験によれば、卒業写真で笑顔の人の方が、真顔でいた人よりも早く結婚できるらしい。ほんとかよ?
そんなわけで俺はまず地に落ちているだろう俺の評価を数ミリ上げるため、氷瀬に笑顔で挨拶しようとしたのだが。
「あんた……どの面下げて玲奈に挨拶する気なのよ?」
地獄の番犬ケルベロス……じゃなかった。氷瀬のボディーガードを自称する十波に阻まれる。
今にも噛みつきそうな勢いで睨まれる。なんか唸り声っぽいのも聞こえるし。
「どの面って……この面しかないけど?」
番犬ケルベロスの圧に負けないように食い下がる。十波の顔はひとつしかないのに、ケルベロスの顔3つ分の圧を一人で持っている。こんなんが3人もいたらさすがに胃もたれするわ。
正直十波と絡むつもりは微塵もないが、ここで引き下がってたら一生好感度が地に落ちたままだ。
せめて一言だけでも会話を交わしたいところ。
ピキッている血管を無視して笑顔を保つ。
「恋人がいるくせに他の女に告白するゴミは玲奈へ近寄らせない!」
「いや、それ誤解だから。あれはただの後輩だよ」
「ただの後輩は好意的に抱きつかないでしょ!」
「え? お前もあれ見てたの?」
「当たり前でしょ!」
当たり前なのか。でも氷瀬大好きな十波のことだから見られてもおかしくないな。つか、本当に色んな人に見られてたんだな。いやぁ……マジで氷瀬に申し訳ないことしたな。
その氷瀬は俺と十波のにらみ合いをオロオロと見ていた。不安そうな顔も最高に可愛いな。愛してるぜ、氷瀬!
口にしたら、十波に噛み殺されるから心の中だけで留めておく。
「まあそう言われたらそうなんだけどさ。あいつとはマジでなんもないから。これ以上デマを拡散するのはやめろ」
「デマって……そんなの信じられるわけないでしょ!」
「なんで?」
「なんでって……」
俺が切り返すと、十波は一瞬言い淀んだ。
「学校全体で噂になってるんだからそうとしか言えないでしょ!」
「そうやって多数の言葉に飲まれるのは良くないぞ十波。ちゃんと真実は自分の目で見極めろよ」
「うるさいわね! とにかくあんたは玲奈に近寄らせない!」
もう、そんなに吠えるなよ。弱い犬ほどよく吠えるって知ってるか? いや、ケルベロスは弱くないよな。犬界隈では最強格だよなあれ。そもそもあれは犬扱いでいいのか?
「へいへい。じゃあこっからするよ。氷瀬、おはよう。それだけ」
千里の道も一歩から。何もしなければ何も変わらない。例え氷瀬に嫌われていようと、俺は歩みを止めるわけにはいかない。十波はうるさいけど、氷瀬の口からまだ「嫌い」とは言われていない。それだけで生きる気力にはなる。
満足して、俺は自分の席へ向かう。
これ以上十波の声を聴いてたら頭がおかしくなりそうだし。
なんつうか、俺は十波のことが好きじゃないんだよな。理由は単純。俺の大好きな氷瀬をほぼ独占しているから。
氷瀬に変な男が近づかないっていう点では、その存在のありがたさを認めよう。でも、それだけだから。それ以外は口うるさいボディガードだ。
「おはよう」
氷瀬の横を通り過ぎて自分の席に向かっていたら、十波ではない声が聞こえた気がした。まず、十波が俺に挨拶するわけないから。
まさか、氷瀬? 振り返っても、まだ俺を睨んでいる十波の姿があるだけで、氷瀬は前を向いていた。
氷瀬のことが好きすぎて幻聴が聞こえたか。でもまあ、幻聴でも聞こえないよりマシ。
今日はいい日になりそうだ。
放課後の屋上。次なる作戦会議の時間。
「お前が言った単純接触の原理、だっけ? ちゃんと実践したぞ。番犬はキャンキャンうるさかったけど」
バウバウ。の方がよかったかな。まあいいや。
「番犬?」
「それはこっちの話。女神には簡単に接触させてくれないんだよ」
その一端は雛森にもあるが、いつまでもその話題を擦っても仕方ない。
あれは事故。悲しすぎる事故。そう思うことにした。
やり方はともかくとして、今の雛森は真剣に協力してくれている。そんな彼女のことを悪く言うのはよくない。
「はぁ……」
雛森はよくわかっていなさそうに首を捻る。
「でも、ちゃんと実践してくれたようでうれしいです!」
「やるからにはやらないとな」
単純接触の原理。恋愛心理学で言えば、顔を合わせる回数が多いほど相手に対する好意が増すということ。
