第95話 ゲンノウ


 「ランガクシャ?」

 聞きなれない言葉に、弥吉の不信感はさらに増した。


 「海の向こうの異国の学問を学んでおるのさ」

 ゲンノウと言う男は、沢の下から弥吉を見上げてそう言った。

 

 ……異国の学問を学ぶ。

 ……そういう人間が、なぜ、磐梯山の奥深くにいるのか。

 ゲンノウの言葉で、弥吉は、さらに警戒した。

 弥吉は、知識として海は知っているが、見たことは無い。

 磐梯山は東北地方の内陸部を貫く、奥羽山脈に連なる山岳のひとつである。

 日本海には遠く、太平洋にも同等に遠いのだ。


 弥吉は昔、父親に連れられて猪苗代の湖を見たことがある。

 猪苗代湖は、琵琶湖、霞ヶ浦、サロマ湖に続く、日本で四番目に大きい湖である。

 父親は猪苗代の湖面を眺めながら、ここより遠くには、猪苗代よりも何十倍、何百倍も大きな湖のごときものがあり、対岸が見えることは無い。それを海というのだと、弥吉に教えてくれた。

 その父親にしても、海を実際に見たことは無い。

 しかし、弥吉は、その海の向こうに国があることは知っている。

 仏教を日本に伝えた、「唐」や「天竺」という国である。

 すでに一千年近く前に「唐」は滅び、このころ中国大陸を治める王朝は「清」に代わっていたが、そういう細かな知識までは無い。


 「唐か? おじさんは僧侶なのかい?

 そうは見えないけどな」

 弥吉が問う。弥吉にとって、異国と言えば唐であり、学問をすると言えば僧侶である。


 弥吉の言葉を聞いたゲンノウは、さらに感心した顔になった。

 「少ない知識から、よく観察し、よく判断をする」

 おだてている訳でも無く、真顔である。

 「名を教えてくれぬか」


 「……弥吉だよ」

 弥吉は答えた。


 「弥吉。ともかく降りてこぬか。

 見上げたままで話すのは肩が凝る」


 弥吉は、まだ「うん」とは言わなかった。

 しかし、警戒しつつも、ゲンノウという男に、妙に惹かれ始めていた。


 「何も取って食うわけではない」

 笑みを浮かべてそう言ったゲンノウは、懐に手を入れると、数枚の穴銭を取り出した。

 「その道まで上ることに手を貸してくれれば、このように駄賃を払おう」

 

 「うそじゃないよね」

 弥吉は、ゲンノウの手の平に乗る穴銭に目を奪われた。

 

 「……何か買いたいものでもあるのか?」

 弥吉の反応の変化を察したのか、ゲンノウの声の調子が変わった。

 不思議そうに、そして優しく弥吉に問う。


 「……母ちゃんが病気なんだ」

 弥吉は正直に答えた。

 「妹を産んでから、体の具合が悪くなっちゃったんだよ。

 だから、銭をくれるなら、何か精のつくものを買ってやりたいんだ」


 「そう言うことであったか」

 ゲンノウが納得した顔になった。

 「弥吉。ともかく降りて来い。

 そして、母の具合をもう少し詳しく聞かせよ」


 ゲンノウの言葉は、「頼み事」から「命令」に変わった。

 「……うん」

 弥吉は反発せずに頷いた。

 もしかして、このゲンノウという男は、母親を助ける力になってくれるかも知れないと感じたのだ。

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