2-2

 俺は走って家まで行った。

 万が一兄貴たちに先に気づかれたら今度こそ血を見るだろうから、馬鹿正直に表玄関に直行したりはしなかった。一ブロック手前で曲がって、向かいの家の裏まで、他人ひとんちのフェンスの隙間を、剪定されてない木の枝とエアコンの室外機と吹き寄せられて腐ったゴミを乗り越えて進んでいった。

 ガレージのかげからそっとのぞくと、芝がきれいに刈られた庭先に、知らない女の人がいた。

 見えた横顔は三十歳くらいで、黄色っぽい金髪が元気よくあちこちにはねている。車の修理をするときに着るような、ボーダーのTシャツに薄いブルーのデニムのオーバーオール姿。

 兄貴たちも全員一緒にいて……アルの兄貴がポーチの前で赤ん坊を抱いていた。

 女のひとが体をひねったので、彼女もなにかちっちゃなもの――赤ん坊を抱っこしているのがわかった。

 遠すぎるのと、俺がいるっていうのがバレないように風向きを考えて隠れてたから、においまではわからなかったけど……たぶん十中八九、人狼だ。キースの恋人だった……もしかしたら俺たちの継母ままははになってたかもしれないひと。

 アルフレッドがそのひとに向けた顔は、今まで見たことがないくらいおだやかだった。あの、電流柵のワイヤーみたいにいっつもピリピリ張りつめてた兄貴の表情が、年増の娼婦だって処女ヴァージンに戻ったみたいに頬を赤らめるだろうってくらいやさしくなっている。おまけに(信じられないことに!)、ギルの兄貴が、女のひとが抱いてる赤ん坊をあやそうと、ふざけた顔で一生懸命両手をひらひらさせてる!

 いつ赤ん坊が恐怖で泣き出すんじゃないかとハラハラしたけど、母親が笑ったからか泣き声は聞こえてこなくて、それどころか、喜んでるのか、ちっちゃな手が白いおくるみから突き出してぱたぱたふられるのが見えた。ギルの兄貴の顔が崩れたみたいにとろける。

 ほんとにちっちゃな手だった――ノエルと同じくらいの。

 バートとバーニーのふたりがギルを押しのけて、同じようにおかしな顔をしてみせる。

 俺は頭のてっぺんから血の気がひいていく音が聞こえたような気がした。

 今見てるのはきっと幻だ、だって……だって当然そこにいるはずのやつがいない。

 心臓が冷たい手につかまれたみたいに、痛いくらいにぎゅっと縮む。喉にかたまりが詰まって……息が……息ができない。

 そのうち、アルの兄貴が抱いてる子が泣き出した。ロジャーがすぐに家の中に駆け込んで、両手にでかいトートバッグをふたつ下げて戻ってきた。たぶんおむつかなんかが入ってるんだろう。

 女のひとがロジャーに話しかけても、やつは首をふって、親指で自分の胸を指した。ギルの兄貴もロジャーになにか言う――きっと、「お前にできんのかよ」って言ってるんだ……。

 芝生の上でみんなで寄ってたかって赤ん坊ひとりのおしめを替えようとしてるのを、俺はまともに見ていられなかった。水の中にいるみたいに視界がぼやけて、ほとんどなにも見えなかった。

 キースはアルフレッドのことを誤解してたんじゃないだろうか。

 親父もおふくろも生きていたときは、俺の家族クランはまともだった。兄貴たちは乱暴だったけど、荒っぽいだけで、面白半分に俺をいじめるなんてことはしなかった。αアルファの……アルの兄貴はまだ変身もできない俺を、ふかふかの腹の上で遊ばせてくれたことさえあった。俺が耳に噛みついても尻尾をひっぱっても怒らなかった。

 キースだって……俺のしゃべりかたやものの見方は、キースの兄貴から教わったようなもんだ。一族クランの誰よりも頭が切れて皮肉屋で、でもふたりのαアルファには忠実だと思ってた。俺を一番かわいがってくれたし……たとえそれが俺を駒みたいに使うためだったとしても……全部が全部嘘だったとは思いたくない。俺たちは家族だから……俺の中にも、キースみたいなものがあるってことだ。だったら、クリスがほめてくれるような、俺のまともな部分も、兄貴の中にあったっておかしくない。

