一章 サラリーマンの身の上

1.

第1話

 不意に、時報が聞こえた。

 17時になったようだ。

「早く帰らなきゃ……」

 無意識に呟き、動揺する。

 もう、ぼくには帰るべき場所がないのに。母さんだって、きっとぼくの事なんか――。

「……らい。ミライ!」

 不意に名を呼ばれ、ハッと顔をあげる。コユキがこちらを覗き込んでいた。

 その真剣な眼差しに、ぼくは狼狽える。

 コユキ達に見られただろうか。何かを、勘付かれたのだろうか。

「いきなりで悪いけど、走れるかい?」

 しかし、コユキが告げたのは全く違う事だった。

 突然の提案に、ぼくは目を瞬かせる。

 そして、彼女に示された方角に目をやり――ぼくはゆっくりと目を見開いた。

「あ……」

「ミライ。行けるかい?」

 改めて問われ、頷く。

 駆け出したその姿を、少しの間呆然と見つめた。

 先程の眼差しが忘れられず、ぼくの心をざわつかせた。今見た光景が、過去の自分と重なる。

 不安、恐怖、孤独、死――ジサツ。

 慌てて首を振り、気持ちを振り払った。

 そして、置いて行かれぬよう、彼女の後ろ姿を追いかける。

 今過ぎった感情から逃げるように。前を行く白い死神に、気付かれぬように。

 遠くに目を向ける。今すべき事を、言い聞かせる為に。

 ぼくらが見たのは、ビルの屋上から飛び降りる人影だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る