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「それで、このあいだ少しお話しした件なのですが……」クリスが声のトーンを落とした。
いわゆるオトナの話ってやつだ。
俺はフンイキを察して、ちびたちがジャマをしないように、ジェンガかなんかしようぜとふたりの兄弟を誘った。
床に寝転がってちびたちと一緒に木のブロックを積みながら、耳だけはぴんと立てる。
耳で聞くだけじゃない。俺の見たところじゃ、モリソンさんは痩せてはいないけど、顔色があんまりよくない。ぱんぱんに張っていた風船がちょっぴりしぼんだみたいな感じ。
赤ん坊の夜泣きと、まだまだママにおやすみのキスをしてもらいたいし絵本も読んでもらいたいいたずら小僧ふたりの世話で手一杯なんだってのはカンタンに想像がつくが、目の下に隈ができているし、髪だって前よりぼさぼさだ。ほかにガキのめんどうをみてくれる人間がいなきゃおちおち買い物にも出かけられないから、クリスと俺が日用品なんかを届ける回数も増えた。
生きてる限り人間はものを食うし、おっぱいだってタダで出てくるもんじゃない。ハダカで生活してるわけじゃないし、カゼだってひく。
ノエルがお腹にいたときから、モリソンさんは〈ウォルマート〉の店員と深夜早朝の清掃の仕事をかけもちしてたけど、いよいよもって身動きがとれなくなった。というのもこれまで格安で家を貸してくれていた家主が死んで、ハワイだかアラスカだかにいる相続人の息子が、周辺の相場と同じだけ払え、嫌なら出て行けという手紙を送りつけてきたからだ。次に同じ手紙を送るときには弁護士の署名入りだとぬかして。
冷血漢のマネージャー(“彼”だとばっかり思ってたら“彼女”だった)はとっくの昔に、将来の顧客になるかもしれない赤ん坊を妊娠したシングルマザーの販売員を職場から追い出していた。
生活保護を受ける資格はじゅうぶんだとクリスは言ったが、モリソンさんはガンとして首を縦にふらなかった。
「それは嫌だよ、神父さま」モリソンさんは近所の子からのおさがりで、フードに丸い耳のついたジャンプスーツでテディベアのぬいぐるみそっくりになったノエルをぎゅっと抱きしめた。「社会保障局のメン・イン・ブラックみたいなやつらは、男と一緒に暮らしているのかとか、フルタイムで働いているのかとか、フードスタンプを不正受給したことはありますかとか根掘り葉掘り聞きまくったあげく、ちびたちを肉売り場の安いステーキ肉みたいにじろじろ見て、『お子さんを里子に出してはいかがですか、そのほうが
「まさかそんなことを言うはずは」とクリス。
「いいや本当だよ、神父さま。トムが生まれたときにも言われたんだから。それであたしはそいつの尻をアパートメントから蹴り出して――失礼、そのとき親しくしてた友達を頼ってこっちへ移ってきて、仕事も増やしたんだ。この子たちと引き離されるくらいなら、車を売ってホームレスになるほうがマシだよ」
モリソンさんの声は力強かったけど、ちょっぴりふるえていた。
俺はクリスを見た。
けど、もちろんクリスだって、
その様子を見ていたら、やたらムカムカしてきた。クリスにも、モリソンさんにでもない。この場にいないどころか声も聞いたこともない
「ノエルの父親はどこにいんだよ」
思わず大きな声をあげたら、トムが一瞬、小さな体をこわばらせて、モリソンさんの座っているダイニングの椅子の足元に駆け寄って、母親の脚にしがみついた。
「名前を決めたって言ってたよな、くれたのは名前だけなのかよ」
「ディーン、そういう言いかたはやめないか」
クリスが硬い
「なんでだよ、だって
十年落ちのトヨタ(カローラ)は
「あれからまた連絡がとれなくなっちまったんだよ、ちょっと電話の調子がおかしいみたいでさ」
そんなのみえすいた大ウソだ。南極にでもいるってのかよ。
「信じらんねえな」
「でもノエルの洗礼式の話はしたんだ、そしたら、いいねって言ってくれて、参列できるならしたいって――」
「そんなやつが来たって
「ディーン!」クリスのお説教用の声。「他人の家の事情がわからないのに、そんなふうに言うものじゃない。モリソンさんが言うように、きっとなにか、連絡できない理由があるんだろう」
「俺なら――俺だったら……そうだたしかまだバイト代がいくらか残ってた、クリスがいないあいだのメシ代でだいぶ使っちゃったけど……」
「気持ちはありがたいけど、ディーン」モリソンさんが微笑んだ。「あんたのなけなしのアルバイト代まで巻きあげようだなんて思わないよ。タダでシッターをしてもらってるだけでもじゅうぶんなのに。あたしは施しを受けるつもりはないんだ、たとえ政府からだってね」
「施しだなんて俺はそんな、だってもとはといえばその」
そのときノエルがふえふえ泣き出して、兄弟も心配そうにちっちゃなテディベアをのぞきこんだので、気まずいまま、その話は立ち消えた。
「……まったく、お前はほんとに天使だよ」
帰りぎわ、ベビーベッドに寝かされたノエルにさよならを言いに行くと、やつはようやく人間らしくなってきた金茶の
「すげえよな、ひと声で、怒った狼男を黙らせちまうんだからさ」
バスでの帰り道、俺たちはいつもより口数が少なかった。
「……なあ、クリス」
「なんだい」
「モリソンさんに、車を売ってもいいって言いなよ。心配しなくても、代わりの車をすぐに俺が見つけてきてあげるからって」
クリスはちょっとけわしい眼で俺を見た。
「それはモリソンさんに聞かれても、彼女の目を見て説明できる方法でだろうね?」
「俺はできるよ」俺は隣に立っているクリスの顔を見ずに言った。「けどモリソンさんがどう思うかは彼女の問題だよ」
クリスは目をつむって苦しそうに言った。
「彼女はお前がそうすることを望まないと思うし、もし知ったら悲しむだろう。それは彼女を助けることにはならないよ」
「イエス・キリストってやつは何千人だかにパンと魚を配ることができたってのに、どうしてたかだか四人の食い扶持もなんとかしてやれねえんだよ。そんなやつより俺のほうがよっぽど役に立つぜ」
こんなことを言ったら、その役立たずの神サマってのを(一応)信じてるクリスがいい顔しないだろうってのは想像がついた。なのに俺の口は勝手に言葉を吐き出していた。
でも、
「……そうだね」
クリスはそれだけ言って、俺たちはまた黙ってバスに揺られた。
しばらくしてクリスが口をひらいた。
「ディーン、お前がノエルや……モリソンさんたちのことを心配しているのはわかるけれど……今まであんなふうに、特定の誰かに対して声を荒らげることはなかったじゃないか。どうしたんだ?」
顔も知らないクソ野郎に対して言いたいことはたくさんあったけど、俺のイライラの原因はたぶんそれだけじゃなかった。クリスには……誰にも言えないけど。
だから、湿って重くなっちまった空気をふり払うように、わざと大きくて明るい声でこう言った。
「前にスミスさんも言ってたけど、ほんと世の中不公平だよ、体はひとつしかないしほかに乗せる相手もいないっていうのに、ムダに車を二台もってるやつもいるのにさあ!」
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