第97話 ねぐら


 「弥吉。助かったぞ」

 そう言ったゲンノウは、山道の脇にあった石に腰を降ろした。

 「悪いが、まだ頼みがある」


 「言わなくても、分かっているよ。

 沢に置いてきた水桶に水を汲んで、持ってくればいいんだろ」

 弥吉が答えた。

 ゲンノウを支え、斜面を登るのには邪魔であったため、水桶は沢に残してきたのだ。

 弥吉は、ゲンノウの返事を待たず、再び沢を降り始めた。

 「急がなくともよい。気を付けるのだぞ」と、ゲンノウの声が後ろから聞こえた。


  ◇◆◇◆◇◆


 「弥吉。最後の頼みだ。

 オレのねぐらまで、水桶を運んでくれぬか。

 そうすれば、四十文を払おう」

 手頃な太い枝を杖としたゲンノウが言う。


 「そんなにもらっていいの!」

 弥吉が驚く。


 「もちろんだ」とゲンノウが笑い、二人は、磐梯山をさらに奥へと進んでいった。

 途中、ゲンノウはこう言った。

 「オレに会ったことは、父や母には言ってはならん」


 「どうして?」


 「この辺りで蘭学者と言っても、それを理解する者はいまい。

 得体の知れない人間だと思われて、役人に通報されてはたまらんわ」


 「でも、銭は誰にもらったって言えばいいの?」


 「……ふむ。山菜を摘んでいたら、山籠もりをしている修行中の浪人に会ったと言えばよい。

 その浪人に山菜を売って、銭をもらったと言うのだ。

 ついでに、ひょろりと弱そうで、とても仕官の望みはないとでも付け加えれば、父も母も安心するであろう」

 顎をなでながらゲンノウが言う。


 そこから二人は、さらに山の奥へと入った。

 「こんな場所に、小屋を建てたの?」


 「小屋では無い。

 ほどよい洞窟があったので、そこを仮のねぐらとしておるのさ」


 「ランガクシャは、こんな場所で何の勉強をするんだい?」


 「検証だ」


 「ケンショウ?」

 ゲンノウの答えに、弥吉は怪訝な顔になる。

 ランガクシャと同様、ケンショウの意味が分からない。


 「書物に書き記してあったこと。

 そこから自身で考えた新しい理屈。

 そういうものが、本当に正しいかどうかを実際に確かめることさ」


 弥吉は、よく理解できないまま、「ふ~~ん」と返し、ゲンノウに忠告した。

 「だけどさ、ねぐらを作るなら、もっと人里に近い場所の方がいいと思うよ。

 この山には、熊がいるんだよ」


 「知っておる。

 熊よけに、獰猛な犬を三頭飼っておるわ」

 答えたゲンノウは、緩やかな斜面を回り込むように降りた。

 「ここだ」

 

 弥吉がゲンノウに続く。

 そこは岩肌が露出し、たしかに洞窟があった。

 ただし、大人が身を屈めて潜れるほどの出入り口は、木を組み合わせた蓋で閉じられている。


 「そっちは犬小屋だ。

 オレが寝泊まりしているのは、こっちだよ」

 ゲンノウが閉ざされた洞窟の前を通り過ぎる。

 

 そこには出入り口が広く、浅い洞窟があった。

 洞窟と言うより、岩が庇のように出っ張った下に出来た空間である。

 そのままでは寝床と出来ないためか、手製の壁を作っていた。

 組み合わせた枝を骨組みとし、そこに泥と枯れ草を塗り込んで乾かした壁である。


 壁と岩肌の間に作られた出入り口にはムシロが掛けられ、中を覗くと、石を積んだ囲炉裏があった。

 近くには、食料を保存しているのか、幾つもの甕がある。

 その少し奥は、うまい具合に一段上がった平たい石があり、そこに寝具代わりの藁が敷き詰められていた。

 ゲンノウにうながされ、洞窟内に入った弥吉は水桶を置いた。

 湿気が無く、なかなか快適なねぐらである。


 「弥吉。先ほどの話の続きだが」

 

 「話の続き?」

 弥吉は怪訝な顔になった。

 

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