 なんで……なんでクリスにあんなことしてまで血を飲んで……力をつけて、アルの兄貴とろうとしたんだよ。そんなことしなくても……その前にちらっとでも話をして、実は俺、ガキができちゃったんだよな、女も呼んで一緒に住まねえ? って言ってれば……今ごろは俺もあの中にいて……キースの兄貴もみんなで……親父のことさえ黙ってりゃ……親父を思い出すと鼻の奥が痛くなるけどキースならそんな芸当朝飯前だったはずだ。なのに……それなのに……。

 俺たちは一体どこでまちがっちまったんだろう。家族だったのに。

 もし……もしあのときキースの兄貴がたとえば俺にこう言っていたら……

 悪かったよ、ディーン、あの男のことをお前がそんなに大事にしてたなんて思わなかったんだよ。ほんのおふざけで、ついでにちょっぴり血をもらうくらいのつもりだったんだ、興奮してちょっとやりすぎちまっただけでさ、なあ、お前ならわかるだろ、許してくれるよな……?

 俺は許さないわけにはいかなかっただろう、だって家族だし、俺は一番の下っぱオメガだし……。

 でもあのときの俺は兄貴が、たとえ冗談でも群れのできそこないに謝るだなんて天文学的にありえないと思い込んでいたし、それになにより、謝ってほしかったのは俺にじゃなくてクリスにだった。

 クリスは兄貴を許しただろうか――たぶん、許すって言うと思う、神父だからな。

 でも、ほんとのところはどうかわからない。やっちまったことは消えたりしない。

 兄貴のやったことも、俺のやったことも。


 俺は泣きながら司祭館うちまで歩いて帰った。

 いいトシした男子高校生が鼻水すすりながら、涙を拭こうともしないであるってるもんだから、すれ違うやつらがみんなギョッとして、中にはそそくさと反対側の歩道へ渡るやつもいたけど、そんなのに構ってなんかいられなかった。「どうした坊主、失恋か?」って、警備員のおっちゃんにからかわれても無視した。

 途中で、五歳くらいの孫娘を連れたばあさんが俺を呼び止めて、ふちにレースの飾りのついた、いい匂いのするハンカチをくれた。

「なにかお家で悲しいことでもあったの?」っていうからうなずいたら、ばあさんはそれ以上なにも聞かなかった。

 夕方になって司祭館に着いても、ダルすぎて、尻ポケットに入ってるカギを取り出すのもかったるかった。泣きすぎたのと、おまけにハンカチで目をこすりすぎたせいでまぶたがろくに開かないし、ハンカチは絞っても絞っても水びたしで、俺が神サマだったら、全人類は洪水で溺れ死んでいただろう。

 盛大に鼻水をすすりあげてインターコムを鳴らした。

 すぐに、聞き慣れた足音がして、

「はい、どちらさ……わッ」

 クリスの声が聞こえた瞬間に、枯れたと思ってた涙がまたあふれてきた。

 カギは持ってんのに誰かにドアを開けてもらうってのは……そこがホームだからだ。

「どうしたんだディーン、車にかれでもしたのか?!」

 俺の無事をたしかめるみたいに、頭から肩、二の腕を医者みたいな手つきでなぞる。

「どっこも……なんともねーよ」

 鼻がつまってヘンな声だ。

「家……ちょっと……見に、行ったら……」

「なんだって、どうしてまた、まさかお兄さんたちに――」

「ちが……」

 もう言葉にならなかった。

 俺がつっ立ったまま泣いているのを見て、クリスはそっと背中を押して俺を家の中に入れ、それから玄関先で俺を抱きしめて、涙と鼻水が止まるまで「よしよし」してくれた。

 ……それっておかしいよな。だって、俺はもうクリスより半インチはデカいんだぜ。サマにならねえよ。

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