第5話 その名は恋愛心理学②
もう完璧な作戦です、と言いたげな雛森であったが、その実俺には何がなんだかわからなかった。
「その恋愛心理学とやらが氷瀬と付き合うのにどう影響するんだ?」
「伊織先輩。私、恋のキューピッドになるため、家で色々調べたら理解してしまったんですよ」
「なにを?」
「恋愛なんて、所詮学問で解決できてしまうと……心理学に基づいて行動すれば、氷瀬先輩と付き合うなんてちょちょいのちょいですよ!」
「……お前わりと碌でもないこと言ってるぞ?」
こいつ全世界の恋する男女に喧嘩売ったよな今。
恋愛ってのは、相手が自分のことどう思うかなとか、話しかけたいけど話しかけられないとか、そんな心の機微を含めて嬉しくなったり悲しくなったりするものだ。
俺だって氷瀬のことを考えると……嬉しくなることしかないな。まあ、ほら、俺の氷瀬への愛は一般のそれとは違うからね。ちょっと一般論では当てはまらないかな?
「どこがですか? 恋のキューピッドの仕事を全うするために、これ以上ないと思いますが?」
え? なにこいつ機械なの? 心ないの?
「いやほら、お前の好きな奴なんて学問の力で行けば余裕ですよ。みたいに聞こえてさ、なんか気持ちを感じないんだけど」
「そうは言いますけど、気持ち程度で伊織先輩が氷瀬先輩と付き合えるなら苦労しないですよね。適当に頑張れというならミジンコでもできますよ。恋のキューピッドを名乗るのであれば、しっかりと理論に基づいたアシストをしなくてはなりません」
「…………」
「だからこそ学問の力ですよ!」
ちょっとさ……恋のキューピッドにしては提案してくるものがドライなんだけど。温かみ感じないんだけど。もうハートの矢の先端を研磨して尖らせまくってるんだけど! 言葉の矢が俺に突き刺さってるんだよ……。殺意高いって今の言葉。
お前の恋は学問の力で成就させてやる、とか言われても喜んでいいのかわかんねぇよ。
それに俺の気持ち程度ってさ……そこまで言わなくてもいいじゃん。でも今の俺の評価を考えれば、全力全開で否定できないのが地味につらい。泣きそう。
やっぱ死神じゃんこいつ。的確に殺しに来てるわ。
「なんで泣きそうな顔してるんですか……これも全て伊織先輩のために私が寝る間を惜しんで考えたんですよ!」
「あ、はい。ありがとうございます……」
よく見れば雛森の瞼には薄っすらと黒いものが見えた。本当に寝る間を惜しんで考えてくれたみたいだ。
なんで俺のためにここまで……と思う心と、それで見つけてきたのがこれなの? という嬉しさと疑念が螺旋を描いている。
でも元を正せば、こいつが恩返しの押し売りしてるだけだからな。
「これは信じてない感じですね」
「いまいち理解しきれてない」
「では、恋愛心理学をひとつ説明しましょう! 伊織先輩は反動形成という言葉を聞いたことがありますか?」
「反動形成? 初めて聞いたわ」
「それでは、誰かに恋をした時、自分の気持ちと反対に、好きな人へ意地悪している人を見たことはありますか?」
「それは……あるな」
小学生の時、好きな人にあえて意地悪している友達を見てきた。なんで好きなのに意地悪するのか訊けば、自分でもよくわからず、なぜかそうしてしまうと言っていた記憶がある。
「心理学ではそれを反動形成と言います。無意識に自分の気持ちや感情を抑圧していて、素直に表現できず、その反動で正反対の行動を取ってしまうというものです。しっくりきましたか?」
「ああ。なんかすごいしっくり来たわ」
あの時自分でもよくわからないって言っていたのは、まさに無意識で自分の気持ちや感情を抑圧していたからってことか。
無意識なんだから自分で気がつけるはずもない。
「反動形成をしてしまう理由はいくつか考えられますが、でも今はいいです。とにかく、今ひとつ心理学で人の気持ちを論理的に解明することができましたね」
「まあそういうことになるんだろうな」
「そう、つまり人の気持ちは学問で説明できるんですよ! だからこの学問の力で、氷瀬先輩に好意を持ってもらえるように先輩が立ち回ればいいんです!」
どうです、この完璧な作戦は! と雛森は寂しげな胸を強く張って見せた。
いまいち納得し難いものもあるが、しかし説得力があるのは事実。人の気持ちは学問で説明できる。それに従いうまく氷瀬に好意を持ってもらえるように立ち回れば、いつかは好きになってもらえるだろうという作戦。
こやつ……結構真面目に考えてきてやがる。あまりの本気っぷりに若干押され気味な俺。まさか会って間もない奴のためにここまで真剣に考えてきてるとは思いもしなかった。
俺ってこいつにどんな恩を施したんだよ。ここまで頑張ってくれるほどの恩って結構なもんだぞ? でもやっぱり彼女のことは思い出せなかった。
「理解はできた。全てを学問で片付けるつもりはないけど、とりあえず作戦を聞くだけ聞いてやるよ」
俺の氷瀬への想いまで学問で片付けられるつもりはない。
でも、氷瀬と仲良くなるためにその恋愛心理学とやらが有用なら、使ってみる価値はある。
「そうですね。では、まず伊織先輩と氷瀬先輩はどれくらい仲がいいんですか? そこから作戦を考えます」
「俺と氷瀬? この前の告白未遂が初めてまともに話した感じだな」
クラス替えの時に自己紹介とかはしたけど、話したことがあるかと言えばそうじゃない。
あの時が氷瀬と初めてちゃんと話そうとした時だ。
「…………」
雛森は俺の回答を聞くと静かに目を閉じ、ふぅ……と一息吐いてノートを閉じた。
「この作戦はおしまいです。伊織先輩は氷瀬先輩と付き合えません。お疲れさまでした」
「待て待て待て待て! 恋のキューピッドが真っ先に諦めるな!? どうしたんだよ急に!? ちょちょいのちょいじゃなかったのか⁉︎」
いきなりお前は氷瀬とは付き合えない。お疲れ。とかキューピッドが言うセリフじゃないんだよ!
