2・開示と寛容

 この怨恨がむくりと心に芽生えた瞬間は、二週間前まで遡る。それはちょうど、蝉がうるさい季節が終わり、鈴虫がうるさい季節に切り替わったタイミングだった。

 ――一番好きな季節が訪れるまであと二、三ヶ月かかるだなんて最悪。

 ――それから更に二、三ヶ月経てば人間がうるさい季節が巡ってくるだなんてしんどい。

 ――人々が触れ合う摩擦熱と会話から生まれる湿度は、じっとりと汗ばみ絶えない光の中明けていく熱帯夜を創り上げる。そんなもの、私は望んでいない。みんな適切な距離感を保って、肌も喉も心もカラカラに乾燥してしまえばいい。もう一度、氷河期が地球を覆ってしまえばいい。

 海莉と付き合う前の私は、年がら年中そんな思考で満たされていた。

 そして二週間前の私は――これまでの自分を棚上げして――生まれて初めて味わう他人の体温を存分に堪能し、たまらない満足感と幸福感で構成された微睡みの中にいた。

「ダメだよこーちゃん。ほら、保湿保湿。化粧水はこれで……乳液はこっちね。結構高かったんだけどね、すんごい保湿してくれるから。それでクリームはこれ使って。新しいの買ってきたから」

 もう何度体を重ねたかわからない、狭くてボロいシングルベッドの上で丸くなった私の体を海莉が揺らす。私が視線を向けると、手品師のように小さな鞄からいくつもの化粧品を取り出していた。

「いいよ。ベタベタするし」

「よくない。それにベタベタしないやつだから。ほら」

 海莉は、私とベタベタの許容値が大きく異なっていることをいつになっても理解してくれない。

「あーもー眠気覚めるー」

「そんなんだからこーちゃんすぐ肌荒れするの。ちゃんとケアしなきゃ」

 ぴちゃぴちゃと音を鳴らしながら、彼女の手のひらが私の頬に触れる。化粧水が染み込み、乳液に覆われ、クリームにまるごと包まれる。これでベタベタしないと言うんだから我慢ができる女子は凄い。

 そういえば海莉から「思ったより痛くなかったよ」と勧められて参じた脱毛サロンでも、私は想像を絶する痛みに悶えていた。おそらく人として、諸問題に対する耐久値が低すぎるのだろう。

「今は良くてもね、十年後に後悔するんだからね」

「はいはい」

 そんな言い方をされてはまるで十年後からタイムリープしてきたように感じるけれど、なんてことない、海莉はきちんと未来を見据えて行動しているだけ。脳内をひたすら”今”に支配されている私とは違う。

「お水も飲んだ?」

「飲んだ」

 飲んでない。

「二リットルだよ?」

「飲んだってば」

 飲んでないってば。記憶にある水分補給は昼食時のコーヒーくらいだ。まぁ人間、食事でもそこそこ水分を摂ってるらしいし大丈夫だろう。

「常温だよね? 内臓が冷えると「もーウザい。寝るから静かにして」

「はいはい。おやすみ、こーちゃん」

 背を向けてこれ以上のコミュニケーションを拒む意思表示をすると、海莉は変に高ぶらずに受け入れ、背中に寄り添う。彼女の手のひらから、温度が流れ込んでくる。

 私がウザいと言うと、決まって嬉しそうに大人しくなるなんて本当に妙なへきの持ち主だ。

「そーだ、こーちゃん」

「……」

 寝たふりをした私の髪を撫でながら、海莉が言う。

「私達のこと、家族に言っちゃった」

「……はい?」


×


 少し経ってから私は「いや当事者である私を差し置いてなんてことを」などを考えたりしなくもなかったが、聞いてすぐの私はどちらかと言えば呆気にとられてしまい、「なんで?」とだけ聞き返していた。

「なんで?」とだけ聞かれた海莉も、なんでかだけを話した。

 テレビで同性婚を巡る裁判が取り沙汰されているときに、なんとなくそういう会話になって、なんとなく打ち明けてみると、向こうもなんの気なく受け止めてくれたとのこと。

 それから二週間後、今までみたいに家に招待され、今までみたいに海莉の妹のりっちゃんも一緒にゲームをして遊んで、今までみたいに夕食は家族団欒に混ぜてもらった。

 海莉のお父さんも、お母さんも、お兄さんも、私達へ優しい言葉をかけてくれた。りっちゃんはまだなんのことかわからないみたいだけれど、みんなが幸せそうな顔をしているからか彼女も終始楽しげだった。

 それからお風呂を借りてバスタブに沈んでいると、唐突に涙が溢れ出す。

 良い感情のソレじゃない。

 あまりにも、自分が惨めで、たまらなくなった。

 俺は同性愛に理解があるんだと豪語するお父さん。

 なんたら州のどこなら同性婚ができるとか蘊蓄うんちくを垂れるお兄さん。

 私もなんかわかるなぁ、としみじみ語りだすお母さん。

 どいつもこいつも、不愉快でたまらなかった。

 今までのままが良かったのに。ありのまま、かつてのまま接してくれたらそれで幸せだったのに。

 明らかな一線が引かれてしまった気分だ。

 突然、みんなが薄っぺらい仮面を被ってしまったようだ。それも、私達に気をつかって。

「……私達は……特別なんかじゃない」

 行儀悪く浴槽内で不満を垂れると、ブクブクと泡になって消えた。

 この醜い感情も、この泡みたいに消えてくれたらいいのに。


×


 もしも海莉に兄と妹がいなくても、ここまで肯定的に受け入れられただろうか。血が途絶えるとしても、私に対してここまで友好的だっただろうか。

 私の家族は、私の存在を否定した。一人娘が世間の叫ぶではないことを嘆いた。矯正しようと目論んだ。そして私は、逃げ出した。

 わかっている。

 嫉妬していただけだ。

 理解のある家族に。

 熱帯夜を共に過ごすパートナーがいる人々に。

 私はいつも嫉妬していた。それらを望んでいないのではなく、望んでも手に入らないから、僻んでいた。そうやっていつだって氷河期を望んでいた。どいつもこいつも凍りついて、私と同じ寒さと痛みと絶望を味わえ、と。

 その頃と似たような、名状しがたい感情が沸々と込み上がり、私はそれに身を任せることにした。

「どうしたの? 珍しいね」

 お風呂から上がって、また少しゲームをして、二人で一つの布団に包まれたあと、本当に珍しく、私の方から海莉の白い柔肌に指先を滑らせる。

「……こーちゃん?」

 私の慟哭は、彼女の嬌声で代弁してもらうことにした。

 海莉は明らかに困惑している。西側の部屋では両親の、東側の部屋にはりっちゃんの部屋があるからだ。妙な声音や物音が立つことを危惧しているのだろう。それでも拒もうとはせず、徐々に頬を赤く染めていく。

「……」

 私達は他のどんな恋仲とも変わらない。

 この間柄は、誰に恥じることも、憐れまれることもない。

 互いに相手の心も体も求める。肌を重ねて孤独を埋め、理解を深め合っていく普通の人間同士だ。

「こーちゃん、ダメ……」

 いつも凛として私を日の下へ引っ張り出してくれる海莉が、必死に声を押し殺そうとするその姿にかつてない量の脳内麻薬が迸り、神経が焼き切れそうになるくらい興奮した。

 そして結局、当初の予定はどこへやら。私はただ海莉の身体に溺れ、気づけばそのまま眠りに就いていた。

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