だから俺はまず毎日氷瀬へ笑顔で挨拶することから始めてみることにした。塵も積もれば、いつかは氷瀬とちゃんと話せるようになると願って。
全然話す間柄じゃないのに告白したんだよな俺。思い出すたびに死にたくなるんだわ。
ここは屋上。丁度いいところに乗り越えられそうなフェンスが。氷瀬が居なかったらグッバイ現世してた。氷瀬、君は一人の男の命を繋ぎとめているよ。
「ただなぁ……挨拶だけだと時間がかかるなぁ」
1年という時間は長いようで短い。牛歩戦術も仕方なしだけど、気づいたら1年が経ってそうな予感さえする。
であるならば、やはり一緒のクラスになれたこの1年が勝負だ。
「そう言われると思って、当然次の作戦も考えてあります!」
そんな俺の心に呼応したのか、雛森がご自慢の恋愛心理学ノートのページをめくった。
「ひ、雛森……お前……」
「恋のキューピッドたるもの、常に2手3手先を考えているのです!」
「さすが恋のキューピッド。で、作戦は?」
「題して、『近接の要因』作戦です!」
ふふん、と毎回自慢げに言ってくるが、俺は解説がないとなにひとつわからない。
「いつも通り解説お願いします」
「これはですね、近くにいる人に対しては好意を持ちやすい傾向にある。という人間の心理を利用する作戦です。クラス替えの時とか、まず近くにいる人と仲良くなった経験ありませんか?」
「……ある」
恭平とかまさにそれ。まあそれ以降増えてないけど。
「それが『近接の要因』です!」
「氷瀬が近くにいる状況を作って、好意を持ってもらいやすい環境を作ろうって作戦なわけだな」
「そういうことです。そしてこれは単純接触の原理にも繋がる、一石二鳥の作戦です」
「なるほど、理解した。で、どうやって氷瀬と近接すればいいんだ?」
近接の要因は理解した。なるほどねって思った。でも、大事なところの説明がなかったんだよな。どうやって? ってところがさ。
「…………」
おい、そこで無言になるな雛森。笑顔のままで固まるなおい!
今の席は氷瀬と遠い。席替えもクラス替えしたばかりだから当分先だろう。
そんな氷瀬とどうやって近接すればいい? 昼ご飯一緒しようぜ! とか言えばいいの? そんなんできたらこの恋愛心理学作戦に頼るまでもなくワンチャンスある状況だよ。
そして何が厄介って、番犬十波の存在だ。あれがいる限り俺は氷瀬に一定の距離以上近づくことができない。
氷瀬は部活にも入っていない。
そんな氷瀬とどうやってお近づきになればいい。
「伊織先輩、ひとつだけ近接できる方法があります」
「なにかあるのか?」
「この時期にあるイベント、それは委員会決めです。氷瀬先輩と同じ委員会になれれば、きっとチャンスは必ず来るはずです」
「お前死ぬほど難易度高いこと言ってるけど……」
委員会決め。決められた定員の枠を奪い合う、ないし押し付け合うイベント。クラス委員だけはクラス替え当日に決め、それ以外の委員は今日決める。
雛森の言う通り、氷瀬と同じ委員になれば一緒に居られるチャンスは来るだろう。
だが、越えるべき壁が多い。
まず、氷瀬がどんな委員になりたいかを知る必要がある。委員決めは挙手制で、男女同時に行われる。氷瀬の入りたい委員が人気のないものであればいいが、そうでない場合、一度スルーしてしまったらおしまいだ。
そして、人気なものは往々にして狭い枠を奪い合いことになる。それを超えなきゃいけない。最悪男女でじゃんけんして、俺も氷瀬も勝たなきゃいけない状況になる。
難易度がやばい。
だが、俺の心はその難易度の高さに折れることなく、むしろ燃え上がっている。
「でも、その方が燃えるよな。いいじゃん。これで同じ委員になれたら、それはもう運命だろ」
「その調子です伊織先輩! これが成功するかで今後の展開は絶対変わりますよ! だから使えるものはなんでも使って一緒の委員になってくださいね!」
「お前恋愛心理学が絡むと、ちょいちょい言葉が危ないんだよな。でも任せろ。俺の愛を証明してやる!」
「頑張ってください!」
おお! と二人で気合を入れた。
委員会決め、絶対に間違えられない戦いが始まろうとしていた。
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