俺が抗議の声を上げると、雛森は可哀そうなものを見る目を俺に向けた。
「恋愛心理学には、初頭効果と言われるものがあります」
「それが?」
「これは第一印象で抱いたイメージをその後もずっと抱き続けるというものです。氷瀬先輩と初めてまともに向かい合ったのがあれなら、伊織先輩の印象は最悪でしょう」
「それは半分以上お前のせいだけどな」
「…………」
無言で目を逸らすのはやめろ。ちゃんと自分の責任と向き合え。
俺が今、陰でゴミカスと言われている原因は間違いなくお前にもあるからな。己の過失から逃げるな。
「そしてその初対面で恋愛対象外と判断されると、心理学上覆すのは非常に難しいです。あの時の氷瀬先輩からのお幸せにの言葉、それが意味するところ、つまり……詰みです」
「なん……だと……」
恋愛心理学を認めた側から、その学問にぶっ殺されそうなんだが!?
上げてから落として俺の夢を砕いていくんじゃねぇ!
「恋のキューピッドが諦めんなよ! 恋愛心理学で何とかしろよ!? 今その学問で俺の首絞められてんだぞ!?」
「うるさいですね! 告白するなら普通ある程度はお互い仲良くなってる前提だと思うじゃないですか!? なのにほぼ初対面? 初対面であんな告白しようとするとか頭おかしいんですか!?」
「仕方ないだろ! 想いが溢れちまったんだよ! 止められなかったんだよ!」
「そこは止まってくださいよ! もう私の作戦全部おじゃんじゃないですか! 先輩のために使った時間返してください!」
「俺に恩を返すんじゃんなかったのか!? このままだとお前俺に仇しか返せてないぞ!?」
「それは先輩側にも問題がありますよ! どう考えてもあのシチュエーションは仲良くなってからやるもんでしょうが!」
「う……」
俺は目を逸らした。
頭がおかしかったのは理解してる。あの時の俺はどうかしてた。氷瀬のことしか見えてなかったよ。氷瀬のことを真の意味で考えられてなかったよ。反省してる。
でも、その一発で詰みなの!? 慈悲はないのか!?
「もう……逆転の余地はないのか?」
「伊織先輩のアホさ加減に勢いで詰みと言ってしまいましたが、それは誤りです。初頭効果は、覆すのは難しいと書いてあるんです」
「つまり……可能性はゼロではないということか」
雛森が小さく頷いた。
「はい。高く険しい道ですが、詰んでいるわけではありません」
「なんだ。それなら全然大丈夫だな」
よく考えれば、俺が氷瀬と付き合うのなんてそもそも難易度ベリーハードなんだから。
ついこの前まで道端の石ころでしかなかった俺。今は石ころから昇格してゴミカスと認知されるようになった俺。好きの反対は無関心。ゴミカスでも認知されいるだけまだ希望はある。前向きに考えないと始まらない。
そして氷瀬は学年で人気を集めている博愛の女神。
俺たちには最初から貴族と平民くらいの身分差があるんだ。
「やり直すなら、これくらいハードな方が丁度いい。その分プラスに振れた時の効果が絶大だ」
「やっぱ氷瀬先輩が絡むと先輩はアホみたいにポジティブになりますね」
「これ、俺の長所だから」
「ま、それなら私も精一杯力になりますね!」
「あんま期待しないでおく」
「そこは素直に受け取るところなんですよ!」
「はいはい。じゃあ頼んだぞ。俺の恋のキューピッドさん」
「お任せください! 大船に乗ってくださいよ!」
泥船じゃないことを祈る。
今度は俺だけの気持ちじゃなくて、ちゃんと氷瀬のことも考える。
そうしてもう一度告白するために、ここからまた始めよう。
恋愛心理学という謎学問を力として。
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