3・天邪鬼とペシミスト(後編)

「私、天邪鬼なんだよね」

 ——あの日、どうして私にキスしてくれたの?

 それから半年が経って本来のポッキー&プリッツの日に私が問うと、海莉は意地悪な笑みを浮かべて答える。

「露骨に距離置かれると、なんとしてでも仲良くなりたくなっちゃうの」

 つまり、私が徹底していた行為は逆効果でありながら、大正解だったらしい。

「だからこーちゃんとどうやったら仲良くなれるかなぁって考えてたら、いつの間にか好きになってた」

 海莉は私の部屋にいると、自分の家に居る時以上にだらけている。引っ越し費用が惜しくて、学生時代からずっと住み続けている1Kの狭い家。私のものよりも海莉のものの方が多い、ぬくもりの溢れた家。ずっと帰らないで欲しいけれど、彼女はもぞもぞと緩慢に、帰宅の準備を進めている。

「なんじゃそりゃ」

「でもすぐわかったよ、この人も私のこと好きなんだって」

「……自信過剰」

 図星過ぎるので変に揶揄うこともできない。

「自信なんてなかったよ。ただ、この直感は本物だって信じたかった。だからあんなに出たんだけどね」

 照れ混じりに笑いながら海莉は言った。彼女の自分を信じる力を少しでも分けてもらえたら、私ももう少しは生きやすくなるのだろうか。

「私結構、自分の善意押し付けちゃうタイプだからさ、ウザがられていつの間にか友達減ってるんだけど、こーちゃんはウザかったらウザいって言ってくれるじゃん? だから安心しちゃうんだ。ごめんね、いつも甘えて」

「甘えてるつもりだったんだ」

「うん。かなり」

「そっか」

 こんな私に。一方的に甘えてばかりだと思っていた私に、彼女も甘えていると言う。心臓の少し下辺りが、じんわり温かくなる。

「ふーん」

「なに?」

 帰り支度を済ませたらしい海莉は、私が夜食用に買ってきたお菓子の袋をちょこんと持って裏面を眺めたあと、ベッドで横たわる私を見下して聞いた。

「グミって何℃で溶けると思う?」

「さぁ。50℃くらい?」

「正解は35℃でした〜」

「儚いねぇ」

 彼女は適当な相槌を打つ私を諌めるようにのしかかってくると、眼の前で手指を艶めかしく動かした。

「つまり、こーちゃんもグミみたいなもんなんだね 」

「どーゆー意味?」

「食べたら甘いし、私が触ったらすぐ溶ける」

「……ばーか」

「まぁね」

 今日はうちに泊まって、明日はここから出勤すればいいのに。起こしてあげるし、朝ごはんも用意してあげるのに。そんな甘えた気持ちが溢れてくるけれど、随分遠くなってしまうからそんなことは言えない。

「じゃあね、おやすみ」

 すっと。立ち上がってシャツのシワを伸ばし、一ミリの未練も感じさせずに帰っていく海莉。

「おやすみ。気をつけてね」

 二人の間にズレが生じないように。私もなんの気ないように、それだけ言って枕に顔をうずめた。


×


「海莉」

 中途半端に溶かされた体が疼く。

 目についたのは、彼女がついさっきまで身に纏っていた部屋着。それを抱き寄せると、内側はまだ温かくて、濃密な彼女の残り香に脳が酩酊する。

「海莉」

 言葉は不思議だ。それが誰かに届くというわけでもないに、口に出すだけで胸を焦がす。じゅくじゅくと爛れるような痛みが心臓から全身に伝わり、その熱を鎮める方法は一つしか知らなかった。

 彼女の香りを頼りに、姿や声音、体温を、そして意地悪な手指の動きを思い出して、それを自分に嵌め込んでいく。私の吐息と、何故か溢れ出る涙が、部屋着に沁み込んでいく。

「海莉——っ」

 錠の落ちる音が聞こえ、慌てて我に返った。リビングへのドアも開かれ、今まで散々名前を呼んでいた彼女と目が合い、言葉を失った。

「ハンカチ忘れちゃってさぁ。……何してたの?」

「別に……なにも」

 ソレ用にずらされた服を慌てて直すも、髪も、呼吸も、乱れたままでなんの説得力もない。現実に引き戻された脳から溢れ出る羞恥心が、全身を熱くする。

「私がいないところでそんなことしてたんだね」

 海莉は法廷を闊歩する検事のような足取りで私に近づくと、耳元まで唇を寄せた。

「こーちゃんの変態」

「ちがっ、これは、その」

 涙でぼやける視界の中、必死で言い訳を探した。

 今まで妄想世界で散々あなたを汚したことはあれど、こうして物品を拝借して事に及んだのは初めてです。だから情状酌量の余地を。とでも言えと? そんなのますます変態性が増していくばかりだ。

「没収」

 あわあわと、機能を失った口をただ動かす私の両手から、海莉は部屋着をにべもなく奪い取って言う。

「自分の服に嫉妬するなんて、思ってもみなかった」

 ジェルボールと共に洗濯機へさっさと投げ捨て、スイッチを押した。

「こーちゃんてさ、されたくないことは嫌だって言うくせに、なんでしてほしいことは言ってくれないの?」

「……それは……」

 言われて、考えて、初めて気づく。知らないからだ。望みに自ら手を伸ばす方法を、知らない。諦めるばかりだった私は、その力がない。

「天邪鬼にはおしおき、しなきゃね」

 せっかく着直したジャケットを脱いで海莉は私の服も剥ぎ取った。電気を消す暇も与えられない。その内、快感と幸福で思考が埋め尽くされていろんなことがどうでも良くなっていく。

 絶頂を重ね、安息をく度に思った。ああ、今この瞬間に死ねたらどんなに幸せな人生だろう。間違いなく、今が一番幸せだ。ここからは、転げ落ちていくだけだ。

「こーちゃん」

 まだ荒い吐息で、海莉は優しく叱る。

「それはダメ」

 私は無意識の内に、彼女の両手を自分の首にあてがっていた。

 ゆっくりと離れていく、手のひらの体温。次の瞬間には抱き寄せられ、私の顔を胸元に沈めてから、染み込ませるように、海莉はもう一度呟いた。

「それだけは、ダメ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る